2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
Y・N、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:S・I 司会と記録:鹿取 未放
318 断面というもの宙にきらめかせ少女は竹刀振りおろしたり
(レポート)
これは少女が力を込めて、思い切り竹刀を振り下ろす瞬間を詠んだ歌である。普通の肉眼では、竹刀が大きく振られる一瞬の動きとしか捉えられないが、もし、一秒間に1000億フレームの撮影が可能なハイスピードカメラでみれば、まさに光の波が空間に断面を生み、宙に光の乱舞がみられるだろう。視覚には瞬間としか思えないものをマクロに引き延ばし、描写する手法は葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではみられるが、短歌作品では稀ではないだろうか。(S・I)
ハイスピードカメラ:1秒間に100枚以上撮影できるカメラを「高速度カメラ = ハ
イスピードカメラ」と呼んでいる。今のところ、20,000,000
コマ/秒までの高速度カメラが市販されている。
(Wikipediaその他のネット検索より)
富嶽三十六景:波頭が崩れるさまは常人が見る限り、抽象表現としかとれないが、
ハ イスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写
実的に 優れた静止画であることが確かめられる。(Wikipedia)
【レポートにはここに北斎の絵画2枚が載っていますが、著作権の関係でブログでは省略します。】
(後日意見)
レポーターのハイスピードカメラという見方は、とても面白い鑑賞である。しかしそういうものを援用しなくとも、竹刀を振り下ろす動作によって空間がまっぷたつに切れ、その断面が美しい光に輝く様はこの歌を読んだ瞬間に眼前に見えるものである。少なくとも、私には昔からこの歌を読む度に見えていた映像である。いわば科学を先取りするのが詩の力で、渡辺松男はここでその力を見せてくれているのではなかろうか。竹刀を振り下ろすのが少女だという設定がすばらしく、鮮やかな歌である。ところで『蝶』(2011年刊)にはこんな歌がある。〈竹刀ふりくうかんにだんりよく感ぜしはくうかんに亀裂はひるちよくぜん〉(鹿取)
(後日意見)に対する反論(2016年8月)
(後日意見)では、掲出歌の詩的真実は科学を援用しなくても伝わり、むしろ科学を先取りしているのではないか、ということを述べておられる。たしかに詩は永遠であり、科学は常に上書きされる宿命をもつ、が、人間は「真・善・美」を求めてやまない存在であり、それぞれ次元が異なるだけで、「美」のほうが「真」よりも優位とは言えまい。以前、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、肉眼では見えない瞬間の写実画だというテレビ番組があった。北斎は雨つぶが落ちてゆく様子をじっと眺めていたという。私は北斎が、極小の瞬間を捉えていたという心眼の確かさに感銘した。それは感動したバッハの音楽が美しい数字のハーモニーであったり、『最後の晩餐』の美が計算された構図によるものであることと似ている。印象派の絵が刻々の時間を凝視し拡大したものであるなら、北斎の絵は極小化したものだろうか。絵で描かれた極小の瞬間があるとすれば、詩や短歌にもあるだろうか?
