後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔183〕「HINOMARU」RADWIMPSと沖縄慰霊の日、平和の詩「生きる」との精神性の乖離を考えさせられました。

2018年06月24日 | 語り・演劇・音楽
 最初にRADWIMPS(ラッドウィンプス)という若い音楽グループを知ったのは、数年前、フランクフルト行きの飛行機でのことでした。評判だったアニメ映画「君の名は。」を早速見たのです。おそらく東日本大震災などを意識した、男女の淡い恋模様を描いた作品のように私には映ったものでした。その時、男女のからだが入れ替わってしまう、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』を思い出していました。
 この作品の内容もさることながら、流れる音楽が、団塊の世代のこの私にも心地よく響いたのは事実です。CDを買うところまではいかなかったのですが、ユーチューブで彼らの音楽を聴いてみることはしました。
 ところが、そんな彼らが、フジテレビ系のサッカーワールドカップの応援ソングを歌っていて、軍歌っぽいとか、愛国ソングとか言われて批判されていることを朝日新聞で知りました。
 そこで、さっそくユーチューブで「HINOMARU」を聞きました。正直言って、馴染みやすいところもありますが、曲そのものはそれほどいいとは思いませんでした。しかしこれは曲調は軍歌ではないが、曲想は軍歌と言えそうです。
 歌詞を見て愕然としました。「気高きこの御国の御霊」「日出づる国の 御名の下に」「僕らの燃ゆる御霊は」「幾々千代に さぁ咲き誇れ」など、違和感が半端ではないのです。「君が代」を連想させる古語混じりのこの歌詞はけしていい文章とは思えません。「御国の御霊」って一体何なのでしょう。
 歌詞を紹介しましょう。


「HINOMARU」 / RADWIMPS

風にたなびくあの旗に

古よりはためく旗に
意味もなく懐かしくなり
こみ上げるこの気持ちはなに
胸に手をあて見上げれば
高鳴る血潮 誇り高く
この身体に流れゆくは
気高きこの御国の御霊
さぁいざゆかん
日出づる国の 御名の下に
どれだけ強き風吹けど
遥か高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は
挫けなどしない
胸に優しき母の声
背中に強き父の教え
受け継がれし歴史を手に
恐れるものがあるだろうか
ひと時とて忘れやしない
帰るべきあなたのことを
たとえこの身が滅ぶとて
幾々千代に さぁ咲き誇れ
さぁいざゆかん
守るべきものが 今はある
どれだけ強き風吹けど
遥か高き波がくれど
僕らのたぎる決意は
揺らぎなどしない
どれだけ強き風吹けど
遥か高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は
挫けなどしない
僕らのたぎる決意は
揺らぎなどしない

ソングライター: Yojiro Noda
HINOMARU 歌詞 © Universal Music Publishing Group
アーティスト: RADWIMPS
リリース: 2018年


他局のサッカーワールドカップの応援ソングはどうなっているのかなと思っていたら、TBSラジオ、荻上チキの番組で2人のゲストを呼んでそれらを検証していました。とてもおもしろい企画でした。取り上げられた曲も紹介しておきましょう。

●2018.6.14 木曜日
【音声配信】「RADWIMPS、ゆず、椎名林檎・・・J-POPにも登場!?『愛国ソング』~その傾向と対策」辻田真佐憲×増田聡×荻上チキ▼2018年6月13日放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)

M1 「HINOMARU」 / RADWIMPS
M2 「にっぽんぽん」 / 味噌汁‘s
M3 「ガイコクジンノトモダチ」 / ゆず
M4 「愛國者賦」 / 鐵槌
M5 「凶気の桜」 / K DUB SHINE
M6 「オレたちの大和 / 般若
M7 「ライフタイムリスペクト」 / 三木道三
M8 「陽は、また昇る」 / アラジン
M9 「NIPPON」 / 椎名林檎
M10 「君が代」 / ピチカート・ファイブ
 

はてさて話は飛びますが、昨日は6月23日(土)、沖縄慰霊の日でした。テレビから流れてくる中学3年生の「生きる」という詩の朗読(実際は暗唱していました)が私の心に届いてきました。沖縄という土地に根ざした、等身大の女子中学生の叫びでした。私たちは、彼女にどう応えれば良いのでしょうか。

                          
■沖縄慰霊の日

平和の詩「生きる」全文

    沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 
私は今、生きている。

 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 

私はこの瞬間を、生きている。

 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世
界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 

