かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の224

2019-11-25 20:06:09 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放



 
224 かわいそうに体温もあり鳴きもする鼠がぼくの脳から出れぬ

(レポート)
 222番歌(ぞっくぞっくと悪寒するなりわたくしの何処を切りても鼠の列)の続きだろう。「かわいそうに体温もあり鳴きもする」といい、「ぼく」の脳に入ってしまった「鼠」を哀れむ。鼠にだって命はあるのに、自分の命の一部にされてしまった「鼠」に罪の意識を持っているようだ。
 「鼠」を意思の喩と取れば、「ぼく」の脳にありながら、「ぼく」に支配されている別の「ぼく」の正体「鼠」がいるのだと読め、自己によって抑圧された自己を思う。(泉)


(紙上参加)
 脳内に鼠がいて出てこられなくてかわいそうだという。これは頭を使いすぎて頭痛がしたり不安や不眠で苦しんでいる時か、それとも一連にある悪寒のする時の状態を感覚的にとらえ表現したのだろう。「かわいそうに」がふしぎな実感を出している。(菅原)


(当日意見)
★泉さんのレポートをいいと思いました。自分なんだけど自分ではない感じ、風邪引いた時など
 こういう感じありますね。(A・K)
★ちょっと外れるけど、馬場あき子の蛇に飲まれた鼠が蛇になってうっとりと虹を見ている歌を
 坂井修一さんがいつも褒めていらっしゃいますね。(鹿取)


(後日意見)
 当日鹿取発言の馬場の歌は「蛇に呑まれし鼠は蛇になりたれば夕べうつとりと空をみてゐる」(『飛天の道』)。坂井氏は、蛇になった鼠は以前の蛇にはなかった性質をもつようになるのだという解釈をされている。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の223

2019-11-24 19:20:35 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放



223 孤独ではない・・・しかし雨の日は落ち葉のようにぺったりといる

(レポート)
 「孤独ではない」といいつつ「落ち葉のようにぺったりといる」と負の感情を漂わせ、したがってとても深い孤独にいることが伝わってくる。雨滴のついた葉が「ぺったり」の語で、疎ましい感情につながり、取り除きたいのにくっついて離れない孤独を表現している。(泉)


(紙上参加)
 雨の日の気分を、孤独ではないけれど落ち葉がぺったりと地に張り付くようにしていたいというのはわかるような、わからないような、でもそんな日もあるかな。(菅原)


(当日意見)
★「ぺったりといる」のは〈われ〉ですよね。ひところ、定年後の夫が妻にべったり張り付いて
 いるのを濡れ落ち葉って揶揄したりしていましたが、これは誰かにではなく「ぺったりといる」
 は対象はなくて、一人で完結している動作ですよね。泉さん、「取り除きたいのにくっついて離
 れない孤独を表現している」は、「ぺったりといる」のは〈われ〉ではなく、孤独が〈われ〉に
 張り付いているということですね。(鹿取)
★そういうことです。(泉)
★短歌に孤独って言葉はよほど覚悟しないと使えないですね。抽象的な観念ですから。「孤独では
 ない」って大見得きっても面白くない。下の句の「雨の日は落ち葉のようにぺったりといる」 
の喩も効いてないですね。当たり前ですから。脱力します。(A・K)
★さっきの私の発言は間違っていたようです。「ぺったりといる」のは〈われ〉ですね。孤独では
 ないがその存在が消えてしまうことはないという二重否定。だから孤独なんだ。(泉)
★私は二重否定とも思わないけど、孤独ではないけど雨の日は憂鬱で落ち葉みたいにぺったりと
 存在しているよって。(鹿取)
★そうすると、ああそうですかって止まってしまう歌ですね。(A・K)
★「孤独ではない」というのが少し思わせぶりかなと思います。(岡東)
★孤独だからこそ孤独ではないと言い張っているのでしょう。(泉)
★221番の「冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき家族から遠く来てしまいたり」をA・Kさんは
 絶対的な孤独とおっしゃいましたが、確かにあの身震いするような恐ろしい孤独感からすれば、
 この歌は甘いかもしれないですね。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の222

