後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔156〕私たち「反逆老人」の〔反原発・反戦争法〕の3日間はこんなふうでした。

2017年09月20日 | 市民運動
  権力に立ち向かい、異議申し立てをするベテランの人々を、親しみを込めて「反逆老人」と名付けたのはルポライターの鎌田慧さんです。9月17日からの3日間、私(たち)はまさに反逆老人でありました。
  9月17日(日)、142回目の清瀬・憲法九条を守る会でした。10名ほどのメンバーと、8月の松代大本営跡の見学などの総括、市議会の対応(一般質問、請願など)の反省、日本や世界の政治状況などについての侃々諤々の討論は四時間に及びました。

  翌9月18日(月)、「ともに生きる未来を!さようなら原発 さようなら戦争全国集会」に清瀬の仲間数人で参加しました。
  昨年のこの集会は強い雨のなか開かれましたが、デモが中止になるという厳しい天候でした。(このブログを辿ってみてください。)今年は心配された台風も遠くに去り、かえって日陰が恋しい集会日和になりました。今年は12:30からのプレイベントからの参加で、ほぼ最前列に陣取りました。
  どんな集会だったのか、主催者のチラシに当日の様子を付け加えて紹介しましょう。

■「ともに生きる未来を!さようなら原発 さようなら戦争全国集会」(チラシから)
 安倍政権の暴走が止まりません。秘密保護法、戦争法、共謀罪の新設に続き、憲法9条の改悪を打ち出しています。私たちを戦争の泥沼に引きずり込もうとする動きで、決して許すことはできません。さらに沖縄の辺野古新基地建設、原発再稼働や核燃料サイクルの推進、福島原発事故被災者の切り捨てなど、民意を無視し、人権をないがしろにする暴走政権に「NO!」の声をあげましょう。
 2011年3月の福島原発事故から6年を迎えたいまも、8万人近い人々が苦しい避難生活を余儀なくされ、補償の打ち切り、帰還の強制など、被災者の切り捨てともいえる「棄民化」が押し進められています。一方で廃炉作業は困難を極め、廃炉費用も約21.5兆円にも膨れ上がり、原発事故の重いツケが残されています。
 原発廃炉と核燃料サイクルの中止、憲法改悪を許さず、戦争への道を拒否することを強く訴えます。

・と き:2017年9月18日(月、祝)
・ところ:代々木公園B地区
11:00 出店ブース開店(けやき並木)
12:30 開会、さようなら原発ライブ@野外ステージ
    出演:松崎ナオさん、路上組
    ※ミニステージでは憲法・沖縄・原発のリレートーク
13:30 発言(司会:木内みどりさん)
    開会挨拶:落合恵子さん(作家)
    福島から:佐藤和良さん(福島原発刑事訴訟支援団団長)
自主避難者から:森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
    玄海原発から:徳光清孝さん(原水爆禁止佐賀県協議会会長)
    沖縄から:山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)
    うた:パギやん
    沖縄から:山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)
総がかり行動から:福山真劫さん(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会共同代表)
    閉会挨拶:鎌田慧さん(ルポライター)
    クロージングのうた:パギやん、パンタさん
15:00 デモ出発
    渋谷コース:会場→渋谷駅前→明治通り→神宮通公園解散(1.3㎞)
    原宿コース:会場→原宿駅→外苑前駅→明治公園周辺解散(2.3㎞)
・主 催:「さようなら原発」一千万署名 市民の会
・協 力:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
・連絡先:さようなら原発1000万人アクション事務局
   東京都千代田区神田駿河台3-2-11 連合会1F 原水禁気付
   TEL:03-5289-8224、Email:sayonara.nukes@gmail.com
   http://sayonara-nukes.org/(「さようなら原発」で検索)

※ミニステージでは憲法・沖縄・原発のリレートーク
・松本徳子さん(避難の共同センター代表世話人)
・芝口正武さん(福島県教職員組合双葉支部長)
・古今亭菊千代さん(落語家)
・清水雅彦さん(憲法学・日本体育大学教授)
・山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)
・踊り カーチャーシー
・高田健さん(総がかり行動実行委員会共同代表)


