2024年度版 渡辺松男研究44(2016年12月実施)
『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P148~
参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
368 泣きくずれそうなる幹をやわらかく樹皮は包みて立たせておれり
(当日意見)
★作者がこの歌をどういう時に着想したのかなと思う。樹を見ていて泣き出しそうな樹だと思ったのかな。それを樹皮が支えているというんだけど、やわらかくという言葉がとても効いている。泣きくずれそうだというのと、うすい樹皮がやさしく包んでいる。(真帆)
★私、こういう樹を見たことがあります。下の方が洞穴になっていて、それでもしっかり立っている樹。でもそういう樹にやわらかさは感じないで外の強さを感じていました。樹皮ががっちり包んでいると私は見ていたのに、この人はやさしく包んでいると捉えている。わあ、違う視点で見ていらっしゃるんだと。(M・S)
★この松男研究で何回も引用して言っているけど、松男さんのエッセーで樹は、内側の大部分は死んでいて、生きているのは表層のほんの一部だけというような事を書いています。ここも幹の内側はぐちゃぐちゃとなっていて駄目なんだけど、樹皮がそういうものを包み込み支えて一本の樹として立っている。樹はそういうものという認識が根底にある。でも、泣きくずれそうなる幹とか、情感が ある仕立てになっている。(鹿取)
★泣きくずれそうなる幹って情ともとれますが、音を立てて崩れそうになっている樹の姿の実景ともとれますね。(真帆)
★樹の外側の方が若い訳ですね。(曽我)
★そうですね。樹皮が光っているという歌も鑑賞したことがありますが、あれも若いから生きて輝いているというのでしょうね。(鹿取)
(後日意見)
たびたび引用しているが、この歌と関連のありそうな渡辺松男のエッセー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3,4月号)よりほんの一部を引用します。
つまり木は表層の薄い生を内側の厚い死が支える構造で立ち続けている。死という大きな棒状の
塊に薄い生の皮を被せて存在しているのが木の実態である。 ( 中略 )
木の内側の大部分が死んでいるということは木の不動性と垂直性とに関連している。木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を宿命づけられた。一所に生き続けるためには上に伸びなければならないからだ。伸びることを、内側の死という塊が支え、そして塊は年々太っていくのである。
引用していて私はこれまで誤解をしていたことに気がついた。内側の大部分の死を表層の薄い生が支えているのではなく、逆であった。つまり木を支えているのは「内側の厚い死」の方なのだ。しかし、掲出歌の場合はその関係が逆転している。「内側の厚い死」が泣きくずれそうになっていて、表皮の方がそれを支えている。「内側の厚い死」だって、時にはそんなふうに弱みを晒すこともあるのだろう。(鹿取)