上京に残る尼門跡(比丘尼御所)の最後は宝慈院門跡(千代野御所)です。
宝慈院寺史
開基は明朝から渡来した無学祖元の弟子で尼五山景愛寺を創建した無外如大尼。
無外如大尼は鎌倉の有力御家人安達泰盛の娘で北條一門の金沢家に入室した
女性であるという。宝慈院は景愛寺の子院である。はじめは資樹院といったが、
応仁の乱ののちに宝慈院と改称する。本寺である景愛寺は衰微したが、
その本尊阿弥陀如来像を遷座して現在は無外如大尼像とともに重文指定となっている。
南北朝期から皇女・公家の子女を住持として法灯を継ぐ。明和元年(1764)に
千代野御所号を勅許され宝暦年間に比丘尼御所に列した。千代野とは無外如大尼の
幼名である。江戸期の石高は61石。禅宗単立であるが相国寺の所轄となっている。
宝慈院は烏丸通から寺之内通を少し入った木下町の住宅地の中に建っているお寺です。
路地のような小さな通りにある小さなお寺なので見つけるのに時間がかかりました。
整然とした境内です。本堂は天明大火後の再建。
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宝慈院寺史
開基は明朝から渡来した無学祖元の弟子で尼五山景愛寺を創建した無外如大尼。
無外如大尼は鎌倉の有力御家人安達泰盛の娘で北條一門の金沢家に入室した
女性であるという。宝慈院は景愛寺の子院である。はじめは資樹院といったが、
応仁の乱ののちに宝慈院と改称する。本寺である景愛寺は衰微したが、
その本尊阿弥陀如来像を遷座して現在は無外如大尼像とともに重文指定となっている。
南北朝期から皇女・公家の子女を住持として法灯を継ぐ。明和元年(1764)に
千代野御所号を勅許され宝暦年間に比丘尼御所に列した。千代野とは無外如大尼の
幼名である。江戸期の石高は61石。禅宗単立であるが相国寺の所轄となっている。
宝慈院は烏丸通から寺之内通を少し入った木下町の住宅地の中に建っているお寺です。
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整然とした境内です。本堂は天明大火後の再建。
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