DT200Aの庫 (goo-blg)

今日で実質引退するDD51に寄せて。


 篠ノ井線無煙化のために投入された699号機です。当時、既に篠ノ井線の電化は決定しており、それまで蒸機運転を継続する計画でしたが冠着峠の蒸機運転による煤煙の過酷な労働条件が国鉄内部でも問題となり他線区の無煙化のために新製していたDD51を急遽、篠ノ井線に投入して電化前に無煙化を図ったと言う極めて稀な経緯があります。そのため篠ノ井線でのDD51の画像は極めて少ない様です。   71,12,30   塩尻運転区    DD51699号機   KONIPAN スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED


 撮影当時の国鉄は財政難で電化はしたものの電気機関車が足りず電化後も引き続きDL運転されていた列車も珍しくはありませんでした。長崎線が電化しても”みずは”は電化前と同様、DD51でした。この”あかつき”もかなり晩年までDD51牽引でした。    76,12,24 田原坂―植木 4043レ OM-1 TRI-X スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED.(修正=電線削除)

 本日(21年03月12日)限りで関西線で定期運用が消滅しDD51は実質引退となります。日本の現役蒸気機関車末期ではその無煙化の立役者だったDD51は"デラックスデコイチ"と揶揄されていましたが、その当時から天邪鬼の私の事”この機関車はカッコ良い”と蒸機撮影の合間に来るDD51も喜んで撮影して撮影地では変な目で睨まれた事もしばしばでした。
 試作機である1号機は奥中山でD51の補機を付けて勾配性能試験をしたと言う歴史からして動く化石と言っても過言ではないと思います。パワー的にはD51に足りず、ただ無煙化出来ると言う事だけで増備されたDD51ですが、その中途半端な存在でありながらよくも半世紀以上、現役機関車として君臨する事が出来たと言う事は日本の鉄道輸送で列車単位の牽引力を求めなくなった時代背景もあるのではないでしょうか?
 今後はJR東とJR西にDD51は残りますがJR東のカマは工臨の気動車化で風前の灯火で西に残ったDD51のみとなり絶滅危惧形式であることは間違いないと思います。
 そのDD51引退の記念する日に、当時から変人てあった若造が撮影したかなり昔のDD51の画像をご紹介してDD51への餞にしたいと思います。


 成田空港建設のために運転されていた石材輸送列車です。後にジェット燃料輸送は機動隊を動員して厳重な警備の中、運転されていましたかこの石材輸送はいたってのんびり運転されていました。発駅は水戸線川島駅(?)でこの列車はその返空列車です。我孫子駅で内郷機関区のEF80に引き継がれます。この写真はDD51を撮るためでなく首都圏にはほとんどその姿を見せなかった内郷機関区のEF80を撮影するためにいたものです。    77,02,05   我孫子   8665レ


 昨年の秋、お忍びで、少し盛りを過ぎた紅葉を求めて京都を訪れた際に嵯峨野観光鉄道に乗る機会がありました。馬堀駅には40数年ぶりで降り立ちましたがその変貌ぶりには驚くばかりでした。さすがに嵯峨野観光鉄道のトロッコ亀岡駅付近は当時の面影が残ってましたがこの写真は撮れなくなっていました。     77,05,07   馬掘    325レ   DD511171号機


 私が若い頃、関西圏内の鉄ちゃんが羨ましいと思ったのはゴハチのブルトレが撮れると言う事と身近に非電化幹線が存在することでした。それは山陰線とこの福知山線を指すものでしたがさらに保津峡や武田尾など素晴らしい撮影地が山沿いする事も憧れる大きな要因だったと言って過言ではないと思います。念願の武田尾での撮影はDD51撮影の中でも忘れられない一コマでした。    77,05,08   武田尾   445レ


 現在は京都鉄道博物館に保存されている旧二条城駅舎時代の画像です。右に写る貨物駅が当時の雰囲気を良く表現しているのではないでしょうか?
 この当時、山陰線京都口ではDD54からDD51に置き換わった直後だったと言う事は最近知りました。牽引する1184号機は晩年、東新潟機関区や鷲別機関区に配置された事もあり思い入れのある機関車で、この機関車のナンバープレートのレプリカが私の部屋にあります。   77,05,28   二条   1890レ   DD511184号機



