以前、こんな言葉に出会いました。
自分にとって意味があることだけでよい。
そうでなければ、短期的な消耗にすぎなくなる。
本当にそうだなあと思います。
これやりたい
これやることに自分を感じられる
生きがいだからやれる
それなら長続きもするし、へたれないと思いました。
最近、そうじゃない
対局の生き方
その関係に気づきました。
その関係に気づきました。
自分にとって意味があることだけでよい。
その逆とは
意味がないこと・・
意味がないこと・・
無価値
やりがいがない
認められない
これって、人のために生きる
ことの究極だ・・と・
今までを振り返って、誰からのためにがんばろうと思ったことも、
結局は自分にとって意味があることを無意識にしてきていました。
医師という職業は、誰かのために役に立てる職業とよく言われます。
でも、続ける原動力になっているのは、自分にとって何らかの彩りがあり、意味を見出せるからでした。
でも、続ける原動力になっているのは、自分にとって何らかの彩りがあり、意味を見出せるからでした。
人のため・・といいながら、結局は自分のためだったりするわけです。
苦労していても、やはり、そこに認めてもらえないと続けられないし、まったくの無報酬ではやる気もそがれるわけです。
誰かの役に立つ
とか
自分のため・・ではない生き方をする
しかも、それで、消耗せず、続けられる・・
これが、冒頭の言葉の逆なわけです。
自分にとって意味がないことでも消耗せず、続けられること・・
究極の例としては、
聖職者のように(?)見返りを求めず、奉仕の精神でしかも、不平不満もなく・・
ああ・・とても、とても無理だな・・
ただ、意味がないことにも疲弊せず続けることができるか・・
という命題に気づけたことは、とても良い発見でした。
自分にとってモノクロなことにも、消耗しない心を鍛えること
課題だ~
一見、似て非なりなのですが・・・
両端のはざまということではなく、合理的に生きることへのチャレンジの話といったとこでしょうか・・・
aruga
職業の性質や、職場事情によっても違いはありますが、こんなことを考えたことがあります。
自分にとって「価値があるか、否か」あるいは「勝った、負けた」「自分のためか、人のためか」という二者択一という思考を手放せないのは、ひょっとしたら「大人になれない症候群」なのかな、と30代になったときに考えました。
自分が信奉する理念や理想で世の中や周囲の人間を見てしまうという唯我独尊に陥ってしまって、自分が成長するのを止めてしまっていると思い始めました。
すると以外に人の意見を聞くゆとりが生まれ、そして自分が企画立案したことの変更も苦にならなくなり、疲れることが少なくなりました。
尊敬できる先輩を見ていて、人としての奥行や幅が自然と生まれるというのはこういうことなのか、と理解しました。
二者択一で自分を見失ってしまって疲れてしまう生き方ではなく、長くひとつの仕事をこなしていく、融通無碍な生き方が出来るようになれば、それこそが「価値」と実感できました。
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