かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の鑑賞 1の14,15

2020-05-06 19:33:52 | 短歌の鑑賞
 改訂版渡辺松男研究2(13年2月)
      【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


14 土屋文明さえも知らざる大方のひとりなる父鉄工に生く
15 もはや死語となりておれども税吏への父の口癖「われわれ庶民」

        (レポート)
 この二首は、前4首と同じように、家族の「父」に関連づけて、民衆(庶民)の姿を詠んでお
り、自らも庶民の子であることの表出でもある。ニーチェは、牧師の長男として生まれ、当時の上層階級に属するため、「私は高められているがゆえに下方を見下ろす」(ツァラトゥストラ)という視線が常にあるが、作者のはあくまでも対等な視線である。「土屋文明さえも知らざる」は、父たちへの侮蔑ではなく、より大事な実業の「鉄工に生く」という自負なのである。その反面、民衆は、「われわれ庶民」という言い方で、何かにつけ群れをなし、それに甘んじる心(ニーチェが嫌った)を併せ持っているのである。(鈴木)


        (意見)
★群れをなして甘んじる心というのが確かに庶民にはある。(崎尾)
★『寒気氾濫』の出版記念会の折り、「父に対して『土屋文明さえも知らざる』などということは
 言っちゃあいけない」と言った人があった。でも、そんなことはないんじゃないか。(鈴木)
★14について、作者の親たちの世代、または作者の生まれた地方では、実学が大事で詩歌などは
 腹の足しにならないという考えはごく一般的で、地元出身の歌人土屋文明すら知らない人が多い。
 そして生きるために懸命に働いている。そのことを作者は淡々と詠っていて、自分とは違う生き
 方だけれど否定しているわけではない。15の歌は、庶民のしたたかさが出ている。相手を立て
 て自分たちをへりくだりながら実(じつ)を取ろうとしている態度。何かをかわしたりすり抜け
 ようとするときのしたたかさ。確かに『ツァラツストラ』では、群れるな一人になれ、私も一人
 で行くから、君たちも犀の角のように孤独に行けって、しばしば言っている。(鹿取)
★今の時代とニーチェの時代は違っていて、ニーチェの時代は形式的な平等主義だったのではない
 か。今は実質的平等を与えるという考え。だから必ずしもニーチェが弱者をさげすむのとはちょ
 っと違う。民主主義を批判するためにニーチェが利用されている面もある。(鈴木)
★「力への意志」というのも利用されましたよね。(鹿取)
★ナチスから利用されやすい考え方ではある。作者の視点は鹿取さんが「かりん」2月号の評論に
 も書いていたように、あらゆるものに平等。そこがニーチェと違う点だと思う。(鈴木)
★ニーチェは思考における高みを言っているわけで、超人にしても政治的意図でいっている訳では
 全然ない。それを選民思想として利用されただけ。鈴木さんが引いていらっしゃる「私は高めら
 れているがゆえに下方を見下ろす」(『ツァラツストラ』)も、上層階級に属しているとかではな
 くて精神的な高みのことを言っているのだと思う。(鹿取)
★渡辺さんには、日常を生きることと、精神の高みを目指すこととの葛藤が常にあるように思う。
    (鹿取)


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