ずっと、ずっと前のこと。
国立の病院の緩和ケア病棟に勤務していた頃のことです。
石碑の設計など手掛けられてきた患者さんでした。
石碑の設計など手掛けられてきた患者さんでした。
緩和ケア病棟に入院された時、個室でご自身のお墓の設計を熱心にされていました。
お墓はこんな風にして作られるのか・・と思うほど、繊細で正確に㎜単位の設計図が描き出されていました。
設計しながら、自分らしいお墓とは何か・・という哲学的な命題に向き合われていました。
日々、その設計図はより緻密に、斬新に描き出されていました。
そう思っていたのですが・・・
次第に、その仕上がりはゆっくりとなり、何度も書き換えられたり、図面を広げない日も増えていきました。
病室に行くと、医療的な話の後はこの設計図の話になっていましたが、足踏み状態となったことに関わっていた医療スタッフも不思議で、「どうなさったのかしらね・・・」と、皆、あら?っと思いつつも沢山のことで日々過ぎていっていました。
ある日、病室に行った時、何があったわけではないのですが、やっとその理由に届いたように感じました。
患者さんにとって、設計図が出来上がった時がさよならの時だと無意識に感じているのではないか・・
図面が仕上がり、貯金を使って発注し、墓石が出来上がる・・・
それを指示したところに据えられたら、後は、死が訪れ、そこに自分が入っていく・・・
それを指示したところに据えられたら、後は、死が訪れ、そこに自分が入っていく・・・
最後の仕事が仕上がった時が別れの時。
最後の命を注いだことは未完のまま・・というのは、実に自然なことなのかもしれない・・と。
この当たり前のようなことに、気づくことができず、病室に行っては、設計図は進んでいるのですか・・などと気軽に話題にしてきたことが本当に申し訳なく感じました。
その気持ちを率直にお伝えしてみました。
そうなんですよ。
自分でも最初はただ、嬉々として専門の道を自分のために活かそうと思っていただけだったのですが、いつしか、図面を書きながら、死ぬということを実感するようになってきて、これが出来上がらなければ、死ぬことは先延ばしなるような感覚になってしまったのでしょうね。
でも、仕上がらなくてもよいのではって思うところもあって・・
死で人生が完成するのではなく、未完な死がいのちを続けてくれるともとれる出来事でした。
生きることとは、死と葛藤を続けることなのだなあと心に沁みこみました・・
冒頭の写真は、バルセロナの今も完成はしていないサクラダファミリア教会
Thomas TangelderによるPixabayからの画像
冒頭の写真は、バルセロナの今も完成はしていないサクラダファミリア教会
Thomas TangelderによるPixabayからの画像
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この言葉は心に沁みます。
この患者さんとは状況も違いますが、私も病気をしてから、初めて、死というものと向き合う機会がありました。
死は、終焉ではない、通過点だと感じたものです。
少し観点がずれているかもしれませんが、このお話を読んで、死ぬまでちゃんと生きようと思えました。
また、思い残す事、という言葉がありますが、思い残すことがあるような人生の方が、豊かなのかもしれないな、とも。
いつも、ありがとうございます。
ホアン・ブラッツ氏の言葉より
写真集ガウディ
写真・二川幸夫 文・東野芳明
鹿島研究出版会
発行 昭和41年3月31日
今回の講座(と書かせて頂きます)を拝読して久しぶりに開いてみたくなりました。拝読しながらガウディの建築、教会についての見方考え方が今までとは異なるような気もします。ノートに記録するに難しく深い内容でした。
ありがとうございました。
いや~、実に素敵な言葉です。
思いを残すことの意味をこのようにお書き下さり、逆のこの視点がなかったなあと気づかせていただきました。
後悔しないようにと緩和ケア医療者はあまりに先回りしすぎているのかもしれません。
心に刻みたいと思います。
こちらこそ、ありがとうございました!
aruga
何だかとてもうなづける言葉です。
こちらこそ、ありがとうございます。
人のいのちだけではない、残ることの意味を大切にしたいと思います。
aruga
この記事の内容を、私のブログで少し書かせていただこうと思います。
事後承諾になろうかと思いますが、よろしくお願いいたします。
取り上げていただけるなんて、なんと嬉しいことでしょう。
本当にありがとうございます。
前回は返信に時間がかかってしまい、申し訳ありません。
これからも、どうぞ、よろしくお願いします。
aruga