かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  372

2021-12-14 17:37:33 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P151~
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取 未放


372 空中はひかりなるかや一葉の樹から離れて地までの間

       (レポート)
 これは後の377番歌(ひとひとりおもえば見ゆる冬木立ひかりは幹に枝に纏わる)の一首と呼応する歌の様におもう。樹からはなれて地に着くまでの空中を作者はふと「ひかりなるかや」と詠嘆する。このときの「ひかり」とは、この歌集『寒気氾濫』で作者がよく詠われている、魂や霊やみえないものを讃えての表現だろうと思った。はらはらと舞いながら散る葉は、現実から遊離し見えないもの達と交流している印象を得た。(真帆)

 
      (当日発言)
★「ひかりなるかや」ですが、これは「ひかりなるかなや」のことですか?「ひかりなるかなや」なら
 分かるんですが。この部分、調べがいいですね。レポートの見えないものと交流しているという意見
 も充分くみ取れます。(慧子)
★事実は銀杏の葉がきらきらと光りながら落ちていくということなんだけど、そう言わないで「空
 中はひかりなるかや」と言っている。地面に着くまでの時間をスローモーションで見せているところ
 が、慧子さんも言ったように松男さんの詠み方の上手いところ。スローモーションが時空の広がりを
  思わせて、レポーターの「見えないもの達と交流する」読みも生まれてくる。味わいぶかい歌になっ
 ている。(鈴木)
★人間にとっては一瞬だけど、こう詠われると葉っぱは地面に着くまでに濃密な時間があって、なるほ
 どいろんなものと交流しているんだなと思わせられますね。(鹿取)


    (まとめ)
 「ひかりなるかや」と「ひかりなるかなや」は意味上は同じ。「か」も「かな」も詠嘆を表す終助詞。「や」も詠嘆の終助詞。全体で「ひかりなのだなあ」の意。「かな」を使うと8音で冗漫になるが「か」だと7音できっぱりと爽やかな印象だ。(鹿取)

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