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熱海駅に進入する1101レ”桜島・高千穂”です。東京駅が10:00でしたので熱海駅は11時すぎだったのでしょうか?陽が高いですネ!それより何よりゴハチがHゴムですネ!・・・残席3様。いろいろ言いたいでしょうが、40年前ですから・・・左に見える153系のサロは青帯入ですよぉ~そっちをみてください。 73,06,30 熱海 1101レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
40年前ですから、まだ東海道線に西鹿児島行の定期急行があった時代です。その列車の名前は”桜島・高千穂”と言いました。途中、小倉で編成分割され(上りは併合され)”桜島”が鹿児島線ルートで、”高千穂”が日豊線ルートでそれぞれ西鹿児島へ向かいました。終着駅には24時間以上掛かり、そのため全線走破すると同一列車と2回擦れ違う(交換する)と言う列車でした。
この当時でもこの列車は異色でした。とんでもない長距離を走るのに、ロネもハネも連結されておらず、ロザも自由席扱でした、当然、ハザも全車自由席でした(食堂車は連結されていたのですが、北陸トンネル列車火災を機に外されてしまいました)。これには訳があり、当時、沖縄では本土の国鉄マルスシステム(一部の日本交通公社を除き電話取次ぎも含め)がなく、沖縄から鹿児島港に到着した沖縄の人が鉄道と言う輸送機関になれていなくてもスムーズに旅行が出来るようにあえて、複雑な座席指定システムを排除した列車として運転していたと言う事です。また、船便の時刻を無視した(連絡がとても悪かったそうです)列車時刻を設定したのには意味があり、東京行ながら、大阪ての乗降が出来る時間帯(下りが18時台、上りが7時台)にして1列車で大阪でも東京でもどちらにも利用できるように設定されていたと言う事を聞いた事がありました。
普段はガラガラでしたが、それでも繁忙期には増発されていました(ただ線路容量の関係でしょうか、鹿児島線経由だけでした)。また、繁忙期はこの列車に乗るための長蛇の列が東京駅ホームに出来るので晩年は品川発着に変更されたりもしていました。客車は”桜島”も”高千穂”も品川客車区の担当で頻繁にナハ10系が組み込まれていたのを鮮明に覚えています。繁忙期の臨時は九州側が受け持つのが慣例だったらしく一度、出水客車区(客貨車区?)表記の古ぼけた客車が上ってきて、この客車は絶対にC60の煤が付いているだろうなと頬でなでてみたい衝動にかられたのを必至に自制したのを憶えています。なお、機関車は東京-下関間、上下共に浜松機関区で60号機が頻繁に充当されていたのも良く覚えています。臨時は東京機関区だったり、下関運転所だったり一定ではなかったようです。
この風変わりな急行列車も沖縄に日本交通公社がマルスの発券システムを本格的に導入したことにより存在意義を失い、75年3月に廃止となってしまいました。
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別の日に撮影した”桜島・高千穂”の車内です。車内でのくわえタバコが時代を物語っています。現代は、新幹線をはじめ、全ての列車が禁煙となって本当に良い時代になりました。(・・・えっ!新幹線ってまだ全面禁煙になっていないんですかぁ!!) 73,06,16 高千穂・桜島 1102レ車内