馬場あき子の外国詠55(2012年8月)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P113
参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
400 ここに誰れ逢ふべくもなき街ながらプラハ美し夕べも昼も
(レポート抄)
私にとってこの地は誰と逢うつもりもない行きずりの街なのだけれど、プラハは本当に去りがたく美しい。昼も夜もそれぞれに何とも言えない雰囲気に満ちた魅力的な街なのだ。(曽我)
(当日発言)
★レポートに「逢うつもりもない」と解釈してあり、「逢」という文字からすると約束ととれなく
もない。一方、予定ではなく偶然に知り合いに逢うなどないとも考えられる。(鹿取)
★街というのはただぶらぶら歩くのではなく、普通は誰かに逢うものだという前提。ここでは約束
ではないと思う。街の美しさを強調するためにこう言っている。(鈴木)
★偶然には知り合いに逢うことなどない街だけれど、プラハは夕方も昼もこんなに美しい。もし、
知り合いにあったら美しいねと感動を共有したいけれどそれができない。だからもったいない、
たった一人でこの美しい風景を眺めているのは、という気持ちなのだろう。まあ、実際は旅の同
行者がいたわけだけど。
ただ古歌に「心ある人に春の難波のすばらしい景色を見せたいものだ」というのがあって、あ
れと同様の気分だと約束して逢う方がふさわしくなる。有り体にいえば自分と同じくらいの情趣
を解する心、鑑賞眼を持った人にこのすばらしい難波の春景色を見せたいということ。この景色
を誰とも分かち合えないからこそ、ますます美しくもったいなく感じるのだろう。(鹿取)
(後日意見)
「誰れ逢ふべくもなき」は、助詞の省略された言い回しだが、それ故の切迫感のようなものがある。意味はやはり〈誰かと約束して逢う〉ということもないけれど、というのだろう。この街のすばらしさを分かちあう人がいない寂しさを詠っているのだろう。〈誰〉は、自分と同じように〈情趣を解する人〉という意味だろう。偶然あうだと〈情趣を解する人〉の意味合いが薄れてしまう。
当日発言の中で話題にした歌は、正確には次のとおり。
〈心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を〉(後拾遺集)能因法師
ところで理由は不明だが、ヒトラーはプラハの街だけは爆撃しなかったという。おかげでこの古い街並みがそのまま残っている。絵画を殊に愛したヒトラーだから、この街の美しさも壊すに忍びないと考えたのだろうか。(鹿取)
(後日意見)その2
〈心あらむ(情趣を解する)人〉にあまりこだわるととがった解釈になってかえって歌の情趣がそがれるようだ。前言を撤回するようだが、誰か知り合いや友人とこのプラハの美しい景気を共に味わいたいものだ、というように解釈する方がふっくらとしてよいのだろう。(鹿取)
【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P113
参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
400 ここに誰れ逢ふべくもなき街ながらプラハ美し夕べも昼も
(レポート抄)
私にとってこの地は誰と逢うつもりもない行きずりの街なのだけれど、プラハは本当に去りがたく美しい。昼も夜もそれぞれに何とも言えない雰囲気に満ちた魅力的な街なのだ。(曽我)
(当日発言)
★レポートに「逢うつもりもない」と解釈してあり、「逢」という文字からすると約束ととれなく
もない。一方、予定ではなく偶然に知り合いに逢うなどないとも考えられる。(鹿取)
★街というのはただぶらぶら歩くのではなく、普通は誰かに逢うものだという前提。ここでは約束
ではないと思う。街の美しさを強調するためにこう言っている。(鈴木)
★偶然には知り合いに逢うことなどない街だけれど、プラハは夕方も昼もこんなに美しい。もし、
知り合いにあったら美しいねと感動を共有したいけれどそれができない。だからもったいない、
たった一人でこの美しい風景を眺めているのは、という気持ちなのだろう。まあ、実際は旅の同
行者がいたわけだけど。
ただ古歌に「心ある人に春の難波のすばらしい景色を見せたいものだ」というのがあって、あ
れと同様の気分だと約束して逢う方がふさわしくなる。有り体にいえば自分と同じくらいの情趣
を解する心、鑑賞眼を持った人にこのすばらしい難波の春景色を見せたいということ。この景色
を誰とも分かち合えないからこそ、ますます美しくもったいなく感じるのだろう。(鹿取)
(後日意見)
「誰れ逢ふべくもなき」は、助詞の省略された言い回しだが、それ故の切迫感のようなものがある。意味はやはり〈誰かと約束して逢う〉ということもないけれど、というのだろう。この街のすばらしさを分かちあう人がいない寂しさを詠っているのだろう。〈誰〉は、自分と同じように〈情趣を解する人〉という意味だろう。偶然あうだと〈情趣を解する人〉の意味合いが薄れてしまう。
当日発言の中で話題にした歌は、正確には次のとおり。
〈心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の景色を〉(後拾遺集)能因法師
ところで理由は不明だが、ヒトラーはプラハの街だけは爆撃しなかったという。おかげでこの古い街並みがそのまま残っている。絵画を殊に愛したヒトラーだから、この街の美しさも壊すに忍びないと考えたのだろうか。(鹿取)
(後日意見)その2
〈心あらむ(情趣を解する)人〉にあまりこだわるととがった解釈になってかえって歌の情趣がそがれるようだ。前言を撤回するようだが、誰か知り合いや友人とこのプラハの美しい景気を共に味わいたいものだ、というように解釈する方がふっくらとしてよいのだろう。(鹿取)
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