野中寺を出て、次に古市の西琳寺へと向かう。西琳寺は古市駅から徒歩でほんの5分程度の所にあるのだが、
10年前はまさかの道に迷って周辺をさまよい歩き、人に道を尋ねながらグダグダになりながらたどり着いた
思い出がある。しかし今回はささーっと到着。住宅地の並びにあるからなかなかわかりにくい場所ではある。
こちらも飛鳥時代に起源をもつ古刹。欽明天皇の勅願寺というから仏教伝来とほぼ同時期に建立されたことに
なり(当時は向原寺と称する)、まさに門前の石標にある「本朝佛事最初」の寺である。白鳳時代には七堂伽藍
を有した大寺であったが、それは境内に残る五重塔心礎の大きさから充分に想像できる。重量28tだとか。
小鳥かひよこの顔(・o・)のようなユーモラスな外観の礎石だが、意図してそうなっているわけではないらしい。
しかし現在は住宅地にとけこんだ感のある小さいお寺。本尊は薬師如来。
境内には西大寺復興で有名な叡尊上人などの供養塔である鎌倉時代の石造五輪塔が残る。これは室町初期に
守護畠山氏による高屋城構築の際、土塁下に埋没され行方不明であったところ昭和33年に600年の時を経て
偶然発掘されて移転復元安置したというもの。(西琳寺しおりより)
納経所は本堂脇にあるが誰もいないので住職の住居のインターフォンを押す。すると年配の女性が出てきて
応対してくれた。10年前も確かこの人が応対してくれた記憶がある。そのときと同じくわざわざ納経所を
開けてもらってご朱印を頂いた。時はちょうど正午前。近所の住宅の開け放たれた部屋の窓からテレビの音が
境内にも聞こえてくる。そんな環境に今はある日本で最も古く、そしてかつては大寺であった西琳寺である。
野中寺と西琳寺のご朱印。いずれもご本尊薬師如来のご朱印。
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10年前はまさかの道に迷って周辺をさまよい歩き、人に道を尋ねながらグダグダになりながらたどり着いた
思い出がある。しかし今回はささーっと到着。住宅地の並びにあるからなかなかわかりにくい場所ではある。
こちらも飛鳥時代に起源をもつ古刹。欽明天皇の勅願寺というから仏教伝来とほぼ同時期に建立されたことに
なり(当時は向原寺と称する)、まさに門前の石標にある「本朝佛事最初」の寺である。白鳳時代には七堂伽藍
を有した大寺であったが、それは境内に残る五重塔心礎の大きさから充分に想像できる。重量28tだとか。
小鳥かひよこの顔(・o・)のようなユーモラスな外観の礎石だが、意図してそうなっているわけではないらしい。
しかし現在は住宅地にとけこんだ感のある小さいお寺。本尊は薬師如来。
境内には西大寺復興で有名な叡尊上人などの供養塔である鎌倉時代の石造五輪塔が残る。これは室町初期に
守護畠山氏による高屋城構築の際、土塁下に埋没され行方不明であったところ昭和33年に600年の時を経て
偶然発掘されて移転復元安置したというもの。(西琳寺しおりより)
納経所は本堂脇にあるが誰もいないので住職の住居のインターフォンを押す。すると年配の女性が出てきて
応対してくれた。10年前も確かこの人が応対してくれた記憶がある。そのときと同じくわざわざ納経所を
開けてもらってご朱印を頂いた。時はちょうど正午前。近所の住宅の開け放たれた部屋の窓からテレビの音が
境内にも聞こえてくる。そんな環境に今はある日本で最も古く、そしてかつては大寺であった西琳寺である。
野中寺と西琳寺のご朱印。いずれもご本尊薬師如来のご朱印。
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先週は南都・飛鳥方面をぶらついておりましたが、今週は羽曳野周辺に出没。久しぶりに野中寺・西琳寺を訪れた。
どれぐらい久しぶりかと過去の納経帳を引っ張り出してみて見ると、なんと10年ぶり。4、5年ぶりぐらいの感覚で
いたのに。というのも西国巡礼にも以前に始めた巡礼が太子巡礼で、その始まりが八尾・羽曳野だったので思い出
深くて記憶にもけっこう残っているのだ。
まずは野中寺。葛井寺へ行く時に門前は車で何度か通っているのだが、境内に入るのは先述の通り10年ぶり。
