ふせ由女はひとり会派「共に生きる」で活動していますが、現在3期目です。
「ゆめ通信」は年4回、議会の終了後に発行しているふせ由女の議会便りです。仲間と地域や駅頭で配布しています。拡大して読んでくださると嬉しいです。
またまた腰越9条ニュースが届きました。「韓国の戒厳令を日本の緊急事態条項」についてです。このような腰越の活動を知ると、私も頑張ろうと励まされます。
●腰越9条ニュース222号ができましたのでお送りします。
今回は、韓国の戒厳令を日本の緊急事態条項と関連して書いてみました。
塚越敏雄
様々なミニコミが私どもの手元に届きます。世間的にはそれほど知られていないのですが、とても大切な問題提起をされているミニコミが多いのです。興味もたれた方がネットなどで検索されることを願ってこれからも紹介していきたいと思います。
まずは「びっくり箱通信」(弦地域文化支援財団、隔月刊、8頁)です。作家の井上ひさしさんが山形の地に残した「東ソーアリーナ」の友の会が発行するミニコミで、丁度百号記念号です。井上ひさしさんの長女、井上都さんを中心に発行されているようです。
記事としては、金平茂紀さんの「井上ひさしさんの芝居と世の中①」がおもしろかったです。金平さんがこんなに井上芝居にぞっこんだったとは。他には山田洋次、松元ヒロ各氏のコメントも掲載されています。
次に登場するのは「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」(24頁)です。いつぞやカンパしてから送ってくれているようです。「ベルリン・ミッテ区の平和の少女像を守ろう!」(梁澄子)などの原稿も掲載されています。嫌煙禁煙運動でお馴染みの久野綾子さん(旧日本軍による性的被害女性を支える会)の「戦争を二度と起こさないで」に出合いました。
◆朝鮮学校生の苦しみは続く
民族教育は在日コリアンの子どもの権利
前川喜平(現代教育行政研究会代表)
4日、立憲民主党国会議員有志による「朝鮮学校に対する公的助成の
実現を目指す勉強会」が開かれ、23人の議員と約10人の秘書が集まった。
僕は講師として招かれ、民族教育は在日コリアンの子どもの権利であ
り、国の教育無償化・修学支援からの排除や自治体の補助金停止は「官
製ヘイト」だという話をした。
民主党政権による高校無償化の実施から15年。自公政権が設けた所得
制限の撤廃や私学生徒への増額が自公維間で協議されているが、朝鮮高
校生は依然として置き去りにされたまま、その苦しみは今なお続いて
いる。
同じ日、僕は東京都新宿区の高麗博物館で、在日朝鮮学生美術展覧
(GAKUBI)の選抜展を見せてもらった。
画面いっぱいに「テマリカタヒバ」が描かれた絵。「復活草」とも呼
ばれるこの植物に、作者は関東大震災で虐殺の犠牲になった人々の心も
復活してほしいという思いを込めたという。
「とても、とても強い人」と題された立体作品は、血にまみれた角を
何本も突き出した人間の頭部だ。添えられた作者の言葉に「誰にも苦し
みを理解されない」とあった。
前期の展示は3月16日まで、後期は展示を入れ替えて4月27日まで
開催。開館時間は正午から午後5時で月・火は休館。
出展した生徒や美術教師・雀誠圭氏によるトークも開催予定だ。
(2月9日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)
●9条チラシを11月に作りましたが、ほとんど無くなったため、リニューアル版を作りました。添付します。 今年もよろしくお願いいたします。 塚越敏雄
◆「曖昧な決着」への疑問
袴田巌さんの無罪確定に対する検事総長、法務大臣の意見
鎌田 慧(ルポライター)
死刑囚・袴田巌さんの無罪確定は今年の大きな喜びだったが、畝本直
美検事総長は控訴断念後、「証拠を捏造(ねつぞう)と断じたことには強
い不満を抱かざるを得ない」と判決を批判した。年末に発表された最高
検「検証結果」も、捏造説を「不合理」と反論した。自己剔抉(てっけ
つ)の精神がない。
58年前に発生した殺人事件。今年5月の再審結審時でも、検察は死刑
を求刑した。論拠の供述調書ばかりか、最重要な衣類5点とその端切れ
が、捜査官による「捏造」とされて、面目を失ったのは理解できないわ
けではない。
しかし、ひとりの人間を死刑にするかしないか、人間社会での最大の
決断である。依拠した証拠がでっち上げだったなら、罪は深い。まして
国家の決定である。
捏造でなかったとしたなら、無罪決定は誤判となる。決定に対して検
察側が控訴しなかったのは「長期間にわたり法的地位が不安定な状況に
置かれてきた。その状況が継続するのは相当ではない」(検事総長)。
法務大臣も同じ意見だった。
検事総長も法務大臣も、有罪と思いつつ、「無罪を否定するものでは
ない」(「検証結果」)。
暖昧なままの決着。これで幕引きにするつもりか。
「疑わしきは罰せず」は冤罪を防ぐための裁判の鉄則だが「過ちて改
めざる、これを過ちという」の精神が必要だ。狭山事件など、まだ寛罪
事件は多い。
(2024年12月31日「東京新聞」朝刊15面「本音のコラム」より)
◆新年の希(ねが)い
狭山事件の再審開始を
鎌田 慧(ルポライター)
新年を迎えて日本の現状を考えると、軍備増強・兵器輸出、さらには
集団的自衛権行使と敵基地攻撃能力の保有まで、平和憲法に背く米国へ
の追随政策が甚だしい。
米軍が自衛隊を軍事支配する危険性が強まっている。一方で、民間企
業の日本製鉄によるUSスチールの買収は大統領命令で中止された。
力関係の象徴といえる。トランプ政権になったら、もっと露骨な、や
らずぶったくりになりそうだ。
さて、今年こそ狭山事件の再審開始につなげたい。新たな証拠の鑑定
人尋間が早く実施されるよう、もう少し力を出そう。冤罪者の石川一雄
さんは86歳になる。なんとか元気なうちに無罪になってほしい。
石川さんが殺害し、女子高校生の自宅へ脅迫状を持って行ったとされ
ている。
しかし、当時、非識字者だった石川さんが脅迫状を書くなど、本人に
も想像できない行為だった。一審は死刑判決。が、石川さんはけろりと
していた。身に覚えがなかったからだ。
袴田巌さんは一審死刑判決から無罪判決まで56年もかかった。この非
情と恐怖の歳月は、精神的な拷間であり、人間性無視の極限だった。
わたしたちは講談や芝居の影響か、親の仇(あだ)を返す敵(かたき)討
ちの思想や主人の復讐をする忠臣蔵の思想に影響されすぎている。
戦争も死刑制度も勧善懲悪の人殺しなのだ。
(1月7日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)
清瀬市議・ふせ由女の事務所に届いたばかりの「ゆめ通信」、どうぞご覧ください。ふせ由女を支援する鎌田慧さんのコラムもどうぞ!
