連日新聞紙面に取り上げられている富山県射水市民病院の問題について触れてみたい。
延命治療の中止として考えた場合、問題点は①外科部長の単独行為または取り巻く閉鎖的行為であること、②患者本人の事前意思が不明確であることである。
①について
責任は私がとるので、他の人を巻き込まないためにも・・と一人で決定することを美徳とするところはなかっただろうか。多職種(医師、看護師、MSW等)で、多角的に検討することが何よりも大切である。個々の考えに誤りはないか、複数の目にさらし、厳しい批判を受けることを避けてはならないと思う。多くの病院内には倫理委員会があるが、これは研究の倫理性を検討する会で、このような臨床事例を検討する会ではないのが通常である。臨床倫理委員会があればよいのだが無かったとしても、患者に関わる医療スタッフで随時カンファレンスを開催することは日常のことである。
②について
95年東海大学事件の際、安楽死の要件(P.3)が明示された。この安楽死の場合、患者本人の事前意思表示のあり方について重要な点は、知的精神的判断能力がある成人が自発的に真摯で持続的な要請を行うことにある。例えば、人工呼吸器を装着され苦痛な状態で最期を迎えさせてほしいと求めた場合、知的精神的判断能力があったと考えられるだろうか。
間接的安楽死の要件には、患者本人からでなかくとも家族の忖度(家族からの証言)でよいとされていれているが、ここには厳しい条件が盛り込まれるべきであろう。単に以前、患者は延命治療はいらないと話していたからなどという範囲で忖度としてはならないと思う。臨床現場で迷いを生じたとき読み返す本に、私のいのちは誰のもの(旧大蔵省)星野一正著がある。その星野先生の96年のわが国における安易な家族の忖度の容認 について、時間がある方はご一読頂きたい。
ところで、今朝の朝日新聞の社会面に、“人工呼吸器を装着した患者である父親の拒否反応を見た息子が酸素マスクに付け替えてもらったところ、数ヶ月後患者は亡くなった。(筆者要約)”という記事が掲載されていた。
はて・・と考えた。人工呼吸器抜管後、数ヶ月予後があった?
果たして、人工呼吸器が必要な身体状況だったのだろうか??このケースについては、延命治療ではなく、単なる過剰医療だったのではないか?医療の適応は適切だったのだろうか・・
どうも、今回の一連の事には、いわゆる医師のパターナリズムを感じるのだが、どうだろうか・・・・