今を一緒に、生きているのだ。
 

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
                (毎日新聞2018年6月23日)




〔追記〕
「リテラ」というサイトを愛読しています。下記のような記事が目白押しです。
■サッカーW杯・各テレビ局のテーマソングを徹底比較
RADWIMPSとは真逆なSuchmosのNHK・W杯ソング! 愛国に絡め取られず「血を流さぬよう歌おう」「武器は絶対にもたない」2018.06.19


〔182〕「清瀬市に住む福島原発事故による避難者の方々に甲状腺検査と血液像検査の保障を求める請願」をします。

2018年06月16日 | 市民運動
 私の連れ合いが清瀬市議会に下掲の請願をすることになりました。彼女は福島原発事故関連の請願は既に数回しています。もちろん脱原発・反原発という立場です。市内の線量計測も継続しています。
 請願は、2018年6月19日(火)福祉保健常任委員会で検討されます。午前10時半頃からの審議になりそうです。清瀬市役所4階、傍聴歓迎です。

【清瀬市に住む福島原発事故による避難者の方々に年1回(子どもは年2回)の甲状腺検査と血液像検査の保障を求める請願】

紹介議員 ふせ由女

〈請願の内容〉
 清瀬に住み続けている避難家族で希望する方には、
  ①18歳未満の子どもたちに年2回(福島県の検査を含む)の甲状腺検査
  ②大人に年1回の甲状腺検査
  ③大人にも子どもにも年1回の血液像(白血球分画)検査
 を保障してください。

〈請願の理由〉
 2011年8月5日に福島県小児科医会が出した「福島の子どもたちの未来を守るために─原子力災害と子育て支援─」という声明には、
「原子力災害による子どもたちや保護者の心身の不安やストレスについても相談助言を行うなど適切に対応する。また当県の子どもたちが将来にわたり安心して生活できるよう、子育て支援を第一の目標としながら今後の医会としての活動をおこなう。」
と書かれており、(別掲)として「避難した子どもたちおよび家族への支援と健康管理」の項目では、次のように書かれています。
「県内、県外避難を余儀なくされた子どもたちおよび家族、また自主的に避難を選択した子どもたちおよびその家族への継続的な生活支援、精神的支援および将来にわたる健康管理の保障。とくに自主避難者については避難元各自治体は責任をもってその生活支援、精神的支援を行うこと。」
 それにもかかわらず、この医会の前会長、太神(おおが)和廣氏は2016年に甲状腺がん検査縮小の方向で意見を述べました。そして福島県小児科医会ホームページの最新の記事は、2017年10月28日の竹内真弓氏の就任挨拶で、
「平成23年に起きた東日本大震災の被災地として全国の小児科の先生方から寄せていただいた支援金の有効活用として、前会長の太神先生のもと、予防接種啓発のリーフレットを作成し、この6年間毎年県内全ての産科・小児科医療機関や保健センター等に配布し、ワクチン接種率向上に多少なりとも貢献できたことと、被災地から避難しているお子さんたちを対象に、期間限定ではありますが無料でロタワクチン接種事業を行ったことです。」
と書かれており、甲状腺がん検査については全く触れられていません。前掲の格調高い、真心のこもった声明に対して、太神氏の提案、竹内氏の挨拶の内容が大きくかけ離れていることは一目瞭然です。

 福島県は昨年3月までに子どもたちの甲状腺検査を2回行い、現在3回目を継続中です。その結果は第30回福島県「県民健康調査検討委員会」で別紙資料のように報告されており(平成28年度スタートの3回目検査はまだ半ばで途中経過の報告)、平成29年12月31日までに197人の子どもたちが「悪性ないし悪性の疑い」と診断され、161人の子どもたちが手術を受けて、そのうち良性だった子どもは一人だったと書かれています。中でも気になるのは、一次検査で、以前A1判定だった子どもたちがA2判定に移行する割合が、3頁目の資料のように、
  先行検査(一回目): A1判定 154,605人(51.5%) A2判定 143,574人(47.8%)
  本格検査(二回目): A1判定 108,710人(40.2%) A2判定 159,578人(59.0%)
  本格検査(三回目): A1判定 63,314人(35.4%) A2判定 114,525人(64.0%) (検査継続中)
と、徐々に増えてきていることです。今後も検査を継続し、悪性の疑いがもたれたら少しでも早く対応できるように支援する必要があります。そのためには2年に一度の県民検査では間隔が空きすぎると、避難者の方々は心配しています。
 今、福島県から避難している人々は事故によって故郷を壊され、昨年3月には避難住宅からも追い出され、それでも子どもたちの健康を守りたいという一心で避難先での苦しい生活を必死で続けようとしています。住宅提供を打ち切られて自殺した方もいるそうです。いじめで学校に行けない子どもたちや、体調を崩したり急死したりする大人たちも大変多いと聞きます。これは福島県小児科医会が強く願って掲げた2011年の声明とは正反対の方向に進んでいるということではないでしょうか。

