どんな素晴らしい知識でも、その活用次第で、宝ともなり猛毒ともなりますが、その分かれ道は本人次第です。環境により、その活用の仕方も違います。例えば心理療法の勉強では体感を案外、重視していて、お固い倫理道徳学者が勉強不足から時々感違いして、この「体感は知恵の宝」という概念を侮蔑し警告を発します。人間は理性と感情の世界を所持しているのは当然で、理性が大事な事も分かるのですが、入院してくる哲学者、宗教家、信念の固い人、職業上の関係で感情や体感を抑え気味の人が、退院していく時は、自分の湧き出す感情や体感をあまり道徳から自虐しなくなっています。残念ながら生身の人間の心と体は理性で一応コントロールさされてはいますが、どんな人間の生活、心の生活、感情の生活でも、堂々と人前で披露できるようなものではありません。「自分は少しも恥じる事は無い」と断言する人は偽善者か少々頭の働きが鈍いか、自己分析が不足しているのです。人は何故、謙遜になる必要があるか、と言いますと、深層心理の世界を神様の前で反省すれば、誰でも気づくはづです。宗教が何故、人類社会に誕生したかと言いますと、己を正直に反省すれば、魂の救いは神仏によらないと無理だと理解出来るからです。とまあ、こんな次第で何故、倫理道徳学者に気を使いつつ、体感が何故、宝か、暫く思索していきます。
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