>そもそも、小説(フィクション=ウソ話)で、世の中が良くなったり、悪くなったりするんでしょうか?
これには、答えてみたいと思います。
今、自律神経失調症なので。
私自身をかえりみて、小説で、思想的な影響を受けたものがあるか、と、考えてみると、答えは「NO」です。
確かに、何度も、何度も、再読に耐える小説はあります。
しかし、そこから、自分の精神が向上した、小説というものは、ありません。
しかし、マンガ、や、映画、なら、あるのです。
たとえば、「二十四の瞳」を観ると、戦争、天皇に対する憤りが起こります。
「赤ひげ」を見ると、「医者はかくあるべきだ」と、思い知らされます。
あるマンガは、僕の座右の書とまで、なっています。
もろに、精神的な影響を受けています。
この不思議な作用の理屈を僕は、わかっているつもりです。
人間の脳にインプットされる、感覚器官で、一番、大きなものは、視覚です。
人間は、視覚で、95%以上、物事を認識している、といっても、過言ではないと思います。
だから、マンガ、や、映画のように、視覚による物語は、頭に確実にインプットされるのです。
マンガ、や、映画、の映像を観ていなくても、一度、観た、マンガ、や、映画は、後頭部にある、視覚野に定着します。
しかし、小説は。
小説を読んでいる時だけには、頭に、小説の光景がイメージされますが、それは、小説を読んでいる時だけです。
小説とは、文字だけによって、書き手は、読者に、ストーリーをイメージさせようとしますし、読者は、書かれた文字だけから、想像力によって、ストーリーをイメージします。
小説とは、文字という媒介だけによる、想像力による、ストーリーの伝達なのです。
なので、後頭部の視覚野に、定着する、ということが起こらないのです。
一度見た、マンガ、や、映画、が、いつまでも、頭に残る、ということはあります。
しかし、小説は視覚に訴えませんから、1週間前に読んだ、小説の、あらすじ、すら、忘れてしまう、ということも起こります。
視覚に訴える作品は、良くも悪しくも、人に影響を与えることが出来ます。
ですが、小説は、視覚に定着しないために、人には影響を与えにくい(与えられない、と言ってもいいかもしれません)。
と思っています。
そもそも、安部公房が言っている。
「お説教や人生の教訓を説く、なんてのは、評論文ですればいいことで、小説というものは、意味に至る前のある実体である」
と。
これには、答えてみたいと思います。
今、自律神経失調症なので。
私自身をかえりみて、小説で、思想的な影響を受けたものがあるか、と、考えてみると、答えは「NO」です。
確かに、何度も、何度も、再読に耐える小説はあります。
しかし、そこから、自分の精神が向上した、小説というものは、ありません。
しかし、マンガ、や、映画、なら、あるのです。
たとえば、「二十四の瞳」を観ると、戦争、天皇に対する憤りが起こります。
「赤ひげ」を見ると、「医者はかくあるべきだ」と、思い知らされます。
あるマンガは、僕の座右の書とまで、なっています。
もろに、精神的な影響を受けています。
この不思議な作用の理屈を僕は、わかっているつもりです。
人間の脳にインプットされる、感覚器官で、一番、大きなものは、視覚です。
人間は、視覚で、95%以上、物事を認識している、といっても、過言ではないと思います。
だから、マンガ、や、映画のように、視覚による物語は、頭に確実にインプットされるのです。
マンガ、や、映画、の映像を観ていなくても、一度、観た、マンガ、や、映画は、後頭部にある、視覚野に定着します。
しかし、小説は。
小説を読んでいる時だけには、頭に、小説の光景がイメージされますが、それは、小説を読んでいる時だけです。
小説とは、文字だけによって、書き手は、読者に、ストーリーをイメージさせようとしますし、読者は、書かれた文字だけから、想像力によって、ストーリーをイメージします。
小説とは、文字という媒介だけによる、想像力による、ストーリーの伝達なのです。
なので、後頭部の視覚野に、定着する、ということが起こらないのです。
一度見た、マンガ、や、映画、が、いつまでも、頭に残る、ということはあります。
しかし、小説は視覚に訴えませんから、1週間前に読んだ、小説の、あらすじ、すら、忘れてしまう、ということも起こります。
視覚に訴える作品は、良くも悪しくも、人に影響を与えることが出来ます。
ですが、小説は、視覚に定着しないために、人には影響を与えにくい(与えられない、と言ってもいいかもしれません)。
と思っています。
そもそも、安部公房が言っている。
「お説教や人生の教訓を説く、なんてのは、評論文ですればいいことで、小説というものは、意味に至る前のある実体である」
と。