聖徳太子発願で蘇我馬子がその建立に携わったとされ、飛鳥時代に起源をもつ野中寺の境内に入ると右手に
金堂の礎石、左手に三重塔の礎石が残る。いずれも飛鳥時代の遺跡である。
金堂の礎石
三重塔の礎石。塔心礎は花びらの形で孔があり、太子霊場ご朱印はこの形の印。手前に亀の線刻がみえる。
ご本尊は薬師如来。西国薬師第14番でもある。
渡来人との縁が深い野中寺。地蔵堂前には渡来人らしき石像がぽつんと建つ。
野中寺の鎮守社である野々上八幡神社とは隣接していて境内はつながっている。
野中寺からそう遠くない場所に聖徳太子の弟である来目皇子の陵があるので行ってみた。地図上では野中寺の
門前の道路を南へ直進で800mほど、10分も歩くと見えてくるはず。それらしき森と鳥居を横目で確認して
入り口を探す。すると大阪府立大学の構内へ・・・。 まさか大学構内から行けるのか??と思いながら日曜日で
人が誰もいない構内を部外者でありながら進む。しばらくして、んなこたあない!と確信して踵を返して構内から出る。
んで入り口はどこなの??と道を戻って探してみる…。
なんのことはない。さっき横目で確認した森に続く道があるではないか!まあ道とはいっても、マンション駐車場と
宗教団体らしきビルの間の幅1mちょいぐらいの小道なので、私道と間違えるのも無理はない。せめて案内板
ぐらいあれば・・・。
来目皇子埴生崗上墓(はにゅうのおかのうえのはか)
50m余辺で高さは10mほどとされる方墳。来目皇子は新羅討伐の将軍として渡海する前に筑紫で病没したと
される悲劇の皇子。聖徳太子の勢力を削ぐために蘇我馬子が将軍に推したとの説もある。
陵のそばにはマンション。そう高くなく大きくもない陵の全容をマンション最上階から望めそうだが、
マンション入り口の「関係者以外の立ち入り禁止」の看板が、行く手を阻んだので陵を後にした。
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いたのに。というのも西国巡礼にも以前に始めた巡礼が太子巡礼で、その始まりが八尾・羽曳野だったので思い出
深くて記憶にもけっこう残っているのだ。
まずは野中寺。葛井寺へ行く時に門前は車で何度か通っているのだが、境内に入るのは先述の通り10年ぶり。
聖徳太子発願で蘇我馬子がその建立に携わったとされ、飛鳥時代に起源をもつ野中寺の境内に入ると右手に
金堂の礎石、左手に三重塔の礎石が残る。いずれも飛鳥時代の遺跡である。
金堂の礎石
三重塔の礎石。塔心礎は花びらの形で孔があり、太子霊場ご朱印はこの形の印。手前に亀の線刻がみえる。
ご本尊は薬師如来。西国薬師第14番でもある。
渡来人との縁が深い野中寺。地蔵堂前には渡来人らしき石像がぽつんと建つ。
野中寺の鎮守社である野々上八幡神社とは隣接していて境内はつながっている。
野中寺からそう遠くない場所に聖徳太子の弟である来目皇子の陵があるので行ってみた。地図上では野中寺の
門前の道路を南へ直進で800mほど、10分も歩くと見えてくるはず。それらしき森と鳥居を横目で確認して
入り口を探す。すると大阪府立大学の構内へ・・・。 まさか大学構内から行けるのか??と思いながら日曜日で
人が誰もいない構内を部外者でありながら進む。しばらくして、んなこたあない!と確信して踵を返して構内から出る。
んで入り口はどこなの??と道を戻って探してみる…。
なんのことはない。さっき横目で確認した森に続く道があるではないか!まあ道とはいっても、マンション駐車場と
宗教団体らしきビルの間の幅1mちょいぐらいの小道なので、私道と間違えるのも無理はない。せめて案内板
ぐらいあれば・・・。
来目皇子埴生崗上墓(はにゅうのおかのうえのはか)
50m余辺で高さは10mほどとされる方墳。来目皇子は新羅討伐の将軍として渡海する前に筑紫で病没したと
される悲劇の皇子。聖徳太子の勢力を削ぐために蘇我馬子が将軍に推したとの説もある。
陵のそばにはマンション。そう高くなく大きくもない陵の全容をマンション最上階から望めそうだが、
マンション入り口の「関係者以外の立ち入り禁止」の看板が、行く手を阻んだので陵を後にした。
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