本田宗一郎の考えに対する異論。
僕が、本田宗一郎、の、「スピードに生きる」、という本を読んだのは、小学校5年の時である。
「スピードに生きる」、は、絶版になっているかと思ったら、別の出版社から、今でも出版されていた。
絶版にならず、出版されている、ということは、「売れる可能性」、があるからである。
ちなみに、石坂洋二郎の「青い山脈」、は、絶版である。
夏目漱石の、「坊ちゃん」、より、面白いと思うのだが、売れない本は、絶版になるのである。
☆
「スピードに生きる」、を読んだ時は、本田宗一郎を、何て、面白い、感性の人なんだろう、と思った。
僕も、オートバイが好きだから、(乗るのも、作るのも)、本田宗一郎の、心は、わかるし、共感するのである。
(作るのも)、と言ったが、僕は、オートバイを作ったことは、ない。
ただ、オートバイの、機能的な構造には、興味があって、知っていた。
中学三年の時、大船駅の自転車、原付、置き場で、明らかに、ボロボロで、乗り捨ててあるのが、あったので、家にもって帰った。
スーパーカブである。
配線をいじっているうちに、エンジンがかかった。
この時は、嬉しかった。
ガソリンスタンドで、ガソリンを、買ってきて、夜中に、乗りまわした。
もちろん、中三だから、無免許運転である。
心地いい、ガソリンの匂い、風を切って走る、爽快感。
など、本田宗一郎の、感覚は、僕には、全て、わかるのである。
「スピードに生きる」、では、本田宗一郎は、何て、面白い、ユーモラスな考えをする人だろうと、面白すぎた。
その時は、本田宗一郎の、考えに、完全共感していた。
☆
しかし、大人になって、You-Tubeを、見るようになって、本田宗一郎の、考えに、共感できなくなってきた。
本田宗一郎は、現行教育を完全否定している。
「人間は、何か、これだけは、誰にも負けない、という得意なものが、あれば、教育は、それでいい」
と言っている。
確かに、本田の言うことにも、正しい面はある。
作曲家とか、漫画家とか、要するに、芸術家には、数学の知識なんて、ゼロでも、いい。
英語、数学、理科、社会、国語、すべてを、全部、出来なければ、進学できない、というのは、間違っている、と、本田は言っている。
それは、確かに、そうだが。
☆
本田宗一郎の、考えの間違い。
それは、本田宗一郎が、物を作る、アイデアの能力が、優れている、特殊な人間である、ということである。
世間の、ほとんどの、普通の子供、は、何か、一つ、突出した能力を、もっている子なんて、まず、いない。
みんな、勉強嫌いで、遊ぶのが、好きな子供が、99%、である。
子供の頃から、音楽の作曲だけは、得意、なんて、子供は、一万人に一人もいない。
しかし、一万人に、一人くらいは、いるだろう。
その程度である。
それは、何事でも、そうである。
だから、子供に、「一つでいいから、自分の得意なものを、示せ。そうすれば、他の勉強は、しなくてもいい」、という教育方針にしたら、どうなるだろう。
誰も、そんなことは、出来ない。
まあ、子供は、遊ぶのが、好きだから、自分の好きなスポーツを、「得意なことと」、として、そのスポーツだけ、やることになるだろう。
そうしたら、人間は、全員が、スポーツ選手になってしまう。
まあ、職業として、通用するほど、の、レベルになる子供も、まず、いない。
だから、教育は、英語、数学、理科、社会、国語、すべてを、学ばせる、というのは、悪くない、というか、仕方がない、というか、それ以外の方法がないのである。
それが、理由の一つ。
☆
もう一つの理由は。
自分の、得意で、好きな、こと、だけ、出来ればいい、という、教育にしたら、どうなるだろう?
自分の好きなことは、やるが、自分の嫌いなことは、やらない、という、好き勝手な、忍耐力のない、人間を作ってしまう。
数学が社会に出ても、役に立たないから、といって、数学を、廃止したら、どうなるか?
