小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

可能性があるで規制するのは国家権力の乱用

2022-04-16 20:11:04 | 考察文
可能性があるで規制するのは国家権力の乱用。

国家には国民の命を保護する義務と、法律を守らせる権限がある。

なので、国民の一人でも、その命を見捨てたら、それは国家ではない。

しかし、それは、100%確実な場合だけでなくてはならない。

「規制しないと国民の命が危険な可能性がある」

という「可能性」で、人権を規制すると、とんでもないことになる。

「可能性がある」で規制できる、とすると、政府は何でも規制できてしまう。



ブランコは怪我をする可能性があるから子供には禁止。

子供に甘いお菓子を食べさせると虫歯になる可能性があるから禁止。

80歳以上の人は事故を起こす可能性があるから運転禁止。

笑い話のようなことが簡単に出来てしまう。



コロナでもそう。

コロナは、高齢者や基礎疾患を持った人には重篤化する「可能性」があるから、ワクチンを打たなくてはならない。

コロナは基礎疾患を持っていない若者でも、感染すると重篤化する「可能性」があるから、打たなくてはならない。

↑(ワクチン接種は規制ではなく奨励だから、規制とは違うが、政府は打て打て、である)

しかし努力規定であっても、電車内でのマスク着用は、もうほとんど実質的には規制になっている。

乗客の100%全員がマスク着用しているから、電車内でマスクしないと、ジロリとにらまれる。

これは第二次世界大戦の時の特攻隊と同じである。

特攻隊も強制ではなく本人の意志、志願ということになっている。

建て前では。

しかし、志願しなければ、非国民だの、腰抜け、だのと言われたり、そういう目でみなから見られるから、特攻隊員には、それは耐えがたいことだったから、実質的には強制だった。

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