最近、医療連携の会でAYA世代の患者さんについて話し合う機会がありました。
AYA世代とは15~39歳をさします。
介護保険の対象外のため、社会支援が不十分になる可能性があり、私たちは特に情報交換など密にしていく患者さん方でもあります。
私には、若い頃の忘れられない出来事があります。
緩和ケア病棟に転院してきた、16歳の肉腫の患者さんでした。
病棟の性質上、事前にご家族、がん治療医等から病気の深刻さや死の可能性について説明は聞いていらっしゃると聞いていました。
悪性腫瘍は、肉腫とがんに分かれ、それぞれ症状の出方も異なります。
肉腫は、悪液質にならずあまり痩せたりしません。
死の間際まで症状が強くでないことも少なくありません。
ぎりぎりまで死を予想することが難しいこと。
肉腫は、悪液質にならずあまり痩せたりしません。
死の間際まで症状が強くでないことも少なくありません。
ぎりぎりまで死を予想することが難しいこと。
今はそう語ることができるのですが、当時の私にはその経験がありませんでした。
16歳の患者さん
腫瘤は相当の大きさでしたが、
顔はふっくらとしたまま、数か月ほぼ同じでした。
症状は
16歳の患者さん
腫瘤は相当の大きさでしたが、
顔はふっくらとしたまま、数か月ほぼ同じでした。
症状は
腹水でスカートがはけなくなったことくらいで、痛みもなく、医療者も家族も、ご本人も楽観的でした。
加えて、若い患者さんだったこともあり、
改めて、死という言葉は積極的には使っていませんでした。
加えて、若い患者さんだったこともあり、
改めて、死という言葉は積極的には使っていませんでした。
予後の読み取りの甘さがありました。
ある日曜日の午後、急変されました。
その当時、育児のため非常勤勤務だった私は呼ばれることはありませんでした。
月曜日。
出勤して、その患者さんがお亡くなりになったことを知りました。
月曜日。
出勤して、その患者さんがお亡くなりになったことを知りました。
予見もできていませんでした。
その日曜日の担当看護師さんは緩和ケア病棟の中でも大変ベテランの方でした。
亡くなる数時間前、急な呼吸困難でのナースコールでした。
患者さんが、看護師さんに、
「私は死ぬの?ねえ、死ぬの?」
と、看護師さんの胸を握り拳で叩きながら尋ねたと聞きました。
愕然としました。
「私は死ぬの?ねえ、死ぬの?」
と、看護師さんの胸を握り拳で叩きながら尋ねたと聞きました。
愕然としました。
ただただうな垂れ、沢山の後悔がよぎりました。
入院した病棟の性質上、若いとはいえども、死が避けられないことは理解されているだろうと関わった医療者で、カンファレンスも含めそんな話をしていました。
死が避けられないと理解していることと、死を覚悟するということは違います。
でも、その違いを私はその時まで分かっていませんでした。
私は死ぬのか?
そう尋ねながら、数時間後に死んでいった患者さんに、本当に申し訳ないことをしました。
たった一回の人生を生き抜こうとしたときに、大切な最期の時間を死を覚悟して歩ませてあげることができなかった・・・
死ぬということを伝えてあげられなかったことの後悔ではありません。
死を遠ざけてしまっていたことの後悔でした。
患者さんなりに、望むような形で語り合いたかったかもしれないことを聴こうとする姿勢がなかったのです。
若い患者さんだから、死について触れない方がよいのではないか、ご自分から口にされた時に耳を傾ければよい、そう、思ってしまっていました。
都合の良い自分のための理由でした・・・
こうした出来事を通して、
こうした出来事を通して、
患者さんが最期の時に、ご自身なりに死を生き、ご自身なりに人生にさよならの手を振ることができるように支援を行っていく・・
何歳であっても、小児であったとしても、どの世代でも、その人に合った方法で取り組む。
そう、意識するようになりました。
死を語ること≠終末期医療 です。
早期からの緩和ケアでも、診断時からの緩和ケアでも、どの時期であっても死について語ることは避けないということです。
未熟だった自分を思い出すのです。
2018年頃、指揮する緩和ケアチームが薬剤に重心を置いたチームになり始めた時、2013年の記事を再掲した記事を書きました。
そう、意識するようになりました。
死を語ること≠終末期医療 です。
早期からの緩和ケアでも、診断時からの緩和ケアでも、どの時期であっても死について語ることは避けないということです。
未熟だった自分を思い出すのです。
2018年頃、指揮する緩和ケアチームが薬剤に重心を置いたチームになり始めた時、2013年の記事を再掲した記事を書きました。
自分への自戒を含めて。
そして、社会的にAYA世代に注目が集まってくるようになって、ここに改めて引用した記事としました。
未熟な時代があった自分を忘れないために。
覚悟するとは、不利なこと、困難なことを予想して、それを受けとめる心構えをすることと辞書には書かれています。その方の覚悟が捻れていってしまったものだったとしたら、悲しく残念なことです。納得して薬を飲まないと自ら決めたことを皆で背負い合うのではなく、密かに一人で飲まなかった孤独にもあまりある悲しみを感じます。
シェアしてくださり、ありがとうございました。もっと取り組んでいかなくてはとあらためて意を強くしています。
aruga
様々な場面、様々な患者さんで色々なことがあります。
その一人一人に対応するのも医療だなあとつくづく感じました。
(固有名詞が含まれていましたので、アップは控えさせていただきました。)