◆世代を結ぶ平和の像
鎌田 慧(ルポライター)
前回、沖縄・読谷村の鍾乳洞「チビチリガマ」での集団死について書
いた。
米軍侵攻中の悲劇だ。
が、7年前に起こった、少年たちの破壊行為について、スペースの関
係で書けなかった。戦争中の悲惨がよく伝わっていなかった、もう一つ
の悲劇だった。
上陸してきた米兵に恐怖して、村の鍾乳洞に避難した住民が恐怖に駆
られ、子どもや家族を自分の手で殺害した。捕虜になるより自決せよ、
というのが日本軍の強制だった。85人の住民が犠牲になった。その現場
は保存されてきていた。
ところが7年前の9月、洞窟内で、つぼに入っていた遺骨が撒き散ら
され、飾られた折り鶴が引きちぎられる、乱暴狼藉の跡が発見された。
捜査の結果、16歳から19歳の少年たちが「肝試し」をした事件だった。
さすがに読谷村の少年たちではなかったのが救いだった。
ガマの入り口にある「世代を結ぶ平和の像」を制作した、彫刻家の金
城実さんが保護観察処分となった4人の少年を預かった。彼には大阪の
高校で教員生活の経験があった。
読谷村の歴史を教え、反省文を書かせ、石仏(野仏)を集団制作する
ことにした。
冬の寒い時期に、ガマの前にテントを張って泊まり込み、ほぼ1週間
で12体の石仏を完成させた。それをガマ周辺に安置し「石仏がまた歴史
を結んでいる」と金城さんは言う。
(11月26日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)
◆死刑残置残酷国家
鎌田 慧(ルポライター)
最高裁で死刑が確定した袴田巌さんの無実が再審で証明され、死刑制
度への疑間が強まっている。
与野党の国会議員を含む「日本の死刑制度について考える懇話会」は、
11月中旬、政府に対して「現状のまま存続させてはならない」と死刑制
度を根本的に検討するための、会議の設置を提言した。
国連総会は1989年に死刑廃止条約を採択。欧州を含む112カ国、米国の
ほぼ半分の州、韓国、ロシアなど中止国もまた多い。
しかし、日本は世界の常識に逆らう絞首刑残置国。それでもかつては、
死刑囚同士、同じ階で行き来が自由で、歌を歌うなどのレクリエーション
もあった。が、いまは24時間監視、当日の朝、いきなり刑場へ引き立て、
遺書を書く時間さえ奪われる確定死刑囚が、100人以上いる。
11月下旬、国連人権理事会に任命された「拷間」「恣意的処刑」など
6テーマの「特別報告者」が連名で、日本政府に対して、日本の死刑制
度は国際法に違反する疑いがある、として執行停止の検討を求める通報
を行った(「朝日新聞」12月7日)。
国の「非人道性」が批判されたのだが、政府は「制度の是非は自国で
考えるべき問題だ」と回答したという。
「余計なお世話だ」という反論のようだが、私には「敵は殺せ」「悪
い奴は抹殺せよ」との仇(あだ)討ち、戦争の思想は認められない。
(12月10日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)
●いつもお世話になります。腰越9条ニュース220号ができましたので、お送りします。 塚越敏雄
◆原発推進への変節
首相が政治力維持のため危険覚悟の原発を進める
鎌田 慧(ルポライター)
「国民全体の福祉をのみ念じて国政の方向を定め、論議を尽くしてい
くように努めたい」とは言論人であり、戦後、首相になった石橋湛山内
閣の施政方針演説の一節。それを石破茂首相が先月末、所信表明演説の
結語に引用した。
少数与党の首相だからなのか、「他党にも丁寧に意見を聞」く、それ
が 「基本方針」という。石橋湛山、大平正芳、宮沢喜一以来の「保守リ
ベラル」を標榜(ひょうぼう)し、日米地位協定の改定を主張していたが、
所信表明では一切触れず「我が国の防衛力の抜本的強化を着実に進め
る」と言うだけだ。
一言も触れなかったのは、総裁選前に「依存度をゼロに近づける」と
歯切れのよかった自らの原発政策。
一切語らなかったこともあってか、国民民主党の玉木雄一郎代表、異
例にも先月末、首相官邸に赴き、次期エネルギー基本計画に「原発の新
増設」を入れるように要請した。
自民党自体が「可能な限り低減させる」としていた原発政策。2022年
に岸田政権が「安全性が確認された原発の最大限活用」に大転換した。
原発消極論者の石破氏に、玉木氏が閣外協力を条件に「原発の新増
設」を持ちかけたようだ。
野党の国民民主党代表が、電機産業の労組が推す原発新増設を首相に
進言し、首相が政治力維持のために、危険覚悟の原発を進める。
退廃というべきか。
(12月3日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)