嫌いなことでも、我慢してやる、というのは、子供に、嫌いなこと、自分の苦手なこと、でも、我慢してやる、という、精神を鍛えることになると思う。
それに、小学校から、高校までの、勉強というのは、決して、「学問」、なんて代物ではない。
「学問」、とは、無限の世界であり、高校までの、勉強は、無限の、学問、の、ほんの、さわり、にしか、過ぎない。
そんな、程度、の、お勉強、さえ、嫌いだから、イヤだ、やらなくてもいい、としたら、どうなるだろうか?
社会に出た時、困難なことにあったら、それで、もう、おしまい、の、忍耐力のない、ダメ人間になってしまう、だろう。
☆
本田宗一郎だって、嫌いな勉強も我慢して、高校や大学に進学して、物理学、化学、工学、など、を学んでいたら、ピストンリングの開発だって、ずっと、要領よく、出来ただろう。
経営学にしたって、そうである。
たまたま、本田技研は、藤沢武夫、という、経営の優れた人間が、来てくれたから、本田技研は、潰れないで、すんだのであり、藤沢武夫がいなかったら、本田技研は、今、存在しないかも、しれない。
その可能性は、十分にある。
☆
「好きなことだけやればよく、嫌いな事は、やらなくてもいい」
という、教育にしたら、どうなるか?
結果は明らかである。
日本の現実が示している。
トップアスリートだの、プロスポーツ選手だのは、たとえば、プロ野球選手から、プロ野球を、とったら、何も残らない。
新しいことに挑戦する、経験、訓練、をしていないから、トライアウトされたら、コンビニ店員である。
あとは、オリンピックの金メダリスト、という、肩書き、に、しがみついての、芸能界での、ゲタゲタ、お笑い人生である。
☆
浅田真央にしても。
「十で神童、十五で才子、二十六過ぎれば只の人」
である。
浅田真央に限らず、スポーツ選手は、現役引退した時点で過去の人となる。のである。
そんな失礼な、と言う人は、己を欺いている。
人間は、絶えず、新しいもの、を、求めている。
今日、プロ野球の試合があれば、誰でも、その試合を観るのであって、現役引退した選手の、過去の名試合など、見ない。のである。
僕が、本田宗一郎、の、「スピードに生きる」、という本を読んだのは、小学校5年の時である。
「スピードに生きる」、は、絶版になっているかと思ったら、別の出版社から、今でも出版されていた。
絶版にならず、出版されている、ということは、「売れる可能性」、があるからである。
ちなみに、石坂洋二郎の「青い山脈」、は、絶版である。
夏目漱石の、「坊ちゃん」、より、面白いと思うのだが、売れない本は、絶版になるのである。
☆
「スピードに生きる」、を読んだ時は、本田宗一郎を、何て、面白い、感性の人なんだろう、と思った。
僕も、オートバイが好きだから、(乗るのも、作るのも)、本田宗一郎の、心は、わかるし、共感するのである。
(作るのも)、と言ったが、僕は、オートバイを作ったことは、ない。
ただ、オートバイの、機能的な構造には、興味があって、知っていた。
中学三年の時、大船駅の自転車、原付、置き場で、明らかに、ボロボロで、乗り捨ててあるのが、あったので、家にもって帰った。
スーパーカブである。
配線をいじっているうちに、エンジンがかかった。
この時は、嬉しかった。
ガソリンスタンドで、ガソリンを、買ってきて、夜中に、乗りまわした。
もちろん、中三だから、無免許運転である。
心地いい、ガソリンの匂い、風を切って走る、爽快感。
など、本田宗一郎の、感覚は、僕には、全て、わかるのである。
「スピードに生きる」、では、本田宗一郎は、何て、面白い、ユーモラスな考えをする人だろうと、面白すぎた。
その時は、本田宗一郎の、考えに、完全共感していた。
☆
しかし、大人になって、You-Tubeを、見るようになって、本田宗一郎の、考えに、共感できなくなってきた。
本田宗一郎は、現行教育を完全否定している。
「人間は、何か、これだけは、誰にも負けない、という得意なものが、あれば、教育は、それでいい」
と言っている。
確かに、本田の言うことにも、正しい面はある。