 この当時、千葉鉄道管理局はDL大国でした。多くのDD51やDE10が佐倉機関区に集中配置されていました。DD51は成田空港ジェット燃料輸送が始まると機関車が不足して急遽、1805号機までのDD51最終ロットが新製された程でした。
 佐倉機関区ではDD51は貨物用でDE10は旅客用と短編成貨物用と用途が別れていてかなり晩年まで残っていた成田―上野間の定期客レはDE10牽引でした。また、時折運転される上野―我孫子―成田間の団臨も主にDE10が牽引していましたが、いつしか常磐線のスピードアップに伴い最高速度が低いDE10に代わってDD51牽引が多くなっていました。これは運用表を見ても一目瞭然で団臨牽引はいつしかDD51の役目になっていきました。   77,10,01   布佐    回9825レ    DD51866号機



 この頃になるとにわかにDD51を追う鉄ちゃんの姿をチラホラ見る様になってきました。たしかこの日は団臨があって上野から会津若松まで夜行の”ばんだい”に乗りやって来たものの霧が深く午前中はムダムダだったと記憶しています。それでも午後の定期貨物列車はバリ晴で撮れた記憶があります。この日は団臨が運転されていた事もありこの周囲に数人の鉄ちゃんがいましたが関西鉄ちゃん軍団が何人か来ていて地元鉄ちゃんと言い争いになっていた事を鮮明に覚えています。     82,10,22    日出谷   1291レ


 撮影当時はまだ新日鉄釜石工場が稼働していたので釜石線には何本かDD51の貨物列車が設定されていました。さすがにここは鉄ちゃんが訪れた形跡はなくバルブ撮影をしようと釜石駅の構内本部へ行ったら大変珍しがられ、もてなしてくれた事がありました。いまはこの撮影地のすぐ近くに自動車専用道のICがありますが、当時は東北道北上ICからここまで来るのに一苦労でした。       83,05,10 平倉-上郷 694レ TRI-X オリンパスOM1 スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED


 この当時は完全に意識したDD51撮影していました。この頃は既に中央道は全通しており中津川ICから飛騨小坂まで峠越えをして高山線に辿り着いてました。中央道の全通で相当、便利になったとは言え前夜に出発して早朝到着というのが常でした。CTC化が早かった高山線では駅で臨時列車の時刻を聞いても把握していない事もあり閉口した事がありました。他の管理局管内はCTC化された線区でも自駅の時刻は把握していたの対して名古屋鉄道管理局管内はそれほど厳密に時刻抜粋をしてなかったと記憶しています。そのため駅でCTCに時刻を聞いてもらった事も何度かありました。    85,04,29 久々野 9904レ


 八高線では高尾山初詣臨が有名ですが実は節分の日にも同じスジで毎年節分臨が運転されていました。その昔は金子坂でC58の節分臨の写真を見掛けた事がありますが、DD51になってからも毎年節分臨が運転されていました。1月と2月とでは明らかに陽の出の時刻が早くなっていて1月では陽影の場所も節分臨では撮れる場所がいくつかありました。この場所もそのひとつで元都庁の大先生とご一緒したのですが、朝からドヨヨヨ~んとした天気でテンションただ下がりだったのですが、コンビニで買い物をしている間に急速に晴れだしてハイテンションで慌ててこの撮影地に向かった懐かしい思い出があります。     85,02,03    小川町―明覚    9222レ


 この写真は85年鳥取国体お召の撮影前のついでの撮影ですが、今思い返すとけして”ついで”とは言えない程の貴重なカットです。この時も元都庁の大先生とご一緒させていただきましたが自分の車で山陰まで向かうと言う無謀さが当時、自分が若かった証拠だと思います。 今だったら間違いなく飛行機&レンタカーだなぁ!   85,10,19 中山口 562レ 


 この頃は既に八高線の高尾臨は鉄ちゃんのターゲットとなり運転日には多くの鉄ちゃん車が追っ掛けをしている姿がありました。ましてヘッドマークが付くと言う情報があればなおさらです。それでも通いなれた土地勘から抜け道を駆使して余裕をもって追っ掛けを敢行した記憶があります。この場所は電化前に樹木が伐採され一時期だけ撮れた撮影地です。      88,01,15   高麗川   9222レ   TMY スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED

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