矢部顕さんからいつものようにお元気なメールでの便りが届きました。
福田三津夫様
●小学校5年生は総合学習の時間にお米つくりをしています。
11月5日、稲刈りをして竿掛けをして、天日干しをした後、
11月11日、足ふみ脱穀機で脱穀し、唐箕で選別をしました。
籾摺をしたところ玄米60kgの収穫がありました。
写真を添付します。
私は稲作体験を指導する農家のおじいさんなのです。
●また、11月13日は、小学校6年生の亀山城跡清掃と歴史講話
がありまして、八丈島から贈られた蘇鉄を見ながら講話を
聴いてもらったその演題は「八丈島赦免花伝説」でした。
講話をする人は亀山城跡保存会事務局長の私でした。
レジュメを添付します。
●11月15日(土)は小学校の体育館で、五次元キーボードを駆使して、
ひとりでオーケストラの演奏をするコンサートがあります。
タイトルは「宇喜多家をめぐる歌物語」。
曲目は、宇喜多直家によせて、秀家によせて、豪姫によせて、などで
作曲も彼がしています。
●11月17日(日)には、亀山城跡プレーパーク(冒険遊び場)を開催します。
プレーパーク運動は、デンマークから輸入されたとのことで、その導入には
門脇厚司さん(『子どもの社会力』岩波新書著者、かつてラボで一緒に仕事
をさせてもらった)も関わっていたとのことです。
プレーパークというカタカナが気に入りませんが、なんのことはない、
私が子どものころに亀山城跡の林で遊んでいた遊びの再現です。
ということで、10月の忙しいお米の収穫作業が終わったと思ったら、
このところ、上記のような活動で忙しくしています。
矢部 顕
亀山城跡保存会子どもクラブ(浮田小学校6年生)
亀山城跡清掃と歴史講座
八丈島赦免花伝説
―亀山城に移植された蘇鉄に花が咲いた―
2024.11.13.
亀山城跡保存会事務局長
矢部 顕
1. 八丈島から蘇鉄が贈られてきた
①贈り主 宇喜多秀家顕彰会「八丈島久福会」
②植樹式 2019年(令和元年)10月14日
③蘇鉄に花が咲いた 2019年11月
2. 八丈島赦免花伝説
①秀家遠島(1606年)以降、260年間で1898人が流罪で八丈島へ島流し
②宗福寺(秀家菩提寺)の蘇鉄に花が咲く―赦免状が届く前触れ
③文政年間69人、天保年間41人、弘化年間64人、嘉永年間34人、・・・
計10回 計741人に赦免状が届いた
④しかし、秀家、その末裔には赦免状は届かなかった
⑤明治政府による明治元年の恩赦によって
3. 加賀前田家の支援
①豪姫の八丈島への同行は許されず、実家の加賀前田家に戻った
②豪姫の秀家への食料支援の計画は、徳川から最初許されなかった
③豪姫のキリスト教棄教が条件だった
④江戸時代260年間、前田家は食料を送り続けた
日本の歴史上たぐい稀な出来事
4. 宇喜多家の家老・明石掃部
①謎のキリシタン武将 黒田官兵衛の影響?
②城下の民2000人?を洗礼
③豪姫のキリスト教への帰依は?
③秀家を支えた後までも
④大坂の陣にキリシタン武将として参戦
5. 秀家生誕450年を記念して
①子どもの交流
秀家生誕の地の浮田小学校と秀家終焉の地の
八丈島大賀郷小学校との交流が始まった
②360年の時空を越えた
生きた歴史が続く
●おはようございます。久々に、新しい憲法チラシができましたので、お送りします。 塚越敏雄
内容は表題の通りですが、じっくり読んでください。
図書館削減暴挙は現在進行形です。いずれ「反攻」の市民運動を報告したいと思います。
■福田三津夫様
お米の収穫作業が終わったことを、このあたりの古老たちは「秋が終わった」と言います。
わたしは、自分の秋が終わったら、11月は亀山城跡保存会の活動が忙しくなります。6年生への亀山城歴史講座、亀山城プレーパーク(冒険遊び場)開催、五次元キーボード演奏会<宇喜多家をめぐる歌物語>協賛準備、宇喜多家法要。ほかにも、五年生の学習田のお米の収穫作業やらで、そちらのほうが忙しくなります。
先回のメールで、9月1日にあった「青い鳥楽団」復活のニュースと資料をお送りしました。10月14日には、次のようなイベントがありました。(お米の収穫作業で忙しく参加できませんでしたが)
長崎のキリシタンが岡山県の無人島に強制隔離されて、はげしい労働とキリスト教の棄教を迫られ、何人かの人が亡くなりました。その人たちを追悼する集いです。 その島は、愛生園がある長島の近くにある鶴島という島です。長島のことは知っていても鶴島のことは多くの人は知りません。
