1848年の二月革命の後、サンドは革命が失敗に終わったことに絶望し、ノアンに戻り傷ついた自らの魂を慰めるために田園小説を書いたのだと一般にいわれている。しかし、自身が田園小説と呼ばれる作品の序文に書いているように、サンドが田園小説を書いたのは自分のためではなく、人々の心を慰めるためであった。
しかも、1848年のサンドはまだ44歳。エネルギッシュに創作を続け、フランスの文壇で大きな位置を占める、働き盛りの女性作家である。余生を過ごすために故郷に戻るには、あまりにも早すぎる年齢だ。1850年、13歳年下のマンソーとの愛の生活について、サンドは編集者エッツェルに次のように書き送っている。
「私は元気です、それにとてもとても幸せなのです。本当に自分が幸せであることを理解できたのは、初めてのことなのだと思います。(・・・)それが存続しうるのか、続くべきものなのかなどということは問題ではないのです。そんなことは考えたくもありません。(・・・)なんていうことでしょう、愛され完全に愛しうるとは、かくも素晴らしいことなので、その終わりを予告するなんてばかげているとしか思えません。」
サンドはまさに作家という職業人として成熟期を迎えていた。1850年から1865年の15年間に、回想記、100通近い手紙、批評や序文を除いても、50冊はくだらない作品を著している。そのうちの26作が小説であり、およそ20作が劇作である。劇作化され、パリのオデオン座で上演された『棄て子フランソワ』は大成功をおさめたのだった。