  参加してない人には少し分かりづらいので説明が必要です。12:30からは野外ステージで「さようなら原発ライブ」、ミニステージでは「憲法・沖縄・原発のリレートーク」が同時並行して行われたということです。私たちは野外ステージにどっしりと腰を下ろして微動だにしませんでしたがね。
  長時間でくたくたに疲れたのですが、渋谷コースのデモにも参加しました。昔の学生時代の仲間に再会できることを願ってのことでした。Tさんは現在労働組合の役員として頑張っているはずですが、今年は会えませんでした。
 当日の様子を東京新聞が伝えていますが、9500人参加の大集会を伝えないマスコミが多いのにはびっくりです。

■「戦争法廃止 諦めない」 渋谷で山城議長ら政権批判「権力の私物化」東京新聞2017年9月19日 朝刊
 安全保障関連法成立から2年の節目を翌日に控えた18日、安保法や原発再稼働に反対する「さようなら原発 さようなら戦争全国集会」が、東京都渋谷区の代々木公園で開かれた。会場では安保法に対し「戦争する国になる」「憲法違反」など懸念の声が上がる一方、安倍晋三首相が衆院解散・総選挙の方針を固めたことに対しても「疑惑からの追及逃れ」など批判の声が相次いだ。集会後にはデモ行進もあり参加者の声が街中に響いた。 (飯田克志、増井のぞみ)
 市民ら九千五百人(主催者発表)が参加。主催した市民団体「『さようなら原発』一千万署名市民の会」の呼び掛け人の作家、落合恵子さんはあいさつで、学校法人加計(かけ)学園の獣医学部新設や、学校法人森友学園の国有地払い下げを巡る疑惑を念頭に、「安倍政権は私たちが(疑惑を)忘れ、支持率がアップしたので選挙に勝てると思っている。これほどやりたい放題の内閣はあったでしょうか」と声を張り上げた。
 市民や市民団体でつくる「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の福山真劫(しんごう)共同代表は「安保法は違憲。みんなで戦争法廃止を勝ち取ろう」と呼び掛けた。その上で、「衆院解散は権力の私物化、貧困と格差の拡大を隠すための保身、党利党略で許せない。だが、安倍政権の政策を転換させるチャンス」と訴えた。
 米軍新基地建設の抗議活動で長期拘束された沖縄平和運動センターの山城博治(ひろじ)議長は「安倍政権は北朝鮮の脅威をあおって憲法を変え、この国を変えようとしている」と指摘した。


 そして9月19日(火)、国会議事堂正門前での、「戦争法強行採決から2年、戦争法・共謀罪の廃止と安倍内閣退陣を求める大集会」に、やはり仲間数人で参加です。桜田門駅からすぐの交差点で、清瀬のS夫妻がチラシを配っていました。メインステージは国会に向かっていつもの右側ではなく、左側でした。混み混みのステージ前に何とか潜り込みましたが、残念ながらマイクを持つ人の顔は見ることができませんでした。嬉しかったのは、演劇教育の仲間で、現在は教職員組合の専従で頑張っているTさんと会えたことでした。

■戦争法強行採決から2年、戦争法・共謀罪の廃止と安倍内閣退陣を求める大集会
・9月19日(火)18時半~(18:10~プレコンサート)
・場所:国会議事堂正門前(ステージは正門に向かって左側)
・主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
   安倍9条改憲NO!全国市民アクション実行委員会
・連帯挨拶:学者の会、ママの会、違憲訴訟の会、旧SEALDs、などなど

  この時の状況を神奈川新聞は次のように伝えています。

■国会前に「今すぐ廃止」の声 安保法2年 9/19(火) 神奈川新聞
【時代の正体取材班=田崎 基】「安全保障関連法制」が強行採決されてから2年となる19日、国会正門前では市民団体が「戦争法・共謀罪の廃止と安倍内閣退陣を求める大集会」と銘打って大規模な抗議行動を行った。市民団体のメンバーのほか野党幹部も駆け付け、集会には1万500人(主催者発表)が詰め掛けた。「安倍政権は退陣!」「戦争法は今すぐ廃止!」。掲げられたプラカードとともに声が響いた。
 教育学者で学習院大教授の佐藤学さんは「安倍政権は全てを私物化していく。そして臨時国会の冒頭で解散すると言い出している」と批判。「安保法制が成立して日本のリスクは減ったのか。安倍政権と集団的自衛権がリスクを高めているではないか」と訴えた。
 安保法制は2年前の2015年9月19日未明、野党議員らが猛反発し、国会周辺でも数千人が抗議する中、強行採決された。その後、南スーダンに派遣された陸上自衛隊の部隊に付与した「駆け付け警護」や、海上自衛隊が米軍の艦船を守る「米艦防護」の任務などで運用が始まっている。
 集会の主催団体「戦争させない・9条壊すな!総がかり実行委」は毎月19日に国会正門前で抗議集会を重ねてきた。この日はあらためて、現状のままでは米国の戦争に巻き込まれるのではないかという懸念が示され、安倍政権の早期退陣を求めた。
 マイクを握った「安保法制に反対するママの会」の澤口香織さんは10月にも衆院選が行われる見通しを踏まえ、「野党と市民の共闘しかない。私たちは1人ではない。後悔しないために共に闘いましょう」と呼び掛けた。横浜市から訪れていた女子大学生(19)は「米国の言いなりになって安保法を作り、このまま戦争になったら大変なことだ。廃止に向けて声を上げなければいけない」と思いを新たにしていた。