 原発事故から7年後の今、国も福島県も医会も避難家族を守らず、さらなる苦境に追いやるばかりです。こうした状況の中で被曝して避難してきた方々の健康を守っていくことができるのは、避難先に住む私たちではないでしょうか。
 清瀬市には現在、福島県から避難された方が23世帯、53人(18歳未満12人)、岩手、宮城県からは8世帯、13人(18歳未満2人)が住んでいると伺いました。福島県からは2年に1度の甲状腺検査の知らせが届くそうですが、何よりも病気の進行の早い子どもたちにはそれも含めて年2回の甲状腺検査が必要です。また、血液像(白血球分画)検査(放射線の影響を見分ける指針となる検査)も年に1度受けられると安心できるそうです。
 この心優しい清瀬の町を誇りに思う市議の皆さまに、せめて清瀬市に住み続けている避難家族で希望する方には、上記の検査を保障してくださるようお願いいたします。


2018年6月5日  

清瀬市議会議長
  西畑 春政 様


         清瀬・憲法九条を守る会 
      福田 緑
                         
■ 第30回福島県「県民健康調査」検討委員会資料(抜粋)

[1] 先行検査 (平成29年3月31日集計) [実施年度:平成23年度~25年度]
<一次検査>(平成27年4月30日検査終了)
対象者367,649人 受診者数300,473人(受診率81.7%)結果判定数 300,473人(判定率
│判定内訳│A1判定 │A2判定 │A判定合計 │B判定 │C判定 │10
│人数 │154,605人 │143,574人 │298,179人 │2,293人 │1 人 │0
│割合 │(51.5%) │(47.8%) │99.2% │0.8% │0.0% │%)
<二次検査>(平成 29 年 3 月 31 日現在)
対象者数 2,293人 受診者数 2,130(受診率92.9%) 結果確定数 2,090人(確定率98.1%)
うち穿刺吸引細胞診実施は547人
│穿刺吸引細胞診等結果概要 (年齢、性分布省略) │
│悪性ないし悪性の疑い116人 (手術102人:良性結節1人、乳頭癌100人、低分化癌1人)│

[2] 本格検査(検査 2 回目) (平成29年6月30日現在) [実施年度:平成26年度~27年度]
<一次検査> 
対象者381,256人 受診者数270,516人(受診率71.0%) 結果判定数 270,515人(判定率
│判定内訳│A1判定 │A2判定 │A判定合計 │B判定 │C判定 │10
│人数 │108,710人 │159,578人 │268,288人 │2,272人 │0人 │0
│割合 │40.2% │59.0% │99.2% │0.8% │0.00% │%)
<二次検査 >
対象者数 2,227人 受診者数 1,844(受診率82.8%) 結果確定数 1,788人(確定率97.0%)
うち穿刺吸引細胞診実施は205人
│穿刺吸引細胞診等結果概要 (年齢、性分布省略) │
│悪性ないし悪性の疑い71人 (手術52人:乳頭癌51人、その他の甲状腺癌1人) │

[3] 本格検査(検査 3 回目) (平成29年12月31日現在) [実施年度:平成28年度~29年度]
<一次検査>      ※継続中
対象者数 336,654 人 (25 歳での検査対象者である平成 4・5 年度生まれを除く)
受診者数 191,669 人(受診率 56.9%)  結果判定数 179,038 人(判定率 93.4%)
│判定内訳│A1判定 │A2判定 │A判定合計 │B判定 │C判定 │
│人数 │63,314人 │114,525人 │177,839人 │1,199人 │0人 │
│割合 │35.4% │64.0% │99.3% │0.7% │0.00% │
<二次検査 >
対象者数 1,199人 受診者数 659(受診率55.0%) 結果確定数 573人(確定率86.9%)
うち穿刺吸引細胞診実施は31人
│穿刺吸引細胞診等結果概要 (年齢、性分布省略) │
│悪性ないし悪性の疑い10人 (手術7人:乳頭癌7人)│