じつは、先にお送りしたメールの「青い鳥楽団」の楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した「鶴島哀歌」という歌があるのです。10月14日、約170人の巡礼参加者は追悼のミサの後、全員で「鶴島哀歌」をうたったのです。
先にお送りした資料のうち、1968年に行われた大阪での一般市民の前での「青い鳥楽団演奏会の当日パッフレットを見ると、そこでも「鶴島哀歌」が歌われていたのです。歌ったのは、近藤宏一さんを人生の師と仰ぐ佐々木松雄さんで、彼は愛生園にあった岡山県立邑久高校長島分校(新良田教室)の卒業生でした。
佐々木松雄さんがお亡くなりになった(2019年)お葬式の棺の中には、わたしは「青い鳥楽団」演奏会の当日パンフレットを納めたのですが、誰か知らない人が「鶴島哀歌」の歌詞を書いた紙を納めた人がいたのには驚きました。
●佐々木松雄さん追悼 「鶴島哀歌」のうたがながれる
●鶴島巡礼について取材報道された朝日新聞記事
を添付します。
矢部 顕
追悼佐々木松雄さん
「鶴島哀歌」のうたがながれる
―佐々木松雄さんと鶴島哀歌―
矢部 顕
●鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄
11月6日(2019年)、佐々木松雄さんが亡くなった。急性肺炎。享年73歳。新良田教室第6期生。
多磨全生園でのご葬儀に参列するという友人に頼んだ。青い鳥楽団演奏会「らいを聴く夕べ」のパンフレットを棺に納めてほしい、と。
葬儀後、友人からはていねいにもパンフレットを棺に入れた写真がメールで届いた。その写真にはパンフレットの他に、大きな活字が印字された白い紙が見てとれた。よく見ると詩が書かれているようだった。拡大してみると、なんとそれは「鶴島哀歌」の歌詞だった。「鶴島哀歌」の歌詞を棺に納めた人がいたのだ。
愛生園盲人会の青い鳥楽団が、療養所内や病院内でなく、一般市民の前ではじめて演奏会をしたのは大阪城の近くの大阪厚生会館(現在は大阪府立青少年センター)大ホールで1968年6月のこと。交流(むすび)の家開所記念行事としてFIWC関西が主催して行われた。
B5版20頁のこの当日パンフレットの演奏プログラムの頁のなかに「鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄」とある。青い鳥楽団メンバー紹介の頁を見ると、「佐々木松雄(岩手県出身、新良田教室卒業、宮城県東北新生園より協力参加)」と記されている。この日のために東北新生園から大阪に駆けつけたことがうかがわれる。
佐々木松雄さんは東北新生園で療養していたが、療養所で唯一の高校である新良田教室(岡山県立邑久高校の分校)に入学するために長島愛生園に転園した。その高校生の頃、青い鳥楽団楽長近藤宏一さんと出会う。近藤さんの高潔な人格に感銘を受け、その時から生涯の師として仰ぐようになった。近藤さんは詩人でもあった。
盲目十年
人間の
ものを見るという不思議
見えないという不思議
これぞ まこと
神の傑作・・・・
佐々木さんはこの詩が好きで高校時代いつも口ずさんでいたそうだ。
近藤宏一さんがスイスでのウエルズリー・ベイリー賞(*)授賞式(2007年)に赴くときも、目の見えない近藤さんの手足となって案内した。その時の様子を『むすび便り』に原稿を依頼したのだが、出来上がった原稿は紙面に載せるにはあまりにも長かったので、エッセンスだけを抜粋して『むすび便り』(2007年12月)に掲載し、全体は『青い鳥楽団近藤宏一さんの授賞式随行記』として冊子として印刷発行した。(2008年)。
長島愛生園でFIWC関西が実施しているように、多磨全生園の祭りのときFIWC関東はチンドン隊を編成して祭りを盛り上げた。夜の交流会で、チンドン隊に参加した若い人たちにむかって、チンドン隊の演奏曲「青い鳥行進曲」(青い鳥楽団のテーマソング)について語ったのは東北新生園から多磨全生園に移っていた佐々木松雄さんだった。若いころから、そして今も尊敬してやまない近藤宏一さんの作詞作曲のこの曲ができるまでの青い鳥楽団の歩みについての話だった。彼が近藤さんの話をはじめると、熱がこもってきてなかなか終わらない。話を聞いている若者の中に、ひとりの若くない者がいた。大阪での青い鳥楽団演奏会を主催したメンバーのひとりの私がいて、後で名乗り出たものだった。
そのころ私は東京に住まいしていたので、それ以来たびたび佐々木さんを訪ねて親交をむすんだ。病気で麻痺した手のリハビリで始めた陶芸の作品が家の内外に処狭しと置かれていたのを思い出す。
●殉教の島に歌がながれる
「むすび便り」の読者のみなさんは愛生園のある長島に行ったことのある人は多いと思うが、近くに鶴島という島があることをご存知だろうか?
