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電化工事たけなわの姨捨駅に進入するDD51牽引の長野行普通列車がスイッチバックに進入します。背景の信号扱所が良い雰囲気をかもし出しています。機関車は707号機で新製されて3年弱の姿です。篠ノ井線電化後は米子に転属して山陰線のD51が淘汰されています。新製配置で3年程度で配転されるのはやはり珍しいのではないでしょうか? 72,08,05 姨捨 DD51707号
40年前の8月。当時の私は中学生の身でした。当然、長期休暇に相当する夏休みがありました。今だったら”暑いから!”と言って自宅の冷房の効いた部屋で1か月の間、避暑となるでしょうが当時の私は夏だろうと冬だろうと休みがあれば撮影に出掛けていました。学生の本分である学業はクラスの下から数えた方が早いくらいの成績でしたが、そんな事を気にしていたのは母親だけで父親と私は成績なんて何処行く風と言った感じで気にもしていませんでした。
この年の夏休みは信州周遊券(確か学割だと5日有効で2,200円だったと記憶していす。)をフルに使って小海線C56や中央西線のD51。更にはこの夏に運転された”ファミリーD51”が信越線長野―黒姫間で運転され、これらをくまなく撮影出来る様に計画をたてました。
新宿駅を深夜に出る167系臨時゛アルプス゛で夜明前の塩尻駅に着きました。そして中央西線を撮影し、その日のうちに小海線に移動して清里のユースホステルに宿泊し、翌日は早朝に運転された”八ヶ岳51”号を撮影していのす。そして中央西線に戻り一日の撮影終了後、列車を乗り継いで中津川駅に到着したのは深夜でした。そして日付が変わって大阪発の臨時「ちくま」に乗りました。深夜の中津川から乗車する乗客なんて想像していない様子で、指定席を確保してあったにも係わらず私の席は登山客のリックが山積みになっていました。自分ひとりでは到底動きそうもない荷物ですし、また深夜ですので車掌の姿も見当たらず、結局は指定席券を持っていながら床に寝た記憶があります。
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上下の普通列車が交換している横をDC急行がすり抜けて行きます。もちろん普通列車はDD51牽引の旧型客車です。 72,08,05 姨捨
ほとんど寝れずに長野駅に到着しました。その頃、駅の西側には長野工場が隣接していて廃車・解体待ちの蒸機やED17等が留置されたいたのを憶えています。目的の”ファミリーD51”まで時間があるので篠ノ井線の一番列車で姨捨に向かいました。今でこそ駅の裏に長野道が走っていた姨捨SAがありますが当時は本当に人っ気のない駅でした。たしか信号扱所の職員はいましたが、窓口の駅員はおらず許可のとりようがなく、ホームから適当に降りて撮影した記憶があります。篠ノ井線も秋には電化されると言うので工事が真っ只中と言う印象でした。かつてはD51が奮闘したであろう峠道はDD51の活躍の場と変わっていましたが、それも秋までの命でしたのでDD51とキハ181系”しなの”をメインに撮影しました。私にとって篠ノ井線のD51はあと2~3年残っていれば撮影できたであろうと思われる線区だけに思い入れも強く、かつて爆煙を上げて走ったであろうD51の姿を想像していました。これは当時、篠ノ井線沿線の人から聞いた話ですが篠ノ井線のD51は電化置換で無煙化する計画だったのが、蒸機運転での冠着トンネル内での劣悪な労働環境が問題視されてきたので、無駄は承知で一旦DD51で無煙化をして、その後に電化をする形にしたと聞かされました。後に調べてみると、この話はまんざら嘘ではなさそうで国鉄労働科学研究所で冠着トンネル内での煤煙を計測したところ既に人間が窒息しても不思議ではない環境にあったと文献に記載されているそうです。そしてこの劣悪な労働環境下で鉄道が正確に、そして安全に動いているのは機関士の責任感だけだと結論付け、国鉄当局に早急な改善を求めています。だぶん、この提言が無煙化へのはずみとなったのではないでしょうか?
ところで、当時はさすがにD51よりDD51の方が運転には楽だろうと思っていましたが78年10月に篠ノ井線にEF6458号機によるお召列車が運転された際に麻績ー篠ノ井間で乗せてもらった貨物列車の機関士さんがD51時代から乗務している人で、その機関士さんによると”煙が出ないからDD51の方が楽といえば楽だけどDD51はD51より力が落ちるし、何より一人乗務になったので山の中で何かあったときに何も出来ず大変で、カマの調子とカマ焚きの腕もあるけどほとんどほぼ無煙でトンネルを越える事も出来たので蒸機時代の方が良かった面もある”と教えてくれました。
そして数年前に長野への撮影の道すがら短時間ではありますが姨捨で撮影する機会がありました。当時は静寂だった姨捨駅の上には大きな長野道のSAが出来て常に自動車の音が聞こえ、時代の流れを感じた記憶があります。