岩手開発鉄道撮影の際に宿泊した大船渡で立ち寄った仮設の飲屋街の”復興屋台村”です。当初、この復興屋台村は16年12月末までの期限付でしたが延長され、3月末日で閉鎖になるそうです。その後は今は解体されると聞いています。ここに入っていたお店は新たな場所でまた営業を続けててくれる事を願いましす。この日、暖簾をくぐった居酒屋の女将に震災のことを聞いてみたかったのですが、明るくふるまっている女将にそれを聞くのは酷なのかなと思って、世間話だけをして店を出ました。 16,11,04 大船渡 復興屋台村 19:11頃 iPhone5 カメラ機能にて撮影
また、今年も03月11日を迎えました。早いようで、何も変わらなかった06年でした。いまだ福島・宮城岩手各県で12万人が仮設住宅や他県の親せきに身を寄せて不自由な避難生活を続けている事は片時も忘れてはならないと思います。特に福島原発の核の処理問題は100年以上の歳月を掛けても終わりが見えるのだろうかと危惧してしまいます。
実は東京電力に籍を置く私と同い年の友人がいます。彼はまさに福島と東京を往復して原発被害補償の話を進める実務担当をしてます。”今まで幾度となく厳しい言葉を投げつけられたかわからない”と神妙な顔をして言ってました。彼はまた”福島の人にしてみればその言葉でも足りないくらいの怒りを東電に持っているのだから当たり前だ”とも言ってました。そして彼は福島原発の被害地域を歩いた事のあるだけに興味深い事を言ってました。れは放射能で汚染された地域を国と東電とで除染を進めていますが、除染が完了した地域も戻ってくる人は極端に少ない事と言うことも話してくれました。それは居住地域は除染が終わっても山林等の除染は手付かずの地域が多く、雨が降ると途端に放射能の値が上がってしまうからだそうで、そうなると完全除染は不可能ではないかと言うことかもしれません。原発は安全と国が主張していた事がまやかしで、ひとたび原発事故が起きれば100年単位で人が住めなくなる故郷を生んでしまうことを忘れてはならないと思います。
鉄ちゃんにとって東日本大震災といえば燃料不足の福島県へ向けて磐越西線経由で緊急燃料輸送列車が走ったことが思い起こされます。初列車は降雪の中、空転で停止し引き出し不能に陥り会津若松からDEの救援を迎えたことは語り草になっていますが、あの時ほど鉄道の底力を感じたことはありませんでした。この鉄路を経営的に分断して今や北海道の様に経営放棄を宣言するまでに至った原因は自民党にあることを私は一生、語り継ぐ覚悟です。 11,04,13 猪苗代 9294レ補機解放作業 FUJIFILM FinePix AX250
さらに最近は震災以上に避難した先の地域で受けたるじめも問題視されています。横浜での福島原発被災で避難した子供のいじめがニュースで騒がれていましたが、大人の世界でも非難された方が差別を受けている事を耳にします。まさに現代版”橋のない川”だと思います。
こんな大きな災害ではあるものの被災された方々の事も含めてあの日の記憶が薄れている事は否定できません。毎年03月11日を迎える度にあの日、起きたことを思い返し、これから起きるかも知れない南海トラフ地震や首都圏直下地震の際に自分はどう生き残るかをシミレーションしなくてはならないと心新たに気を引き締めなくてはならないと思う次第です。
明日の被災者は我が身であることをあの災害から学び取る事が志半ばで亡くなった人たちへの供養になる気がします。
岩手開発鉄道で一番海に近い区間がこの区間です。津波の被害を受けましたがビルや大きな建物が倒壊する等の大きな被害はほとんどなく再建も意外と早く進んだ地域であります。しかし、あの日、避難した山から眺めた街を見て、もうここには住めないと岩手開発鉄道の社員の方は思ったそうです。 16,11,04 岩手開発鉄道盛-赤崎 117レ 11:30頃 Canon EOS7D MarkⅡ
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