渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
197 油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている
(レポート)
油絵に描かれている空はおおむね絵に奥行きを与えている。しかしこの油絵の空は「樹冠に空が張りついている」である。絵の遠近感をそこなう空であるようだ。しかし「大楡」の「樹冠」の存在を際だたせていると思う。「張りついている」と独特な言葉で捉えているこの油絵に吸い込まれるようだ。(崎尾)
(意見)
★松男さんは現実の樹を信奉している人だから、この油絵は生きるということを象徴できていない
と思っている。樹冠は光合成をしている所でしょう。そこへ空が張り付いてしまったら元気がな
くなってしまう訳よ。絵は実物に劣っていると考えている。(曽我)
★水彩画なんかだと全てのものが動きそうな感じがする。ところが、油絵は存在を強く出し過ぎる
ために固まってしまう。東洋の絵の緩い感じが心にあってこの油絵は駄目と。(慧子)
★大楡は自分のことで、周囲に対する違和感を表現したのだと思う。(うてな)
★上の句と下の句の関係が、不思議な技法の歌ですけど、大楡はうっとうしくて窒息しそうな感じ
なんでしょうかね。(鹿取)
★「油絵のじっと動かぬ大楡」というのは単独者だと思う。崎尾さんのいう奥行きがあるというの
は関係を持つことだと思う。(鈴木)
(後日意見)
キルケゴールは自らを「人間の記憶に生きている限り、最も憂鬱な人間だった」と称し、生涯を通じて悩んだと、語っている。彼の憂鬱は絶えず死ぬことに怯えたり、クリスチャンとしての原罪意識から来るものであった。が、なによりも父親から受け継いだ家系的な気質であった。この絵はそれを想起させる。油絵のじっと動かぬ大楡は厚ぼったく、キルケゴールの憂鬱そのものだ、樹冠には遠近感のない空が張り付き、大気を取り入れることができないし、憂鬱は発散してゆかない、やりきれない窒息しそうな状態の病理を『死に至る病』では「絶望」ということばで表現している、危うい憂鬱という絶望の状態を常とし、キルケゴールは生き抜いた。この絶望を見詰めたからこそ、彼の豊かな創作活動が生まれたのかもしれない。(石井)
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
197 油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている
(レポート)
油絵に描かれている空はおおむね絵に奥行きを与えている。しかしこの油絵の空は「樹冠に空が張りついている」である。絵の遠近感をそこなう空であるようだ。しかし「大楡」の「樹冠」の存在を際だたせていると思う。「張りついている」と独特な言葉で捉えているこの油絵に吸い込まれるようだ。(崎尾)
(意見)
★松男さんは現実の樹を信奉している人だから、この油絵は生きるということを象徴できていない
と思っている。樹冠は光合成をしている所でしょう。そこへ空が張り付いてしまったら元気がな
くなってしまう訳よ。絵は実物に劣っていると考えている。(曽我)
★水彩画なんかだと全てのものが動きそうな感じがする。ところが、油絵は存在を強く出し過ぎる
ために固まってしまう。東洋の絵の緩い感じが心にあってこの油絵は駄目と。(慧子)
★大楡は自分のことで、周囲に対する違和感を表現したのだと思う。(うてな)
★上の句と下の句の関係が、不思議な技法の歌ですけど、大楡はうっとうしくて窒息しそうな感じ
なんでしょうかね。(鹿取)
★「油絵のじっと動かぬ大楡」というのは単独者だと思う。崎尾さんのいう奥行きがあるというの
は関係を持つことだと思う。(鈴木)
(後日意見)
キルケゴールは自らを「人間の記憶に生きている限り、最も憂鬱な人間だった」と称し、生涯を通じて悩んだと、語っている。彼の憂鬱は絶えず死ぬことに怯えたり、クリスチャンとしての原罪意識から来るものであった。が、なによりも父親から受け継いだ家系的な気質であった。この絵はそれを想起させる。油絵のじっと動かぬ大楡は厚ぼったく、キルケゴールの憂鬱そのものだ、樹冠には遠近感のない空が張り付き、大気を取り入れることができないし、憂鬱は発散してゆかない、やりきれない窒息しそうな状態の病理を『死に至る病』では「絶望」ということばで表現している、危うい憂鬱という絶望の状態を常とし、キルケゴールは生き抜いた。この絶望を見詰めたからこそ、彼の豊かな創作活動が生まれたのかもしれない。(石井)
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