2019-11-23 20:02:11 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放



222 ぞっくぞっくと悪寒するなりわたくしの何処を切りても鼠の列

(レポート)
 ①と②と③の解釈をしてみた。
解釈① 「鼠」には、こそこそと人に害をなすもの、良からぬことをする者の意味もある。その意味で鑑賞すると、「わたし」の中には、人に害をなす部分があることを認め、切っても切っても人に害を与える良からぬ己が出てくることに思わず悪寒を感じ、生きてゆくことは意図せず他者の害になっているという存在の哀しみを詠んでいる。
解釈② 「鼠の列」は遺伝子の配列を想起させ、科学が得た諸々の恩恵を受けて生きている自分を思うと、どこを切っても鼠から得たものばかりだと、これまで人間が行ってきたマウス実験を憂いつつ詠っている。
解釈③ もしもこの一連を渡辺松男が連作SF短歌として編んだとしたら? 前述した220番(鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン)の怪物フランケンシュタインから続く話になるだろう。また、フランケンシュタインには人間から造られたというストーリーのほかに、人間と動物を取り混ぜて造ったというストーリもあるらしい。だとしたらフランケンシュタインを造るときに使用した鼠ということか。
①②だろうか、③はさすがに飛躍し過ぎだろう。とは言え、作者がSF的な詠みを試作しているような印象を持った一連だった。(泉)


(紙上参加)
 風邪をひいて悪寒がするときの感じは、確かにちゅるちゅるもぞもぞ動きまわる鼠のようかもしれない 一読して、感覚的に即納得。すごい発見であり、表現力だと感嘆。(菅原)


(当日意見)
★下の句は七・六のリズムですね。塚本邦雄は結句六音が多いですが。菅原さんと同じで感覚的
 にとてもよく分かる。言われてみれば確かに悪寒がする時って、全身に鼠が詰まっているよう
 なもぞもぞと不愉快な感覚ですよね。(鹿取)
★よく分かります。「ぞっくぞっく」が効いている。渡辺さん促音便を使ったオノマトペが多いで
 すね。「ぞくぞく」では俗っぽいけど「ぞっくぞっく」にはオリジナリティがある。(A・K)
★米川千嘉子さんが松男さんのオノマトペには心が反映していると独自性を褒めていましたね。 
  (鹿取)
★「鼠の列」が素晴らしい。鼠を思いついても「列」とは言えない。ぎっしり詰まっている感じ
 がする。(岡東)










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渡辺松男の一首鑑賞 2の221

2019-11-22 18:08:30 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放


221 冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき家族から遠く来てしまいたり 

         (レポート) 
 いったい人はどんな理由や目的があって地球儀を冷やすのだろう。これは不思議な一首だ。何かの比喩だろうか。「家族から遠く来てしまいたり」「地球」「冷」えるというと、宇宙にいる喩えだろうか、などなど無理やり何の比喩かと想像もしてみるが、上の句の「冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき」には比喩とは思えない現実味があるので鑑賞に困ってしまう。
 例えばこんなドラマを思う。………… リビングかダイニングか家族の集まる部屋に地球儀があった。主人公は地球の温暖化を憂いたジョークをとばし、冷蔵庫で冷やせばいいんだよと地球儀を冷蔵庫に入れてみせた。笑ってくれるかと家族をみると、〈なんてくだらないことやってんのよ〉と皆そっぽを向く。ああ、「家族から遠く来てしまいたり」と一人寂しく呟く。 …………この一首、まことにレポーター泣かせの歌である。(泉)

  (紙上参加)
 なぜ冷蔵庫でスイカではなく地球儀を冷やすのか、わからないけれど、確かにそうしたら家族とは離れてしまう感じはありそうで不思議な面白い歌。「さようなら家族、地球の皆さん。僕は地球の喧騒に疲れてしまいました。」というような思いだろうか。(菅原)


(当日意見)
★次の次の月に観賞する歌に今日口から鳥を飛ばしたことを家族に言いそうになったという意味
 の歌があって、同じような繋がりかなと。(鹿取)
★大好きな歌です。それこそ暗喩的なものかもしれないけど。人間って家族から遠くにくるって
 瞬間ありますよ、だから家族と冷たい関係ですとかとは全然違う。地球儀って中国があってロ
 シアがあってフランスがあって…自分が存在している。理屈ではなくてそれを冷蔵庫で冷やす。
 ああ、そうかって思いました。愛する家族から遠くきた、そういう根本的な存在の感じ。
   (A・K)


