今日の首題は私の第1回の著作の題名ですが、新潟県長岡市にある高校の時代にドイツの神父さんから教えていただいたパウロと言う人の言葉でもあります。この言葉は長い心理療法の仕事を大変助けてくれました。海外の研究室で深層心理の研究をするときも、大学病院で治療に当たるときも、私を助けてくれた思想です。厳しい人生を生き抜いていくときの知恵は他者の中にあるかもしれませんが、最終的にはその答えは必ず自分の身体の中に存在している、と言う哲学をこの言葉は示唆しています。患者さんの治療方法も、医者の中というようりも患者さんの身体の中に存在している、と言う考え方です。この言葉は生きる知恵と希望を私に与え続けています。<人の身体は神の神殿>、しばらくこの哲学について思索していきます。
失恋の為に何故、人は自殺するのでしょう?精神病理学ではいかなる理由でも自殺する事自体を相当重症なもの、と考えています。健康体ならば自殺は考えません。さて予防医学と言う概念がありますが、生き甲斐の心理学でも、自殺のシグナルとして一番重視するのが初期段階である不安感です。恋の喜びは天をつく壮大な愛の喜びを伴いますが光と影が大きいだけに、初期不安を経過せずいきなり末期不安に突入します。色々の喜びや生き甲斐を感じながら生き抜くコツは恋愛感情を含めた平素の喜怒哀楽を<のんびりと楽しむ習慣>が必要なようです。
ネアンデルタール人が埋葬の折、花を添えた話は有名ですが、古代から人類は魂の存在を信じて生きてきました。現代の比較宗教学でも魂についての定義がそれぞれ解説されています。その代表的な一つが<魂は病む事も無く老いる事もなく、永遠普遍のもので、しかも愛そのもの、臨終の時、身体から離脱する知的生命体>があります。満員電車では不快なことが多発すますが、心と身体はそれぞれ嫌な気分で反発しあつていますが、静かに満員電車の人々を見渡し、この人々にはそれぞれ愛そのものである魂があるんだなあ、と思うと、心と身体レベルでの嫌な気分も、スーッと何となく暖かい気分に変容していくのを感じます.
大人になっているのに、直ぐ怒り出す人、つまり怒りっぽい人は人格形成上、色々辛い問題を抱えています。不思議な事なのですが、宗教を信じている人にも多いのは何故でしょうか?特にお坊さん、それぞれの宗教家は、信徒に囲まれ、ちやほやされている傾向があるので、世間で鍛えられている人々と比較すると子供のような所があり、そこが純粋といえば純粋ですが、いつまでも成熟していない人格であることは間違いないようです。直ぐ、傷つけられた、と大騒ぎする人は、よく観察すると自分で自分を傷つけています。世界共通の問題点なのですが、子供の頃から自分に正直に生きていないと、どれが自分の本音なのか、理想なのが現実吟味力の欠落、と言う問題を抱えています。