今回の歌はそのような思いに叶った歌であった。少女が竹刀を振り下ろす「断面が美しい光に輝く様」の詩情は誰でも共感するであろう。レポーターとしては、そのようなわかりきった鑑賞は省略し、なぜ「宙にきらめかせ」という表現がくきやかで美しく感受されるのか、肉眼では見えないハイスピードカメラの瞬時が「宙にきらめかせ」という映像になるということを、一つの根拠として提示した。けして奇を衒ったのではない。ある作品の鑑賞には、様々な分野からの考察は必要であろう。科学というのも、そのような理解の一助である。少なくとも科学的な鑑賞のみを邪道だとして、排除されてはならない。むろん、このような分析や考察がなくとも、この作品のすばらしさ、この歌から受ける感動や共感は変わらないというのは自明の理である。が、それのみだけで終わったのでは、研究する場は成り立たない。研究とは、何故その歌がよいと思ったのか、互いにその根拠を示しあい、議論することによってより一層、作品の理解を深める場でもあるからである。 (S・I)
【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
Y・N、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:S・I 司会と記録:鹿取 未放
318 断面というもの宙にきらめかせ少女は竹刀振りおろしたり
(レポート)
これは少女が力を込めて、思い切り竹刀を振り下ろす瞬間を詠んだ歌である。普通の肉眼では、竹刀が大きく振られる一瞬の動きとしか捉えられないが、もし、一秒間に1000億フレームの撮影が可能なハイスピードカメラでみれば、まさに光の波が空間に断面を生み、宙に光の乱舞がみられるだろう。視覚には瞬間としか思えないものをマクロに引き延ばし、描写する手法は葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではみられるが、短歌作品では稀ではないだろうか。(S・I)
ハイスピードカメラ:1秒間に100枚以上撮影できるカメラを「高速度カメラ = ハ
イスピードカメラ」と呼んでいる。今のところ、20,000,000
コマ/秒までの高速度カメラが市販されている。
(Wikipediaその他のネット検索より)
富嶽三十六景:波頭が崩れるさまは常人が見る限り、抽象表現としかとれないが、
ハ イスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写
実的に 優れた静止画であることが確かめられる。(Wikipedia)
【レポートにはここに北斎の絵画2枚が載っていますが、著作権の関係でブログでは省略します。】
(後日意見)
レポーターのハイスピードカメラという見方は、とても面白い鑑賞である。しかしそういうものを援用しなくとも、竹刀を振り下ろす動作によって空間がまっぷたつに切れ、その断面が美しい光に輝く様はこの歌を読んだ瞬間に眼前に見えるものである。少なくとも、私には昔からこの歌を読む度に見えていた映像である。いわば科学を先取りするのが詩の力で、渡辺松男はここでその力を見せてくれているのではなかろうか。竹刀を振り下ろすのが少女だという設定がすばらしく、鮮やかな歌である。ところで『蝶』(2011年刊)にはこんな歌がある。〈竹刀ふりくうかんにだんりよく感ぜしはくうかんに亀裂はひるちよくぜん〉(鹿取)
(後日意見)に対する反論(2016年8月)
(後日意見)では、掲出歌の詩的真実は科学を援用しなくても伝わり、むしろ科学を先取りしているのではないか、ということを述べておられる。たしかに詩は永遠であり、科学は常に上書きされる宿命をもつ、が、人間は「真・善・美」を求めてやまない存在であり、それぞれ次元が異なるだけで、「美」のほうが「真」よりも優位とは言えまい。以前、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、肉眼では見えない瞬間の写実画だというテレビ番組があった。北斎は雨つぶが落ちてゆく様子をじっと眺めていたという。私は北斎が、極小の瞬間を捉えていたという心眼の確かさに感銘した。それは感動したバッハの音楽が美しい数字のハーモニーであったり、『最後の晩餐』の美が計算された構図によるものであることと似ている。印象派の絵が刻々の時間を凝視し拡大したものであるなら、北斎の絵は極小化したものだろうか。絵で描かれた極小の瞬間があるとすれば、詩や短歌にもあるだろうか?
今回の歌はそのような思いに叶った歌であった。少女が竹刀を振り下ろす「断面が美しい光に輝く様」の詩情は誰でも共感するであろう。レポーターとしては、そのようなわかりきった鑑賞は省略し、なぜ「宙にきらめかせ」という表現がくきやかで美しく感受されるのか、肉眼では見えないハイスピードカメラの瞬時が「宙にきらめかせ」という映像になるということを、一つの根拠として提示した。けして奇を衒ったのではない。ある作品の鑑賞には、様々な分野からの考察は必要であろう。科学というのも、そのような理解の一助である。少なくとも科学的な鑑賞のみを邪道だとして、排除されてはならない。むろん、このような分析や考察がなくとも、この作品のすばらしさ、この歌から受ける感動や共感は変わらないというのは自明の理である。が、それのみだけで終わったのでは、研究する場は成り立たない。研究とは、何故その歌がよいと思ったのか、互いにその根拠を示しあい、議論することによってより一層、作品の理解を深める場でもあるからである。 (S・I)
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