先週の6月24日、
第22回日本緩和医療学会学術大会での
大会長講演に、
多くの方にご参加頂き、
心から感謝申し上げます。
市民の方から、
抄録を読みたいと
ご連絡を頂き、
つたないものではありますが・・・
本当に、ありがとうございます。
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私が緩和ケア医である理由
大学時代、バレエの夢を諦められずにいたころ、
膝の靭帯を切った。
自分の中の空白を見ないように生きていくことを覚えた。
卒後、緩和ケアを考えつつ腎外科に進み、
長男を出産。
産めばなんとかなると楽観的だったが、
子供の疾病で臨床医の道は途絶え、
奮起した研究も次子の切迫流産で壁にぶつかった。
幸い出産に漕ぎつけたが前に進めず一家で渡米。
ミシガン大学腫瘍外科で、
マウス乳癌モデルを用いた
遺伝子免疫応答の実験を始めた。
がん終末期の様々な死を実験室の中で知った。
この傍ら、ホスピスに出入りするようになり、
帰国後も緩和ケア病棟で働くようになった。
ここに到達した患者は人生の決断ができた人々だった。
その前にこそ
緩和ケアの役割があるのではないかと考えていた頃、
以前の上司から声がかかり、
大学病院で緩和ケアコンサルテーションを始めることになった。
抗がん治療か緩和ケア病棟かという説明の横で、
治療過程早期からの苦痛への配慮を声に出しても、
厳しい現実があった。
まずは麻薬などの安全な投与方法の啓蒙を目指したが、
時間がかかった。
なぜ、苦労してまでこの道に身を置き続けようとするのか自問した。
私に内視鏡のスキルがあれば、
多分、母親として検診医の道を選んだだろう。
しかし、私にはなかった。
だから、根拠を示せるよう論文を読み、専門家に意見を求めた。
何よりも、患者さんの中に答えを見つけることができた時は
感謝で一杯になったし、
伴走者であることで
人生を豊かにしてもらっていたことに気付いた。
様々な厳しい現実は他者を理解する力になり、
スキルがなかったから困難でも新しい分野に取り組むことができた。
そして、子どもたちとの苦労は私を強くしてくれた。
途方に暮れ嘆いていた中に、
実は、大きな意味があり、
今の自分はそうした過去すべてがあって
形成されていることにやっと気づくことができた。
過去が私を緩和ケア医にしてくれて今がある。
そして、明日もこの道を歩む。
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日本緩和医療学会誌
Palliative care Research Vol.12 Sppl. S114. 2017
第22回日本緩和医療学会学術大会抄録集
(行替えのみ変更)