かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 390(中欧)

2020-04-08 18:48:26 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
  【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P109~
   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:藤本満須子     司会と記録:鹿取 未放


390 観光としてわが見るマリアわれを見ず初秋のやうにさびしきその瞳(め)

           (レポート)
 作者は旅行者としてマリア像を見るのだが、マリアはわたしを見てくれない。まるで初秋のようなさびしさをたたえている瞳だ。
 教会にあるマリア像なのだろう。時代により場所によりマリアの表情は少々変化するだろうが、ややうつむき加減のマリアを「さびしきその瞳」と作者は感じたのだろう。(藤本)


          (当日意見)
★観光として見るんだからマリアも冷たいと思う。信仰をもって見たらマリアはもっと優しい目 
 をしたのではないか。(慧子)
★今の指摘はとても良い。作られたものとの意志の疎通は難しい。そんな寂しさを詠っているの
 ではないか。(崎尾)
★マリア像はたいてい俯いていて、正面を向いた像はあまりない。(N・I)
★マリアは信仰で自分を見て欲しいと思っていて、観光で見る人は見ないという事ではないか。
 だから寂しそうな目をしているのだ。(曽我)
★「観光としてわが見る」にポイントがある。マリアがうつむいていようが正面を向いていよう
 が関係ない。信仰をもって仰ぎ見るのではない私をマリアは見ようとしない。そして信仰を持た
 ない私をマリアは哀れんで寂しげな瞳をしているのかもしれない。この作者には、対象の方が我
 を見るという歌が非常に多く、魚を釣り上げられた沼が恨めしそうに私を見たり、私が食べよう
 とした蛸がわれを見たりする歌などたくさんある。(鹿取)


            (まとめ)
 もしかしたら、マリアは信仰のありなしでは人間を区別しないのかもしれない。信仰を持っていようが持っていまいが、人間はやはり不完全。だから、マリアは誰にたいしてもさびしい瞳をしているのかもしれない。作者は、自分が信仰を持たないので自分をみてくれないし、さびしい瞳をしているとうたっただけかもしれないが。(鹿取)



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