作曲家とか、漫画家とか、要するに、芸術家には、数学の知識なんて、ゼロでも、いい。
英語、数学、理科、社会、国語、すべてを、全部、出来なければ、進学できない、というのは、間違っている、と、本田は言っている。
それは、確かに、そうだが。
☆
本田宗一郎の、考えの間違い。
それは、本田宗一郎が、物を作る、アイデアの能力が、優れている、特殊な人間である、ということである。
世間の、ほとんどの、普通の子供、は、何か、一つ、突出した能力を、もっている子なんて、まず、いない。
みんな、勉強嫌いで、遊ぶのが、好きな子供が、99%、である。
子供の頃から、音楽の作曲だけは、得意、なんて、子供は、一万人に一人もいない。
しかし、一万人に、一人くらいは、いるだろう。
その程度である。
それは、何事でも、そうである。
だから、子供に、「一つでいいから、自分の得意なものを、示せ。そうすれば、他の勉強は、しなくてもいい」、という教育方針にしたら、どうなるだろう。
誰も、そんなことは、出来ない。
まあ、子供は、遊ぶのが、好きだから、自分の好きなスポーツを、「得意なことと」、として、そのスポーツだけ、やることになるだろう。
そうしたら、人間は、全員が、スポーツ選手になってしまう。
まあ、職業として、通用するほど、の、レベルになる子供も、まず、いない。
だから、教育は、英語、数学、理科、社会、国語、すべてを、学ばせる、というのは、悪くない、というか、仕方がない、というか、それ以外の方法がないのである。
それが、理由の一つ。
☆
もう一つの理由は。
自分の、得意で、好きな、こと、だけ、出来ればいい、という、教育にしたら、どうなるだろう?
自分の好きなことは、やるが、自分の嫌いなことは、やらない、という、好き勝手な、忍耐力のない、人間を作ってしまう。
数学が社会に出ても、役に立たないから、といって、数学を、廃止したら、どうなるか?
嫌いなことでも、我慢してやる、というのは、子供に、嫌いなこと、自分の苦手なこと、でも、我慢してやる、という、精神を鍛えることになると思う。
それに、小学校から、高校までの、勉強というのは、決して、「学問」、なんて代物ではない。
「学問」、とは、無限の世界であり、高校までの、勉強は、無限の、学問、の、ほんの、さわり、にしか、過ぎない。
そんな、程度、の、お勉強、さえ、嫌いだから、イヤだ、やらなくてもいい、としたら、どうなるだろうか?
社会に出た時、困難なことにあったら、それで、もう、おしまい、の、忍耐力のない、ダメ人間になってしまう、だろう。
☆
本田宗一郎だって、嫌いな勉強も我慢して、高校や大学に進学して、物理学、化学、工学、など、を学んでいたら、ピストンリングの開発だって、ずっと、要領よく、出来ただろう。
経営学にしたって、そうである。
たまたま、本田技研は、藤沢武夫、という、経営の優れた人間が、来てくれたから、本田技研は、潰れないで、すんだのであり、藤沢武夫がいなかったら、本田技研は、今、存在しないかも、しれない。
その可能性は、十分にある。
☆
「好きなことだけやればよく、嫌いな事は、やらなくてもいい」
という、教育にしたら、どうなるか?
結果は明らかである。
日本の現実が示している。
トップアスリートだの、プロスポーツ選手だのは、たとえば、プロ野球選手から、プロ野球を、とったら、何も残らない。
新しいことに挑戦する、経験、訓練、をしていないから、トライアウトされたら、コンビニ店員である。
あとは、オリンピックの金メダリスト、という、肩書き、に、しがみついての、芸能界での、ゲタゲタ、お笑い人生である。
☆
浅田真央にしても。
「十で神童、十五で才子、二十六過ぎれば只の人」
である。
浅田真央に限らず、スポーツ選手は、現役引退した時点で過去の人となる。のである。
そんな失礼な、と言う人は、己を欺いている。
人間は、絶えず、新しいもの、を、求めている。
今日、プロ野球の試合があれば、誰でも、その試合を観るのであって、現役引退した選手の、過去の名試合など、見ない。のである。