長島の東5km、周囲2kmの小さな島で人は住んでいない。流刑地として明治初期の1870年、長崎の浦上地区の潜伏キリシタンがこの島に送られ、拷問の末に棄教を迫られ、死者もでた。江戸時代の弾圧だけでなく、明治政府誕生後もこんなことがあったことを初めて知った
岡山カトリック教会が主催する巡礼の旅は昨年50回を数え、岡山以外の県からもふくめて163人が参加した。なんと163人! この人数に驚いてしまった。
わたしが転居してきてから親しくしている近隣の友人がいる。その娘さん夫婦が最近近くに引っ越してきた。その若いご夫婦と話していて、彼らが巡礼に参加したことを聞いて、またびっくり。
この夫婦が日曜日に通っている岡山教会が作った『殉教地 鶴島』と題した小冊子によると、幕末にも、また明治になってからも、浦上地区の潜伏キリシタンに対する大弾圧があり、3394人が西日本の21藩に流刑者として預けられた
岡山に流された117人は牢獄に入れられた後、113人が島に送られ、貧しい食事と狭い住まいしか与えられず、開墾を強制され棄教を迫られた。激しい拷問で転ぶものが続出。その数は半数を超えたという。しかし死を通して信仰を守った人もいた。明治新政府が成立してもなおこのようなことがあったのは、神道国教主義を政府方針としてキリシタン弾圧を決定したからであった。その後、各国がまず我が国を責めたものはこのキリスト教弾圧政策であり、その解放であったと言われている。その結果、太政官布告により我が国で初めて宗教の自由が保障されたのは明治6年。鶴島の人々は、3年余の流刑から解放され、浦上に帰ることができた。鶴島に残る十二の魂は、結局我が国最後の殉教者となった訳である。
この巡礼に参加した人たちはキリシタン墓地と呼ばれる場所で、野外ミサを行った。配布された16頁のプリントにミサ式次第が詳しく書かれ、その中の1頁は「鶴島哀歌」の歌詞と音符が印刷されていた。ミサ終了後、「鶴島哀歌」を全員で合唱した。
瀬戸の渦潮 見下ろす丘に
石の十字架は 静かに眠る
流刑の鞭に 倒れし人の
悲しい祈りよ その声よ
ああ 鶴島に
今日も蜜柑の 花散るばかり
うつし世遠く 捨てし心に
秘めて指操る ロザリオひとつ
涙にぬれし 踏み絵の御母に
捧げし誓いよ その魂(たま)魂(たま)よ
ああ鶴島に
今日も海鳥 さえずるばかり
巡る砂浜 たたずむ小道
しのぶ歴史に かげろう燃える
永遠(とわ)永遠(とわ)の救いに 生命(いのち)生命(いのち)をかけた
せつない願いよ その歌よ
ああ鶴島に
今日もひそかに 夕凪せまる
(作詞作曲・近藤宏一)
近藤さんがこの歌を作った動機が著作『ハーモニカの歌』に記されている。「他人事に思えなかった。縁もゆかりもない流刑の島に、ただ命をさえ捨ててもよいという運命と、ハンセン病によって一生を変えられ、やがて島の療養所の土に帰する私の生きざまとが、どこかで結びついているように思えた」。
――――――――――――
*The Leprosy Mission International(国際救らいミッション)<TLM>の創始者ウエルズリー・ベイリー氏を記念して、TLMが125周年を迎えた1999年に創設された。ハンセン病問題に対する勇気と成果、たぐい稀なる貢献をした人に贈られる。2007年には世界中から2名が選ばれ、スイスでの国際総会における特別歓迎会で授賞式が行われた。
(やべ あきら・岡山市在住)
1965年からFIWC関西に参加。青い鳥楽団演奏会(1968年)を主催した時のFIWC関西委員会委員長。NPO法人むすびの家理事。
「九条守って世界に平和」(マスコミ・文化 九条の会 所沢)のバックナンバーをいただきました。最新が200号でしたが、ある筋からメールで201号が送られてきました。〈転送歓迎〉ということなので、紹介させていただきます。
通常は8頁立ての隔月刊のようです。内容は多岐にわたっていますが、レベルが高く、じっくり読み込みたい記事ばかりです。
著名人の執筆者も多いようですが、中嶋里美さん(所沢市)、植竹しげ子さん(清瀬市)など知り合いのお名前も見えて嬉しかったです。
◆映画「学校」の黒井先生
(亡くなった西田敏行さんが日本アカデミー賞を受賞した役)
前川喜平(現代教育行政研究会代表)
亡くなった西田敏行さんが日本アカデミー賞を受賞した役は、夜間中
学を描いた1993年の映画「学校」 (山田洋次監督)の黒井という教師の
役だった。
この黒井先生のモデルは複数いる。
塚原雄太氏は東京の夜間中学で1957年から20年以上教鞭(きょうべん)
をとり、夜間中学廃止の危機を乗り越えて夜間中学の教育を先導した人
物だ。
毎年開かれている夜間中学の生徒のスピーチ大会は、塚原氏の詩の一
節からで「花咲け出愛(であい)」スピー チ大会と呼ばれている。
見城慶和(けんじょうよしかず)氏は塚原氏の著書「夜間中学生」に感
銘を受けて1961年に夜間中学の教師になり、40年以上教えた。
その様子は2003年のドキュメンタリー映画「こんばんは」(森康行監
督)に生き生きと描かれている。
松崎運之助(みちのすけ)氏は1973年から30年以上夜間中学で教えた。
映画の原作となった本の著者だ。田中邦衛さんが演じた「イノさん」
は、松崎氏が実際に教えた井上さんという生徒がモデルだ。
夜間中学はこうした教師たちが作り上げてきた。文部科学省の主導で
作られた学校ではない。
文科省は10年前に態度を改め、今では全国の教育委員会に夜間中学の
設置を促しているが、現場の教師が日々の実践から積み上げた学びのあ
り方を離れて夜間中学は作れない。
単に昼間の中学校を夜に移したものではないのである。
(10月20日「東京新聞」朝刊21面「本音のコラム」より)
◆世界終末90秒前
大矢英代(カリフォルニア州立大助教授)
今年のノーベル平和賞が、全国の被爆者らでつくる日本原水爆被害者
団体協議会(被団協)に決まった。
