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"忠太"奮闘記

朝顔日記-第46日、そして終戦・・・。

2011-08-15 08:46:55 | 思い出
◆サギソウが一足お先に開花
 お盆にタイミングを合わせるかのように昨夜開花してくれた。
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◆アサガオ、ムムッ!
 まだまだ、気を持たせること。
 
◆終戦記念日の思い出
 忠太、9歳の夏休み、旧満州・奉天市の加茂小学校校庭に全児童が集められ、直立不動で頭を垂れ正午「玉音放送」(4分47秒)を聞いた。
 雑音にかき消され、その上児童には難解な言葉も多く、放送内容は分からなかったが、先生から、早く家に帰るように言われ帰宅した。
 
 良く知られる「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分は、後日大人の会話と活字で知ることになる。
 夕方、小規模な暴動が起きて近くの工場建物の壁が壊され、中から「反物」のようなものを担いで逃げる人の姿が見えた。
 怖いというより、一体何が起きたのか分からず、ただ茫然と二階の窓から見ていた。
 近所の人たちが近くの倉庫から持ちだせるものなら何でも・・・、ということで小学4年の忠太も駆り出され、重い袋を引きずって家まで持ち帰り、開けてみたら「氷砂糖」だった。当時甘いものが無かったが、どうしてこんなに多量の氷砂糖が保管されていたのか未だに謎のまま。
 ウニの塩漬けなど、当時滅多に口にできないものもあった。
 後に「隠退蔵物資」という言葉を知った。まさにこれであった。
 旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなったいわゆる「隠退蔵物資事件」に比べれば「氷砂糖」など可愛いものだった。
 勝っても負けても、いつも損をさせられるのは庶民。

◆満州国の放送とラジオ
 当時、ラジオ放送を聞くには「許可」が必要だったなんてこと全然知らなかったし、有料だった(放送無線電話聴取料)にもかかわらず、広告放送が既に存在していた。(日本国内での民間放送が開局する10年以上前の話)
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 受信機の内側に張られた注意書き「ラヂオは許可を得て聴きませう(しょう)」
 受信機を購入してもすぐには使えなかった。
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◆父はシベリヤへ抑留
 終戦の直前に「召集令状」が来た父は、前線で武装解除されシベリヤ行となり、およそ2年間のラーゲル生活を経て帰国(昭和22年6月)。
 後々、極度の栄養失調が肝臓病の引き金となり13年2か月後、享年56歳であっけなく黄泉の人となる。 
 ボチボチ自分史を兼ね昭和~平成の整理してみたい “忠太”