理性が自分の体感が変だと教えてくれますが、体感をあまりにも信用しすぎると人生が狂う事があります。心がいつも自然体で、どんな厳しい環境、例えば事件、災害、嫌いな人間の出現等の時、それでも、心は無防備で、相手の気持ちを推し量る余裕もあり、現実を受容する余裕感もあり、間をおく心の余裕、現実を理解しようとする気持ち、冷静な理解力、人(人間、人類、生き物)への愛情があれば、このような心の状態の時、体感は本物と言われています。このような平素の人間修行の努力もしないで、体感は宝、と言いきれない現実を認識する必要もあります。それでも心理療法家は赤ちゃんから高齢者まで、更には、どんな生育史の人でも、臨床の現場では、来談者の体感を非常に重視します。精神病と言われている領域の人を治療する場合でも、今ここでの体感が、どんな偏見と病理を背景としていても、その体感を健全な方向へと対処していくのが仕事ですので、その場、その場での体感の内容をキチンと記録しつつ、仕事を進めていきます。体感の内容の記録分析は非常に重要なものです。例えば太陽が昇る時に、あの光を毛嫌いしていた人が、太陽に対して感謝の手を合わせて祈る時、何故か、その人は退院していきますし、月を見て泣いていた人が退院する時は月を愛でる和歌をつくったりしているのです。体感を盲信するのではなく、幸福になる道での、一つの指標とする前提がとても大事な勉強です。体感が狂う理由は日常生活での上記の修行と意識化が必要とされてきます。修行を生き甲斐としないと人間はどんどんとつまらない生活へと押しやられていきます。
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