反核平和運動の最前線に立ってきた被爆者のみなさんに心からの敬意
と祝福を表したい。
いま、私たちがやらねばならないのは、祝福ムードを盛り上げること
よりも、会見で委員らが語った「怒り心頭」の思いを受け止め、行動に
移すことであると思う。
石破茂首相が言及した米国の核兵器を共同運用する「核共有及び核持
ち込み」について、田中煕巳代表委員は「論外」と切り捨てた。
日本政府は 「共有だから保持ではない」という卑怯な口実で実質的核
保有国になりたがっている。
被爆者への冒涜(ぼうとく)であり、犠牲者を二度殺すことと同じでは
ないか。いや、それ以上に、人類の危機を加速させるものである。
1945年、広島・長崎への原爆投下への反省から創刊された米国の科学
雑誌「原子力科学者会報」は、表紙に世界終末時計を掲載する。
毎年更新される時計は、今年、深夜0時の90秒前で止まっている。
深夜をまわれば、核戦争によりこの世界は破滅し、人類は滅びる。
その時は着実に迫っている。
世界終末時計を止める方法は「核共有」などではない。
ノーベル平和賞受賞を機に、まずは「核兵器は抑止力」などという愚
かな考えを日本政府に捨てさせねばならない。
(10月21日「東京新聞」朝刊19面「本音のコラム」より)
今読んでいる素敵なミニコミを紹介します。綺羅星のようなミニコミ群です。
トップバッターは「キラキラ星通信」。東村山市の門間夫妻を中心に結成された無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会が発行する通信です。本114号は14頁の冊子です。
先日袴田巌さんの再審無罪が確定しました。
私たちの清瀬・憲法九条を守る会や清瀬・くらしと平和の会では、袴田秀子さんや門間夫妻の話を聞いたりしてきました。署名を集めたり、様々な請願葉書を送ったり、カンパを集めたりもしてきました。無罪確定は本当に嬉しいことです。
10月26日(土)「袴田秀子さんをお迎えして」の学習会がカトリック清瀬教会であります。
「茨木のり子手帖」は茨木のり子の家を残したい会の季刊紙です。第21号(2024夏)は茨木のり子の詩や写真が満載の手作り感溢れる34頁の冊子です。編集代表は柳田由紀子さん、国分寺での第2回福田緑写真展に来ていただいて、初めてお話ができました。
ラストバッターの現代女性文化研究所発行「現代女性文化研究所ニュース」は以前にもブログで紹介しました。本68号は24頁です。
講座「いま大杉栄と伊藤野枝」(講師、鎌田慧)、講座「戦争の記憶-空襲体験を語る」(講師、向井承子)などの記録が掲載されています。ちょっとしたお出かけの読み物として最適です。
矢部顕さんから以下のようなメールが届きました。岡山県の「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財についての情報です。懐かしい日本の原風景とでも言えるものでしょうか。
「伊勢大神楽」という国指定重要無形民俗文化財
があるのはご存知でしょうか?
毎年9月16日、朝、川向うの隣の村から笛の音が聞こえてくると、やがて獅子舞の一行が橋を渡ってわが村に入って来るのが見えます。
100年もそれ以上の昔から、毎年毎年、獅子舞が来るのは9月16日と決まっているのです。
この日は、沼村のすべての家庭を1軒1軒訪ねて、それぞれの家の玄関で獅子が舞い、お祓いをしてまわり、御神札を配布していきます。
午後には、村の鎮守のお宮の境内で、総舞という芸能、舞や踊りや漫才や曲芸などを見せてくれます。
わたしが子どもの頃(高度経済成長の前)には、村中の老若男女が1年に1回の楽しみで大勢の人たちがお宮に集まりました。昔から変わらない、まさに村の原風景ともいえるものでした。
我が家にくるこの獅子舞の講社の人たちは、滋賀、和歌山、三重、大阪、岡山と、ほとんど1年中旅から旅へと歩き続け、獅子舞を各地に届けるのです。
下記をクリックすると動画を見ることが出来ます。
https://www.youtube.com/channel/UCrwvf2XYVCEZdykEIFPiPJg
伊勢大神楽講社【公式】旅する獅子
谷川雁がこだわった「村」がここにある気分になります。
矢部 顕
久しぶりの矢部顕さんのメールです。じっくり目を通してください。
●福田三津夫様
いつ終わるともしれない酷暑の夏でしたが、すっかり秋らしくなってきました。
ご無沙汰していますが、お元気でお過ごしでしたでしょうか。私のほうは、9月にブドウの収穫、10月のお米の収穫、と1年中で一番忙しい季節です。
さて、―交流(むすび)の家の活動も息の長い活動ですねーと言ってくださった方がいますが、その長い活動を思い出す出来事が9月1日にありました。
それに関しての、資料を送ります。
◇9月1日のイベントの新聞記事
◇そのイベントに関しての小生の文章 復活「青い鳥楽団」(下掲)
◇らいを聴く夕べ ・青い鳥楽団演奏と講演 当日パンフレット(B5版20頁)
表紙、1頁、2頁のみコピーを送ります。(ほんとは20頁全部送りたいのですが)
<2頁のごあいさつの文章はすばらしい文章で、とても私などが書けるものではありません。山上憲一という仲間で友人のものです>
先月の2024年9月1日と、1968年6月24日の出来事です。 矢部 顕
復活「青い鳥楽団」
―近藤宏一さん作詞作曲の楽曲のCD化―
長島愛生園にかつてあったハーモニカバンド「青い鳥楽団」が再発見され、楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した楽曲がCDとして復活されようとしている。
2024年9月1日、CD化に向けて、ボランティアの人たち20人くらいが集まって合唱し録音が行われた。録音は、青い鳥楽団の代表曲「あおいとり行進曲」。録音会場は愛生園の愛生会館。呼びかけ人は、NHK連続テレビ小説の主題歌や舞台音楽で人気の作曲家・阿部海太郎さん。
