私がED75を被写体として意識しだしたのは高校生の時代からで、かれこれ30年になろうとしています。撮りだした頃は一般番台の新製は終わっていたものの700代はまだ新製されている時代で、奥羽線へ行くとピカピカの700代を見かけることがありました。
当時は現役蒸機崩壊寸前で巷では「SLブーム」という言葉がマスコミに氾濫していましたが、もともとへそ曲りの私のこと。その大勢に乗り切れずEF58をはじめとする旧型電機に目を向け、更には先輩のアドバイスから赤電機と称される交流電機を撮るようになりました。
赤電機の撮影に躊躇していると先輩より「一度は撮影に行ってみなさい。」と言われ、出撃したものの現地で果たしてこんな小さな機関車が被写体として魅力的なのかなぁ?なんて疑問を持ったのも事実です。ただ旧型電機の風格もないものの赤電機には躍動感を感じていました。今思えばその躍動感こそが赤電機にとっての”華の時代”だったのかもしれません。
当然その頃はED75をはじめとする赤電機を撮る鉄ちゃんはほとんどなく機関区に訪れれば珍しがられ、撮影のためにパン上げや小移動など朝飯前の様にしてもらって手厚く歓迎してもらえる事もしばしばでした。また地方の小駅でもほとんど駅員のいる時代でしたので、列車待ちの時間などに駅事務室に手招きされお茶を頂いたことも何度もありました。特に盛岡鉄道管理局の運転取扱は非常に厳正に行われ運転原簿も丁寧に記入され、また列車監視もどんな天気でも直立不動で列車が消えるまで立っている姿に少なからずとも感動したものでした。
場所によっては特急・急行電車以外はED75しか見ることの出来ない区間さえあり、当時を思い返すとED75が東北線から撤退するなんて想像すら出来ませんでした。まさにED75がカッコいい時代でした。「姿あるものいつかは滅びる」そんな事をひしひしと感じる今日この頃です。
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定期3重連で有名だった1151レです。この頃は12月になれば白河まで来ると雪景色になったものでした。特に東北道で北上して那須あたりから急に雪景色になると運転にもいっそう緊張した覚えがあります。最近は冬に仙台あたりに行っても雪景色になっていないことも良くあるようになりましたがこんなところでも温暖化を感じてしまいます。 84,01,08 白坂 1151レ
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東北線黒磯口でED75の牽引列車として忘れないのがこの3050レ(下りは3051レ)でしょう。隅田川-札幌貨タを青函連絡船を挟んで結んでいた特急貨A列車です。毎日一箇所も欠けることなく満コン状態のコキを重連総括で運転されるこの列車は1000番台でしかこなせない運用だけに”ゆうづる”以上の花形運用だったと言っても過言ではありません。 84,12,09 久田野 3050レ
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鳥取お召撮影後、疲れ果てて帰宅したもののどうしても撮りたくて自宅滞在4時間で今度は福島へ向かいまたし。さすがに車の運転は疲れたので上野から新幹線に乗って(当時は東京-上野間未開通)、金谷川駅から歩いた記憶があります。青森(転)の運用だと言うことはわかっていたのですが何号機が来るのかわからなかっただけにお気に入りの151号機が撮れて嬉しかった事を思い出します。今は福島大学のキャンパスが建設され周辺は一変してしまいましたが、この写真は今でも撮れるそうです。 85,10,23 金谷川 9102レ
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北風の強い日でした。この頃になると秋田機関区で余剰になった700代が福島機関区に転入してきてすっかり一般番台の影が薄くなっていました。特に客レには700代が入る事が多く一般番台が来てくれて嬉しかった事を思い出します。 84,12,09 矢吹 131レ