かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  371

2021-12-13 17:54:40 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究45(2017年1月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【冬桜】P151~
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取 未放


371 川向こうへ銀杏しきりに散りぬれどむこうがわとはいかなる時間

     (レポート)
 連作「冬桜」は、冬という季節のもつ内向しやすい抒情の特徴を、歌の上でもごく自然に表現しているように思う。古語的な助詞や助動詞をつかうことにより、古典へ回帰という内向を表現しているように思った。これは意図的というよりむしろ、樹々や気象など自然と一体化している作者の抒情に、ごく自然にあらわれた冬の季節のようにも思う。
 抄出の一首。銀杏の黄金の葉は川向こうへしきりに散ったけれども、「むこうがわ」に在る、つまり三途の川の向こう側にある、死後の世界の時間とは一体どんなものだろうと作者は思い佇んでいるのだろう。「むこうがわ」とは、もしかすると未生の世界をも含むのかもしれない。またこの一首は、ただ単に思索に耽るという理の歌ではなく、黄金の銀杏の葉が一斉に散りはじめ散り終えてしまった寂寥感や、ひたすらに散る黄金の葉の景や時間を表現し味わいのある一首だと思った。(真帆)
 

        (当日発言)
★川のこちら側に銀杏の木があって向こう岸に葉が散っている。レポートの彼岸、此岸という考え
 はそこから出てきた。「川向こうへ」の「へ」がよい。(慧子)
★「散りぬれど」の「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」だから、文法上は継続の意味は無い。だから歌
 の上では散ってしまっているけれど見せ消ちのように読者には盛んに銀杏の葉が散っている情景
 が見える。そして作者はその葉の行く末である向こう側の時間を問うている。3句目は、いろは
 歌の「散りぬるを」を連想させるので、死後の世界を思う解釈もありうるだろう。(鹿取)
★私は向こう側を三途の川、死後の世界とは取らなかった。現実に川のこちらから見る景色とあち
 らから見る景色は何か時空が違うように全く違うので、そういうことを言っているのかな。
    (鈴木)
★「向こう側」というのが松男さんのテーマというか、いつも考えていることで、そういう歌をこ
  れまでもたくさん見てきました。影の部分、見えない部分も向こう側で、多様な向こう側がある
  んだけど、だから煎じ詰めれば死後の世界という真帆さんのような見方もできると思う。最も真
  帆さん、未生の世界とも書いていますけど。空間的な向こうを時間に置き換えるのは面白いけれ
 ど、「時空」っていっても宇宙的なスケールで言えば時間=空間なので、この歌も向こう側がど
 んな場所かではなく、葉の散っていった先の時間を問題にしているところが独特と思う。論理だ
 けでやせ細った歌ではなくて、銀杏の散る景色が美しいふくらみのある一首になっている。(鹿取)


      (まとめ)
 レポートに、この「冬桜」一連を指して「古語的な助詞や助動詞をつかうことにより、古典へ回帰という内向を表現している」とあるが、特に古語的な助詞や助動詞をつかっているとも思わないし、古典へ回帰とも思わない。「向こう側」をうたった歌を『寒気氾濫』から1首だけあげておく。(鹿取)
  白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり  「からーん」


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