 ※判定内容この表は、もっと細かな検討委員会資料の表から福田の責任で一部を取りだしたものである。なお、A1判定とA2判定の割合は福田が付け加えた。
※文章中の「がん」はひらがなで書いたが、県民健康調査の資料は「癌」と書かれていたので、漢字を使った。



〔181〕発見から50年、待望の『五日市憲法』(新井勝紘、岩波新書)が出版されました。

2018年06月01日 | 図書案内
 五日市憲法については私個人や清瀬・憲法九条を守る会でも関心を抱き、学習会を開いたり、五日市憲法ゆかりの地を2回訪ねたりしてきました。タイミング良く、清瀬の市民団体が新井勝紘氏の講演会を開いてくださり、数人で参加したこともありました。その顛末をこれまでのブログ〔31〕〔53〕でも触れてきました。けっこう力を入れて書きましたので興味ある方は読んでみてください。
 そして先日、『五日市憲法』(新井勝紘、岩波新書)が出版されたというので、早速購入しました。嬉しいことに、この本大変評判が良く、初刷り12000冊が売り切れ、増刷が決まったという情報もあります。
 さて、五日市憲法が「発見」されたのが、1968年8月27日のこと。私は東京学芸大学1年、バドミントンの夏合宿で熱射病に倒れ自宅で療養している頃でした。最初に五日市憲法を手にした新井勝紘さんは東京経済大学の4年生でした。東京学芸大学(小金井市)と東京経済大学(国分寺市)はほぼ1キロの至近距離です。何か因縁めいたものを感じます。
 色川大吉ゼミの学生だった新井さんが初めて五日市憲法を手にしてから50年がたち『五日市憲法』が出版されました。 一読して、とても読みやすく、憲法改憲論議が喧しい昨今、多くの人に読んでもらいたい本だと思いました。とりわけ、〔第一章 「開かずの蔵」からの発見〕の臨場感と〔第四章 千葉卓三郎探索の旅へ〕の知的興奮が伝播してきました。
 本の内容は次のようになっています。

●「開かずの蔵」と呼ばれた旧家の土蔵.そこで偶然見つけた紙綴りが,ひとりの学生を歴史家に変えた.紙背から伝わる,自由民権の息吹と民主主義への熱き思い.起草者「千葉卓三郎」とは何者なのか? 民衆憲法を生み出した歴史の水脈をたどる.(岩波書店HPより)
はじめに

第一章 「開かずの蔵」からの発見
 第一節 明治百年と色川ゼミ
  一九六八年/バラ色論との対峙/開かずの蔵
 第二節 自由民権の村・五日市
  『利光鶴松翁手記』/勧能学校/深沢家の蔵書
 第三節 憲法草案との出会い
  いよいよ土蔵の中へ/知らずに草案を手に取る/「日本帝国憲法」って何だ?/急転直下のテーマ変更
 第四節 憲法草案を読み解く
  墨書史料の状態/どれとも一致しない!/幻の草案が発見される/なぜ同じ土蔵の中に?/嚶鳴社草案との比較検討

第二章 五日市憲法とは何か
 草案の概要
 第一篇 国 帝
  帝位相続/摂政官/国帝の権利
 第二篇 公 法
  国民の権利/地方自治/教育の自由
 第三篇 立法権
  民撰議院/元老議院/国会の職権/国会の開閉/国憲の改正
 第四篇 行政権
 第五篇 司法権

第三章 憲法の時代
 第一節 憲法への道
  憲法はどう受け止められたか/ヘボクレ書生の書上の理屈
 第二節 民権結社の取り組み
  結社の時代/国会期成同盟の呼びかけ/各地での起草の動き/容易ならざる起草作業
 第三節 五日市の民権運動
  五日市学芸講談会/五日市学術討論会/討論題集

第四章 千葉卓三郎探索の旅へ
 第一節 卓三郎追跡
  やり残した課題/雑文書に目を向けよ
 第二節 戸籍を求めて
  仙台へ/志波姫町へ/転籍先をたどる
 第三節 子孫との対面がかなう
  そして,神戸/敏雄さんからの手紙/病室での対面
 第四節 履歴書の真否
  卓三郎の足跡/砂上の楼閣/履歴書の足跡をたどる

