2日前だったでしょうか。2階から降りてきた妻が「ペーターが脳内出血で亡くなったって。」涙をこらえて伝えてくれました。茫然自失とはこのことです。昨年の夏、ビュルツブルク市内に腰の手術で入院していたペーターを2回お見舞いに伺ったときに、80歳とは思えないくらいお元気で、にこやかな表情を見せてくれたのです。その時、これからお連れ合いのイングリットと相変わらず仲良く暮らしていくんだろうと確信したのでした。
ペーター・シュミットさんとの出会いは20年前にさかのぼります。1999年、現役教師だった我々夫婦は、夏休み中に22日間にわたるヨーロッパ旅行をしたのでした。私たちが中世ドイツの彫刻家、ティルマン・リーメンシュナイダーの作品に初めて出合った旅でした。ミュンヘンのバイエルン国立博物館で彫刻「マグダラのマリア」と衝撃的な出合いをし、妻はそれ以降、リーメンシュナイダーの追いかけ人になったのです。
その数日後、私たちはリーメンシュナイダーの作品を世界で最も多く所蔵するビュルツブルクのマイフランケン博物館(当時の名称)に辿り着きました。リーメンシュナイダーの部屋は他には誰もいず、我ら2人の貸し切り状態でした。舐めるように作品を鑑賞し、写真を撮りまくりました。その時に背の高い中年の男性職員がドイツ語で話しかけてきたのです。妻はノバでドイツ語を習い始めたばかりで、あまり理解はできなかったと言います。
その時のことを我々は後に自費出版した旅行記に書き綴っていました。
「ほとんど驚嘆の眼差しで作品を舐めるように2人で鑑賞していたら、中年の係員が話し掛けてきた。ドイツ語なのではっきりはしないが、色々教えたがっているようなのだ。フラッシュなしなら撮影OKなので、彼も一緒に写真を撮ることにした。」三津夫(『ヨーロッパ2人旅、22日間』福田三津夫・緑、私家版、2000年2月26日発行)
「私が深い感銘を受けたのは、聖セバスチャンの像だ。木にくくりつけられ、矢を身体のあちらこちらに射られていながら、深い眼差しで空を見つめている。その縛られた血管の浮き上がった手がまるで生きているようだ。矢は1本だけささっていたが、私たちがあまりにも熱心に長い時間これらの作品を見ているのに興味を覚えたらしい係の男性が、本当は矢が7本刺さっていたのだと教えてくれた。ここにも、ここにもと指さす跡に、丸い矢の幹がポツンと見えた。この像が作られたのは1515年だ。」緑(同上)
これがペーターとの出会いの瞬間でした。それ以降ドイツには十数回通うことになりました。リーメンシュナイダーを始めとするドイツ中世の彫刻を訪ね歩く旅でした。毎回ヴュルツブルクに行くたびに親しくなったペーターに連絡を取り、館内だけでなく、車で教会を案内してもらいました。ご自宅にも何度も招待されごちそうになりました。
そして、これだけははっきり記録に遺しておきたいと思います。ペーター夫妻はじめドイツの友人たちの存在がなければ間違いなく緑の本邦初の『祈りの彫刻』シリーズ全四巻(四巻目はまもなく出版されます)は出版できなかったということです。さらに、ペーターはリーメンシュナイダーに関する地元新聞記事を度々送ってくれました。
彼らご夫婦の思い出は尽きません。コロナが穏やかになった頃、必ず彼のお墓参りをしたいと妻と話しています。ペーター、今まで色々ありがとう! 合掌。
*妻もブログにいち早く追悼文を認めています。ペーターの写真もあります。
*『ヨーロッパ2人旅、22日間』残部あります。ご連絡いただける方には差し上げます。
https://blog.goo.ne.jp/riemenschneider_nachfolgerin/e/b6954d42cbd07464ff856a191676b124
◆恐怖の懲罰人事
鎌田 慧(ルポライター)
今回も日本学術会議大弾圧事件について。
6人の新会員候補者が菅首相から拒絶され、政府の学問の自由への
抑圧として、世論の批判が激しくなった。菅首相は9日のインタビュー
で「99人分の名簿しか見ていない」と弁明した。
つまり、6人を除外する前の105人の元の名簿は見ていない。
だから、誰がパージされたか、それについては知らない、自分の責任
ではない、とする弁明だった。
しかし、5日のインタビューで6人が(安全保障関連法等)政府提出
法案に反対だったこととの関連を問われ、「学問の自由とは全く関係
ない。6人についていろんなことがあったが、そういうことは一切関係
ない。総合的、俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点から判断した。
これに尽きる」
語るに落ちる。「6人についていろんなことがあった」と知って
いたのだ。「俯瞰的」と聞いて、安倍前任者の「地球儀を俯瞰する
外交」を思いだして笑ってしまった。地球儀など小さい、小さい。
せめて地球と言ってほしかった。
それはともかく、学術会議会員の任命権者・総理大臣が今回のパージ
を知らなかった。とすれば首相の重大な職権放棄。任命権の侵害。