参加したのは、歌のプロではなく、かつて愛生園に「青い鳥楽団」があったことを知り興味を持った人たち。参加者の自己紹介を聞いていると、若い人が多く、「青い鳥楽団」が活動していた時のことを知っている人はいない。呼びかけ人の阿部海太郎さんも然りである。「青い鳥楽団」は1953年に結成され、1978年の解散まで園内外で公演を重ねた。活動を停止してから45年にもなるのだから、当然のことだろう。
ただ一人を除いて。その人とはわたくしである。
らい快復者社会復帰セミナーセンター交流(むすび)の家を4年の歳月をかけて素人の手で建設したワークキャンプ団体のフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)関西のメンバーだった。
交流(むすび)の家の竣工後、開所記念行事として<「『らい』を聴く夕べ」・青い鳥楽団演奏と講演>を開催した。1968年6月24日のことだった。
この演奏会は、愛生園盲人会「青い鳥楽団」が療養所や病院ではなく、一般市民の前で公演した初めての試みだった。大阪城に近い大阪府厚生会館大ホール(現在名・大阪府青少年センター)の聴衆は一般市民であふれたことは特筆されるべきことであった。強制隔離を定めた「らい予防法」が廃止(1996年)されるよりも、はるか昔の28年前のことであった。
演奏会当日のパンフレット(B5版20頁)が残っていて、近藤宏一さんのお葬式(2009年10月5日)の通夜のとき棺に入れさせていただいた。納めようとしたとき、近藤さんと縁の深い参列者の方々がそれを見てビックリされ、「コピーをさせてほしい」と懇願されたことを覚えている。
長島愛生園の夏祭りを盛り上げようと、毎年、FIWC関西はチンドン隊を編成して、園内を練り歩いた。チンドン隊のメインテーマ曲は「あおいとり行進曲」。作曲者の近藤宏一さんとは、毎夏、亡くなられる前年まで指導を仰ぎ交流を深めた。チンドン隊の活動は、コロナ禍で夏祭りが中止になるまで24年間にわたって続けられた。
「青い鳥楽団」とFIWC関西は、1968年から始まって2021年までの長きにわたるお付き合いだった。
「青い鳥楽団」を知らない世代が、阿部海太郎さんの再発見をきっかけに、病気で強制隔離された苦悩さらに目の不自由という絶望的な状況から、音楽に光を見出して生きがいとして歩んできた歴史を知ろうとしている姿を見て、私が嬉しくなってしまっている。
2024.9.20.
矢部 顕
神奈川県腰越で地道に反権力、護憲の闘いを続ける塚越敏雄さんから腰越九条ニュースが届きました。鎌田慧さん、前川喜平さんのコラムと共にお読みください。
■鎌倉の塚越です。
9条ニュースができましたのでお送りします。
今回は総選挙が迫っているので、それに関連して書いてみました。
塚越敏雄
◆原発は災難つづき まるで転落の始まり 沈思実行(209)
鎌田 慧(ルポライター)
原発は災難つづき。まるで転落の始まりの様相である。福島(第一)
原発のメルトダウン事故から13年たっても、溶けだした核燃料棒はいま
だ圧力容器を破って、格納容器の底で凝固したまま。猛毒デブリと
なって高濃度の放射線を放っている。
8月下旬、2号炉のデブリを採取する作業に入った。といってもた
かだか3mg度を試験的に回収するだけだった。
ところが、伸縮式のパイプをつなぐ順番をまちがっていた、というこ
とでご破算、延期となった。
そばにいるだけでも致命的というほどのデブリの量は、880トン以上と
推定されている。廃炉作業の入口で、あえなくダウン。さらにデブリ量
の多い3号機、それに1号機も順番待ちの状態だ。
廃炉作業は30年から40年がかかる、といわれている。それさえうま
くいくかどうか、わからない。たとえ、それがうまく行ったにしても、
取り出したデブリをどうするか、それも未定だ。
岸田文雄首相の無知、無謀な「原発回帰」政策にもかかわらず、各
地の原発の再稼働はなかなか進まない。
東海第二原発は、防波堤工事がいかにいい加減だったか、工事関係者
からの内部告発があってから1年。今のところ再稼働の見通しはない。
それに追い討ちをかけたのが、8月上旬の福井県敦賀2号炉の「再
稼働不許可」。
原子力規制委は原子炉直下に活断層があるとして、再稼働を認めな
かった。
これで日本原電の敦賀原発は全滅。残るは東海第二だけだが、先行き
の経営は困難になろう。
いまのところ、全国の原発27基が再稼働を申請している。かつて建
設された約半分になったが、このうち、再稼働したのが12基だけだ。
ところが、その使用済み燃料の処分施設としての六カ所村(青森県)
の再処理工場は、27回目の延期宣言がされた。
建設開始から31年。こんどは本当だ、こんどは本当だ、との狼少年。
その完成を誰も信じていない。
それぞれの原発が、自分の構内に「乾式貯蔵」となりそうだ。
危険物を他所にやる、という自分勝手が、ブーメランのように返って
くる。 (9月11日「週刊新社会」第1370号より)
◆ 証拠捏造(ねつぞう)の袴田事件
証拠は「捜査機関(注)による偽造の疑い」(判決文)
沈思実行(210)
鎌田 慧(ルポライター)
今月26日、静岡地裁は、死刑囚・袴田巖さんの再審判決で、無罪判決
を出す。それにはまちがいはない。
しかし、問題なのは、検察側が抗告しないかどうかだ。
10年前の2014年3月、静岡地裁は再審開始決定を出した。
が、検察側が抗告して、東京高裁が再審決定を取り消した。そのため、
10年間も無罪判決が引き延ばされてきた。
それでも、袴田さんは「これ以上、拘置を続けるのは耐え難いほど正義
に反する」との村山浩昭裁判長の英断によって、即時釈放となった。
47年ぶりに姉ひで子さんと暮らせるようになった。判決文に、証拠は
「捜査機関による捏造の疑い」があると断じている。袴田さんは無実の