第五章 自由権下不羈郡浩然ノ気村貴重番智――千葉卓三郎の生涯
 第一節 敗者の生きざま
  生い立ち/敗北経験/故郷を出る
 第二節 ペトル千葉として
  ニコライ堂での出会い/布教活動/明らかになる来歴/突然の変心/ラテン学校/初めて教壇に立つ/広通社
 第三節 五日市へ
  村は小なりといえども精神は大きく/民権教師として
 第四節 五日市憲法の「法の精神」
  逆境のなかでの起草作業/卓三郎死す/遺品の整理/浄書綴りのゆくえ/卓三郎の「法の精神」

終 章 五日市憲法のその後
 「五日市憲法」命名のいきさつ/名称への批判/歴史の伏流にたどり着く

むすびにかえて
参考文献
付録 五日市憲法草案


 この本をいち早く取り上げた新聞記事を紹介しましょう。 

■<訪問>「五日市憲法」を書いた 新井勝紘(あらい・かつひろ)さん〔北海道新聞2018/05/27〕
●新たな憲法草案 探索の記録
 「その出合いは、私の人生を決めてしまうほど大きなものでした」
 1968年8月、東京西部の五日市町(現あきる野市)。東京経済大学の学生だった著者は、ゼミの指導教授だった色川(いろかわ)大吉さんらと屋敷跡に残る土蔵の調査に入った。
 朽ちかけた「開かずの蔵」。著者が担当した一角から「日本帝国憲法」と表紙に書かれた24枚綴(つづ)りの文書が出てきた。「最初に目にした時は明治政府の大日本帝国憲法を写したもので、『大』という文字は虫に食われたんだろうと思ったんです」
 だが、推測は外れる。それならば1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が定められる前、民間の人たちが作った私案の憲法か。これも照合したがどれとも一致せず、新たな憲法草案の発見だと分かった。81年(同14年)に作られ、204の条文から成る。色川教授によって「五日市憲法」と命名された。
 「基本的人権の保障に多くの条文をさき、今の日本国憲法と比べても遜色のない民主的なものでした」
 本書は「五日市憲法」をめぐる著者の50年にわたる探索の記録だ。
 憲法草案を起草した千葉卓三郎(たくさぶろう)という人物は何者なのか。
 時間を費やしてようやくたどり着いた時、意外な素顔を知る。

 仙台藩士の子として生まれ、17歳で戊辰戦争に参戦し、敗北により「賊軍(ぞくぐん)」の汚名を負う。学問を修め、はい上がろうと懸命に生きた。29歳で五日市の勧能(かんのう)学校(五日市小学校の前身)の教師として着任し、自由民権運動が盛んだった地域で青年らと交わる。結核を患いながら憲法草案を書き上げ、31歳で他界した。
 卓三郎は医学、国学、キリスト教、漢学など幅広く学び、自身にとっての「法の精神」を身につけた。人生の集大成といえる五日市憲法は発見後、評価され歴史に刻まれた。
 著者は歴史研究の道を歩んだ。東京・町田市の自由民権資料館の開設に力を注ぎ、国立歴史民俗博物館助教授、専修大文学部教授を務めた。五日市憲法に導かれ半世紀、73歳になった。「それでもまだまだ調べ切れていないことがあって」と話す。
 今年は明治に改元されて150年の節目を迎える。改憲に向けた動きも急だ。五日市の歴史から学ぶべきものを、取材の最後に聞いた。
 「明治10年代、この地域では民主的な新しい社会を生み出そうとする機運があり、卓三郎を支えた。憲法とは生活に則したもので、国から与えられるものではないという強い思いがあった。そこに時代を超え、普遍的な意味を感じています」〔編集委員 伴野昭人〕


 昨日、パスポート更新ということで池袋に行った帰り、ブックオフで『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』を手に入れることができました。作者のお一人のサイン入りでした。2014年出版で、解説が新井さんでした。子ども向けの本ですが、大人の読書にも充分耐えうるものです。
 あきる野市立五日市小学校の校長室に掲示されている千葉卓三郎の肖像画が掲載されていて懐かしくなりました。教育実習指導で訪ねたことを思い出しました。

■『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』伊藤始・杉田秀子・望月武人、くもん出版 1,400円(税込1,512円)
[扉]
一九六八年八月二十七日。夏の日差しを浴びながら、曲がりくねった山道を進む、十数名の集団がありました。東京経済大学の色川大吉教授(当時)と、その教え子の大学生たちでした。やがて、一行の目の前に、古めかしい土蔵があらわれました。明治時代の初め、この地域の青年たちが、議論を重ねてつくりあげた憲法草案が、八十年余りもの長い眠りから、ついに目覚めるときが来たのです。「五日市憲法草案」をめぐる物語は、ここから始まります―。