もともとこの機関車は1950年代に日本車輛製造製の機関車で国鉄ディーゼル機関車の礎となった機関車の1両で鉄道考古学的にも大変貴重であると共に、愛くるしいスタイルで誰ともなく鹿島のカバさんと呼ばれていました。
現役を引退した後も長く常陸小川構内に留置され、後輩の活躍を目を細めて見守っているように思え、いつしか鹿島鉄道の守り神とも言われるようになりました。
鹿島鉄道の命さえあと1ヶ月と言う時期まで来ていて、ここまで往年の姿を残しているということは、いずれ何処かで保存されると思い込んでいただけに解体のニュースはショックでした。
DD901の存在は高校生の時代から認識していたものの、当時は撮るものがあまりにも多くて実際に撮影したのは社会人になり車を持つようになってからです。
とは言うものの当時は東北道は浦和から、常磐道は柏からの時代のため神奈川・横浜に住む身としてはあまりにも遠く、なかなか行けないのも現実でした。今なら、早朝であれば自宅の駐車場から三郷の料金所まで首都高で60分。浦和の料金所まで70分で行けますが当時は首都高入谷から降りて122号を通って浦和まで早くて100分。柏ICなど6号線をひたすら北上して常磐道に乗るまでに120分は掛かったものでした。当然、列車を利用した撮影が主体でしたが、列車だと気軽に寄り道することが出来ず、そのためDD901の走行写真は1枚しか撮っていません。
1月の相鉄モニとEDの解体に続き、動く事はなくなってもこの世にその姿を残しているだけでも価値のあった車両の解体にその衝撃は計り知れず、思わず口にしていたおにぎりを口にほおばったまま、涙がこぼれてしまいました…今年二度目の合掌
全くの余談となりますがフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)の鹿島鉄道DD901の項目では既に”2007年2月27日に解体された。”と表記されており、その速さに苦笑してしまいました。
この日は日曜日で貨物列車が運休のため一日ゆっくりと体を休めていました。当時は終点の鉾田まで貨物列車が設定され、そこそこの需要もあり鹿島鉄道に限らず何処の地方私鉄も活気に満ちていました。 86,12,13 石岡
朝陽を浴びて今にも入換を始めそうなDD901号機。この機関車のすぐ横を気動車が走り抜けていく姿に、先輩のやさしい眼差しが注がれているような気がして、ほほえましい思いを感じた事を思い出します。 00,01,29 常陸小川
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