小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

しつけ

2011-03-30 00:50:11 | 考察文
You-Tubeの動画で、「美女と野獣」を弾いている9歳の女の子は、かわいい。単にかわいいだけでなく、礼儀正しい。それも魅力がある。

しかし私は、礼儀正しい、かわいい女の子に魅力を感じてしまう自分が嫌いである。礼儀正しいと、確かに、かわいさが一層、魅力的になるが。「子供は礼儀正しくあるべきだ」という、大人の石頭の感覚が嫌いだからである。そういう大人の、子供に対する、押し付け的な見方が私は嫌いである。「子供は、かわいくて、礼儀正しければ、それでいいんだ」という大人の雑な見方が私は嫌いである。私は、子供も、大いに自由に思想を持っていいと思うし、なまいきであっていいと思う。私が最も嫌いなのは、「しつけ」という言葉であり、親や教師による、子供に対する、「しつけ」という行為である。「しつけ」というのは、動物に対してするのはいいが、人間に対して、「しつけ」るのは反吐が出るほど嫌いである。「しつけ」という言葉は何か、相手の思想や人格を無視した、人間を人間ではなく、動物と見ている雑な人間がする行為のように感じるからだ。第一、しっかり「しつけ」ても、子供は、親の計画通りの人間には絶対ならないものである。それに、子供を「しつけ」なくても、先天的に礼儀正しい子供は、「しつけ」られなくても礼儀正しい人間になっていくものである。人間は、(子供は)、「しつけ」られなくても、自分で自分をしつける能力があるのである。

サルトルが言うように、「人間は自分が作った所のものになる」のであって、決して、「親が作った所のもの」になったりはしないのである。人間が自分で自分を作る行為、それは、もう、子供の頃から始まっているのである。

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