「死刑囚」として、巷(ちまた)の人たちに見守られながら街を闊歩
している。不思議だ。
事件発生は1969年6月。清水市(現静岡市)で発生した「味噌工場」
専務一家4人の殺人と放火事件だった。その容疑者として従業員の袴田
さんが逮捕されて、すでに58年2ヶ月がたった。
最高裁で死刑が確定してから袴田さんは、まるで死刑執行の恐怖
から逃れるように、意識が世間から乖離して夢の中にいるようだ。
村山裁判長によって、「偽造」と判断された証拠とは。味噌タンクの
中に隠されていた、5点の衣類である。
最初の「証拠」は袴田さんのパジャマだった。
ところが、それには4人を刺殺したにしては、血痕の付着がなかった。
それで後から「証拠」とされたのが下着など5点の衣類だった。
しかし、それらは1年以上も味噌に漬けられていたというにしては、
血液の赤みが残っている、というものだった。本来なら、酸化して黒ず
むはずである。
そればかりか、袴田真犯人を証明するために出してきたのが、味噌漬
けになっていた半ズボンの「とも布」である。袴田さんの実家から押収
した生地と同一のものだ、と鑑定された。
しかし、その「とも布」も家宅捜査の時に警察官がもちこんだ
ものだった。
(9月18日「週刊新社会」第1371号より)
(注):「捜査機関」とは、警察と検察を指す。
◆客観報道の罪
捏造による死刑判決は殺人罪にも匹敵する
鎌田 慧(ルポライター)
再審無罪判決のあと「東京新聞は」との主語で、毎日新聞は編集局長
名で、袴田巌さんへ「おわびします」と文章を発表した。筆者が知る限
り再審報道で初めてだ。
一家4人殺害や放火。この大事件の報道は連日マスコミで続けられた。
担当した地裁裁判官が、無実の心証をもちながらも容疑者を犯人視す
るマスコミの影響力を挙げ、死刑の判決文を書いた、と告白する悲劇も
あった。
誤報と司法とが1人の人間の一生を破壊した。
読売新聞は謝罪しなかったが、1面中央に社会部長名で「検察は控訴
断念を」と主張した。58年も費やされた冤罪の証明のあと、いま最大の
不安は検察側が冷酷無謀な控訴に持ち込まないかだ。
ところが謝罪のなかった朝日新聞は、10年前に再審開始を決定した村
山浩昭元裁判長の、今回判決の「捜査機関の捏造」説を支持する
コメントに対置し「今回の事件は自白を除いても、有罪方向の証拠がた
くさんある…上級審の判断を仰ぐべきではないか」「控訴をする可能性
は十分考えられる」(元最高検次長検事・伊藤鉄男氏)と後輩を激励さ
せている。
捜査機関の発表記事に対する、冤罪被害者の無実を叫ぶ声が取り上げ
られることはない。
捏造による死刑判決は殺人罪にも匹敵する。
その加害者の「控訴の可能性」を示唆する両論併記は、あまりにも
権力寄りだ。 (10月1日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)
◆石破茂氏の国賦人権説
前川喜平(現代教育行政研究会代表)
2013年ごろ、文部科学省の官房長として自民党の石破茂幹事長に何か
を説明に行った際、石破氏が日本の憲法では天賦人権説を採るべきでな
いと語るのを聞いて驚いたのを覚えている。
天賦人権説とは、人権はすべての人が人であるがゆえに生まれながら
に当然に有する権利だという思想だ。
これは世界人権宣言や国際人権規約の基本的な思想だ。
ところが、それは日本には当てはまらないという。
日本において人権とは、国が国民に与える権利だというのだ。
確かに、2012年4月の自民党「憲法改正草案」の「Q&A」には、国
民の権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で生成されてきたものだか
ら、現行憲法の天賦人権説に基づく規定は改める必要があると書いて
ある。
この「国賦人権説」によれば、国民ではない外国人には人権がないこ
とになる。また、国の都合で「公益」や「公の秩序」を理由に人権を制
限することも許される。
さらに国は国民に人権を与えると同時に義務も課す。
国民の人権と義務は表裏一体なので、義務を果たさない国民は人権を
主張できない。国民の最大の義務は国を守る義務だ。
国が戦争を始めたら、国民は戦場で戦わねばならぬ。それが人権の代
償だ。
石破首相が目指す改憲は、こんな人権観に依拠する、危険極まりない
ものなのである。(10月6日「東京新聞」朝刊17面「本音のコラム」より)
◆人を大事にする司法へ
鎌田 慧(ルポライター)
静岡地裁の「袴田事件」再審無罪判決に対し検察側が控訴するかどう
か、期日が明後日に迫った。検察は無実の人間を44年間も死刑囚として
きた。誤りを率直に認め、同じ過ちを犯さないための教訓とすべきで
あろう。
いくつかの冤罪(えんざい)事件があった。
いまも無実を訴える声が続いている。警察や検察が逮捕した容疑者か
ら自供をとるまで勾留する「人質司法」が、まだ罷(まか)り通っている。
大阪のプレサンスコーポレーションの「業務上横領事件」では、検察
官が「検察なめんなよ」「ふざけるな」と机を叩いたと、民事事件でも
訴えられている。特別公務員暴行陵虐罪で刑事裁判がはじまる。
取り調べの可視化や弁護人の積極的な関与がさらに必要だ。
袴田事件は静岡地裁の再審開始決定から、10年もたってようやく無罪
判決となった。検察側が即時抗告して審理が長引いたからだ。これから
の課題は、検察官の不服申し立てなどを規制する再審法の改正である。
もうひとつは、長い間、冤罪を主張している事件の早期解決だ。
鹿児島県の大崎事件は3度も再審開始が決定されてなお、検察側が抗
告して裁判が始まらず、97歳の原口アヤ子さんは病床に伏して無罪判決
を待っている。
狭山事件の石川一雄さんは85歳。脅迫状が最大の証拠とされたが、当
時、非識字者の石川さんにはとても書けない文章だった。
(10月8日「東京新聞」朝刊「本音のコラム」より)