緩和ケア医の日々所感

日常の中でがんや疾病を生きることを考えていきたいなあと思っています

先週末~米沢から岡山へ(2)

2009年07月01日 | 家族
私の母は、以前、ここにも書いたことがありましたが、
白血病で今から8年前に他界いたしました。

納得しなければ、何もよしとしない人で
いかにも教師らしい人でもありました。



岡山の地で
病名は、大学病院でマルクの診断がつき次第、伝えられましたが、
できるだけ早く化学療法を行うなら行った方がよいと
関連病院の国立系の病院に入院しました。

化学療法を受けるか受けないか決めかねているようでした。

7月の終わりごろ、白血球はすでに300程度でした。
後どの位かと聞かれ、
夏は越せないと私が説明したところ、
8月末かと聞き返したことろは、まさに学校の教師でした。

私は、2週間・・と想定していたのですが・・・・・
夏休みが終わる時期が母の夏の終わりでしたから。




骨髄移植の適応もなく、ただ、ブラスト数とにらめっこしながら
たたき切れない化学療法となったのも
母の気難しさからでした。

母の心の支えは、最初に診断してくださった教授でした。

というより、
関連病院のスタッフに時に強くあたり、
受け入れられない姿勢をしめすことで
死に直面した自分を否認し、
最初の医師のもとにいつか戻ることが
すなわち、生きる希望となってしまっていたのだと思われました。



そのことに、私が気がついたのは
すでに、敗血症から日単位の病状となってしまってからのことでした。





亡くなる3日ほど前に病院に着いた時は、
母は、壊死を起こした痛みと腎障害からのせん妄下で、
私は死なない!!
と大きな声を上げていました。


主治医は私が相談させて頂いた処方を採用してくださり、
やっと、穏やかな時間が取り戻せた時、
一人の若い看護師さんが部屋に来てくださいました。

「色々ケアをしてさしあげたかった。
 でも、受け止めて頂けず、どうすればよいかわからないまま、
 ここまで来てしまいました。」

本当に、ありがたい言葉でした。
どんなに、大変でいらっしゃったことだったでしょう。
母を責めることもなく、
看護者として困惑し続けたことを飾らず話して下さることに
心からの感謝を感じました。


母を看取ったとき、
私に、
「あなたが学んできたこと、患者さん達に行ってきたことは、間違いなかった」
と、母は自分の人生の最期をかけて、
教えてくれたような感覚でした。

最後の最後まで教師であった母に、
悲しみを超えた穏やかな感情で見送っていました。




そして、8年。
今回の岡山での緩和医療学講座開講式で記念講演を依頼され、
多くの方々の前で話をさせて頂くことに、
講演の前は、いつもそうなのですが、
母に、応援してねと心の中で話していました。
(つづきます)
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