緩和ケア医の日々所感

日常の中でがんや疾病を生きることを考えていきたいなあと思っています

後藤さんへの祈りの中で思うこと

2015年02月01日 | 社会時事

先の話のような、
賢者は現れず、
一頭のラクダによる解決は
ありませんでした。




大変、残念で

悲しいことと

なってしまいました・・・





欧州では、このところ自民族への帰属意識が高まっていると聞きます。

移民や他民族をできるだけ中に入れたくないという気持ちです。

このことは、日本では、
イスラムやアラブ系の方に対する感情と
理解しているように思いますが、
そうではなく、アジア人も例外ではないようです。

例えば、イギリスでアジア人が
出て行けと言葉を浴びせられたり、
切りつけられたという話も耳にします。







以前から、疑問だったこと。

まっすぐな国境線・・




島国で育った私は、
ほとんど国境線のことを
考えたことはありませんでした。

アフリカ、中東にひかれたまっすぐな国境。

それに対し、まっすぐではない欧州の国境。

両者の違いは、

他の支配による力で人為的にひかれた線か
隣国との葛藤の中から自ら形成に参画した線か・・

これだけではなく、
複雑なものでしょうが、、
説得力があります。





このようなブログを見つけました。

(地図1に示されている国は、)トルコ、イラク、シリア、そしてイラン。それぞれ国内外に紛争を抱えており、新聞紙上をにぎわさない日はない。しかし世界地図 を眺めているだけでは分からない事実がある。それは、この4カ国にまたがって暮らしている、「世界最大の少数民族」クルド人が、地図から抜け落ちているか らなのだ。
実際のクルドは、主に地図2の丸く囲った部分に居住する「山岳民族」だ。ではなぜクルドは自分たちの国を持てなかったのか?以下、歴史的に考察してみよう。
もともと中東の大部分は「オスマントルコ」であった。第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシア、アメリカの連合国と、ドイツ、オスマントルコが戦っ た。当時イギリスは世界の覇権国家で、イギリス軍は海洋を支配。カイロ、ケープタウン、カルカッタという要所を押さえ、植民化政策で巨額の富を築いてい た。(3C政策)そのイギリスに対抗して急激に力をつけてきたのがドイツ帝国。イギリスが海洋を支配するならば、ドイツは大陸を支配しようと試みた。当時 すでにベルリン、ビザンティン(現イスタンブール)までの鉄道が敷設されていたので、その鉄道をバグダッドまで伸ばして、中東を陸から支配しようと試みた のだ。(3B政策)新旧二つの帝国はやがて、世界の覇権をめぐって争うこととなった。当初オスマントルコは中立を保っていたが、やがてドイツと手を結び、 イギリスと闘うようになる。
イギリスはオスマントルコを解体するために、「アラビアのロレンス」こと考古学者のロレンスを使ってアラブ人を組織、北からはイギリス軍が、南からはアラブ軍がオスマントルコを攻め立てて、大戦に勝利した。
「さてオスマントルコをどう分割しようか?」と、協議したのがイギリスとフランス。サイクス・ピコ協定なる秘密会議で、ヨルダン、イラク、パレスティナは イギリスが、シリア、レバノンはフランスが統治しましょう、と勝手に決定し国境線を引いたので、見事な直線の国境となった。
それでクルドは?本当なら「この地域はクルド」と指定し、国境線を引くべきだったのだろう。しかしその時、クルド地域のモスルに大量の石油が眠っているこ とが発見されたのだ。イギリスはこの地域を最重要視し、本来はクルドの土地であるところを、イラクに編入してしまったのだ。
以後、クルド人の長い長い「独立闘争」が始まる。当時トルコも英仏の植民地状態であった。その中で立ち上がったのがトルコ建国の父、ケマル・アタチェル ク。アタチェルクは勇敢に独立闘争を戦い、アナトリア半島、つまりトルコ領土を確保した。しかしその領土東半分は、実はクルドの土地でもあったのだ…。

イラクの子供を救う会ブログ
http://www.nowiraq.com/blog/2007/12/post-121.html




アラビアのロレンスの舞台となった砂漠に
行ったことがあります。

砂嵐の中・・
朝と夕とでうねをかくような地形が
変化することもあり、
ジープに乗っていても、
どこを走っているのか、何が目印なのか
私にはよくわかりませんでした。





今回の事の背景には、
他地域国の介入問題、
領土という問題があることを知り、
改めて、何も知らなかったことに申し訳なさと
隠れた深い悲しみを感じます。

国際舞台で日本が多様な国の中にあって、
一国として認められるような国になろうとするなら、
根っこにある問題はなんであるのか、
それを知ったうえで、
日本人はどうあるべきか考えることができなければ、
成熟した国としては
認めてもらえないのではないでしょうか。

大きな力の後ろにいるのではなく、
同じ位置に出て、
あるべき姿を共に論じられるような立場として。

海外からは、
なぜ、日本は中立的な立場をとらなかったのか
という疑問が寄せられていると聞きます。

戦争をしない
武器を持たない日本
第2次世界大戦で大敗を帰し、
原爆という大きな傷をおった日本。

それがなぜ、中立性を失うのか・・と。
それが日本ではないのか・・と。






この年末はフランスに居ましたが、
自分をぶらすことのない強い国だと思いました。

文化というか思想というか、
そうした国家全体の認識が、
一人一人の認識としても反映されていて、
他国との争いや自国の自立などの経緯から
生まれたものなのだろうと思いました。

初めて歌詞を知った時は、
本当に驚きましたが、
フランス国歌のラ・マルセーユからも
決意の表れのようなものを感じます。







人を支援することを目的とする職業のためか
私の回りには国際協力や人道支援などを
目指す若い人たちがいます。

一生懸命考え、
どうすれば皆が幸せになれるのか・・
脆弱な人々に思いを馳せている人達です。


そうした方々へ、
私はいつも切に願っていることがあります。

どうぞ、死なないでください。




死を越え、死を恐れないで、
人を助けたいと思う心は、
本当に崇高で、
気高いものだと感じます。

でも、死んでしまっては、
その悲しみを残った人に
背負わせてしまうことになります。






祈りの中で思います。


まっすぐな国境線が引かれた地域の悲しみに
憎しみを捨てて、心を馳せることができますように。

その線を引き直す知恵と勇気を与えてくださいますように。
地図が難しくとも、人々の、そして、私たちの心の中の線を。

多様性の葛藤と葛藤のぶつかり合いが、
暴力ではなく、知的な分析となり、
人々が一歩中に歩み寄れるような社会の形成につながりますように。

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3 コメント

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Unknown (f。t)
2015-02-06 21:41:01
過去を振り返るたびに、人間は恐ろしいことを繰り返して

繁栄してきたと・・・・思いたくないのです
恨みは不幸を齎すだけなのに~
憎しみは増えても愛は減らない。いつか観た映画のセリフです。
返信する
Unknown (aruga)
2015-02-09 00:05:49
本当に、痛ましい限りです。
コメント、ありがとうございました。
返信する
コメント、ありがとうございました (aruga)
2015-02-09 00:18:43
アップをご希望されなかった方々からも、コメント頂き、ありがとうございました。
心に痛みを覚えながら、さまざまな体験を通して、悲しみを共有してくださいました。
ニュースの度に、見いってしまいます。これからも、考え続けたいとおもっています。
返信する

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