(後日意見)
 鹿取の当日発言の鳥を飛ばす歌は、「今日われは口から鳥を飛ばせしともうすこしで家族に告げそうになる」(『泡宇宙の蛙』157頁)(鹿取)


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渡辺松男の一首鑑賞 2の220

2019-11-21 19:16:58 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放


220 鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン

     (レポート) 
 「天高き日」なので、ある秋晴れの日のことだろう。フランケンシュタインは鶏と睨みあっては落ち着かない心地でいる。野犬や熊や毒蛇といった、身に危害を及ぼす生き物と睨み合っているわけではなく、追い払えばすぐに逃げてゆく鶏にと睨みあっては落ち着かないという。コケコッコーと朝を告げるように鳴きだす鶏がいつその声を発するか、ドラキュラだったら怖れもしようがここはフランケンシュタイン、ドラキュラではない。害にならない鶏にオロオロしているその構図のユーモラスな味わいこそが一首の魅力だが、「天高き日の」と季節をイメージできる視野の大きな一語を据えることで、ユーモラスな一場面にさらに物語性が顕ちあがる。フランケンシュタインを調べると「本来はM.W.シェリー原作の『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818)に登場する科学者ビクトル・フランケンシュタイン男爵の姓。今日ではもっぱら怪奇映画のスクリーンを通じて、同男爵が死体から造った〈怪物〉の通称ともされている」(平凡社世界大百科事典)とあるが、一首のフランケンシュタインはその男爵なのか、男爵の造った怪物なのか、全く別のものなのか、それとも喩か。あるいはボリス・カーロフ主演・ジェームズ・ホエール監督の映画の一場面なのか。そしてまた、フランケンシュタインが落ち着かない理由は何なのか、なんだろう、なんだろう、そう疑問を抱かせることが、読者を連作〈悪寒〉へと引き込むいい導入歌になっているのだろう。(泉)


(紙上参加)
 ドラキュラ、狼男と並ぶ、怪奇物語の主役であるフランケンシュタイン。どこか怖さより哀れさが感じられる。大きな体に醜さへの恥じらいを持つ弱い心を抱えている。そして、怪奇物語に似合うのは嵐やくらがり。ところがそのフランケンシュタインが秋晴れの下で、小さくても恐れを知らぬ、恐竜の裔らしき眼光の鶏と睨みあいおろおろしている。なんとも気の毒で滑稽な場面の面白い歌。作者はフランケンシュタインに自らを重ねているのか、それとも愚かな人によって生み出された怪物など、自然が生み出した鶏にすらかないはしないと言いたいのか。(菅原)


     (当日意見)
★泉さんのレポートのように原作や映画の情報を知って歌を読むのと知らないで読むのとでは違
 うと思うのですが、私は全く情報がないので、何も無しで歌と向き合っています。菅原さんの
 最後の3行、ここまで読むんですかね。(A・K)
★情報を知って読むのと知らずに読むのとそれぞれ良い点、悪い点があるのでしょうね。情報が
 たくさん有りすぎると却って作者の思いに届かなかったりすることもありますよね。情報を知
 っているのは悪いことではないけど、歌に向き合うときはいったん忘れた方がいい場合もあり
 ますね。でも、菅原さんの「気の毒で滑稽」あたりは賛成で爽快な気分で読みました。(鹿取)
★醜さへの恥じらいとかフランケンシュタインに深く寄り添っていますよね。(A・K)
★そうですね、その部分は原作に書かれているのか、菅原さんの独創か。どちらにしても醜さを
 恥じらいつつ真っ昼間に鶏とにらみ合っている図は面白いですけど。(鹿取)
★「落ち着かず」にフランケンシュタインの存在の何かが出ているように思います。それにして
 もここにフランケンシュタインをもってくるかと思いますね。字余りなんだけどぴたっときま
 すよね。(A・K)
★天高き日の設定もいいですよね。(鹿取)
★晴朗な感じがしますね。自分と重ねているのかなあ。作品と作者を重ねてしまったら陳腐にな
 るような。フランケンシュタインが何かの喩ととったらつまんなくなるんじゃない。鶏の歌で
 良いのは佐藤佐太郎、宮柊二 、俳句では加藤楸邨です。(A・K)






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