一体誰が簒奪(さんだつ)したのか。
4年前、菅官房長官時代、3人の侯補者が除外させられ、秘密に
伏されてきた。今ようやく学会の反撃が始まった。
(10月13日東京新聞朝刊29面「本音のコラム」より)
ペーター・シュミットさんとの出会いは20年前にさかのぼります。1999年、現役教師だった我々夫婦は、夏休み中に22日間にわたるヨーロッパ旅行をしたのでした。私たちが中世ドイツの彫刻家、ティルマン・リーメンシュナイダーの作品に初めて出合った旅でした。ミュンヘンのバイエルン国立博物館で彫刻「マグダラのマリア」と衝撃的な出合いをし、妻はそれ以降、リーメンシュナイダーの追いかけ人になったのです。
その数日後、私たちはリーメンシュナイダーの作品を世界で最も多く所蔵するビュルツブルクのマイフランケン博物館(当時の名称)に辿り着きました。リーメンシュナイダーの部屋は他には誰もいず、我ら2人の貸し切り状態でした。舐めるように作品を鑑賞し、写真を撮りまくりました。その時に背の高い中年の男性職員がドイツ語で話しかけてきたのです。妻はノバでドイツ語を習い始めたばかりで、あまり理解はできなかったと言います。
その時のことを我々は後に自費出版した旅行記に書き綴っていました。
「ほとんど驚嘆の眼差しで作品を舐めるように2人で鑑賞していたら、中年の係員が話し掛けてきた。ドイツ語なのではっきりはしないが、色々教えたがっているようなのだ。フラッシュなしなら撮影OKなので、彼も一緒に写真を撮ることにした。」三津夫(『ヨーロッパ2人旅、22日間』福田三津夫・緑、私家版、2000年2月26日発行)
「私が深い感銘を受けたのは、聖セバスチャンの像だ。木にくくりつけられ、矢を身体のあちらこちらに射られていながら、深い眼差しで空を見つめている。その縛られた血管の浮き上がった手がまるで生きているようだ。矢は1本だけささっていたが、私たちがあまりにも熱心に長い時間これらの作品を見ているのに興味を覚えたらしい係の男性が、本当は矢が7本刺さっていたのだと教えてくれた。ここにも、ここにもと指さす跡に、丸い矢の幹がポツンと見えた。この像が作られたのは1515年だ。」緑(同上)
これがペーターとの出会いの瞬間でした。それ以降ドイツには十数回通うことになりました。リーメンシュナイダーを始めとするドイツ中世の彫刻を訪ね歩く旅でした。毎回ヴュルツブルクに行くたびに親しくなったペーターに連絡を取り、館内だけでなく、車で教会を案内してもらいました。ご自宅にも何度も招待されごちそうになりました。
そして、これだけははっきり記録に遺しておきたいと思います。ペーター夫妻はじめドイツの友人たちの存在がなければ間違いなく緑の本邦初の『祈りの彫刻』シリーズ全四巻(四巻目はまもなく出版されます)は出版できなかったということです。さらに、ペーターはリーメンシュナイダーに関する地元新聞記事を度々送ってくれました。
彼らご夫婦の思い出は尽きません。コロナが穏やかになった頃、必ず彼のお墓参りをしたいと妻と話しています。ペーター、今まで色々ありがとう! 合掌。
*妻もブログにいち早く追悼文を認めています。ペーターの写真もあります。
*『ヨーロッパ2人旅、22日間』残部あります。ご連絡いただける方には差し上げます。
https://blog.goo.ne.jp/riemenschneider_nachfolgerin/e/b6954d42cbd07464ff856a191676b124
◆恐怖の懲罰人事
鎌田 慧(ルポライター)
今回も日本学術会議大弾圧事件について。
6人の新会員候補者が菅首相から拒絶され、政府の学問の自由への
抑圧として、世論の批判が激しくなった。菅首相は9日のインタビュー
で「99人分の名簿しか見ていない」と弁明した。
つまり、6人を除外する前の105人の元の名簿は見ていない。
だから、誰がパージされたか、それについては知らない、自分の責任
ではない、とする弁明だった。
しかし、5日のインタビューで6人が(安全保障関連法等)政府提出
法案に反対だったこととの関連を問われ、「学問の自由とは全く関係
ない。6人についていろんなことがあったが、そういうことは一切関係
ない。総合的、俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点から判断した。
これに尽きる」
語るに落ちる。「6人についていろんなことがあった」と知って
いたのだ。「俯瞰的」と聞いて、安倍前任者の「地球儀を俯瞰する
外交」を思いだして笑ってしまった。地球儀など小さい、小さい。
せめて地球と言ってほしかった。
それはともかく、学術会議会員の任命権者・総理大臣が今回のパージ
を知らなかった。とすれば首相の重大な職権放棄。任命権の侵害。
一体誰が簒奪(さんだつ)したのか。
4年前、菅官房長官時代、3人の侯補者が除外させられ、秘密に
伏されてきた。今ようやく学会の反撃が始まった。
(10月13日東京新聞朝刊29面「本音のコラム」より)