  いまやマスコミの関心は、はたして野党共闘が成立するかということですが、この集会に参加した人たちの思いは違っていました。私たちは市民と野党の共闘を目指しているのです。野党共闘などと小さなことを言っているのではないのです。市民が頼りない野党の尻を叩いて頑張らせるのです。参加者の思いはこの一点に集約されていました。
 この日鎌倉のTさんも来ていたということですが、残念ながら再会は果たせませんでした。
 神奈川新聞では教育学者の佐藤学さんに触れていますが、研究室を抜け出し、街頭に出てアジ演説をぶつ彼の姿に感動しています。現在私は彼の『教育方法学』(岩波書店)に目を通しているところです。
 市民と野党の共闘に力を注ぐもう1人の学者といえば山口二郎さんです。


 ◆歴史のない国 山口二郎(法政大教授)

 原子力規制委員会が東京電力の柏崎刈羽原発の再稼働に向けて、運転適格の判
断を下すという方針を決めたという新聞記事を読んで、愕然(がくぜん)とする
とともに、なんと破廉恥なという怒りがこみあげた。福島第一原発の事故の本当
の検証は放棄された。
 例えば、『世界』10月号掲載の田辺文也「2号機はなぜ破損したのか」を読め
ば、メルトダウンの過程についてまだ解明されていないことがわかる。
3・11は第二の敗戦とか、転換点とか言われた。それが第二の敗戦たるゆえん
は、第一の敗戦と同じく、敗戦の責任者が免責され、過去を反省することなく誤
った政策を継続している点にある。
 原発事故がもたらしたさまざまな問題に目をつぶり、再稼働を強行する安倍政
権は、戦争の歴史と同様、3・11という歴史的経験を消去しようとしている。歴
史を否定すれば我々は未来を持つことができない。
 無力感に浸っている場合ではない。3・11をなかったことにするのか、3・
11の教訓をかみしめてエネルギーをはじめとする日本の政策の転換を進めるのか
は、政治におけるもっとも重要な対立軸である。
 北朝鮮に対する「この道をさらに進めば明るい未来はない」という安倍首相の
言葉はそのまま彼自身に当てはまる。
 野党が日本の未来を残したいなら、衆院補選において対決構図を明確にして戦
わなければならない。
   (9月17日東京新聞朝刊25面「本音のコラム」より)






〔155〕なぜか「五つの赤い風船」の藤原秀子(フー子)さんの声が聴きたくなったのです。

2017年09月16日 | 語り・演劇・音楽
  団塊世代の私にとっての音楽はビートルズ・フォークソング・グループサウンズといったものでした。とりわけ70年前後のフォークソングは、懐かしのメロディーということになります。私がLP盤を持っていた歌い手としてざっと思い出せるのは、五つの赤い風船・岡林信康・吉田拓郎・井上陽水・小椋佳・中島みゆき・松山千春・長渕剛・さだまさし・赤い鳥などです。特にその中でも五つの赤い風船と岡林信康はお気に入りで繰り返しレコードに針を落としていました。
  2,3年前にプレーヤーを買い換えて、LPを掃除しながら時たま聴いているのが五つの赤い風船(2枚)です。どれもこれも名曲ばかりですが、ここでは第一集だけ紹介しましょう。
 「遠い世界に」は日本の国歌にしても良いと今でも思っています。

●五つの赤い風船(第一集)
1. 遠い世界に
2. 遠い空の彼方に
3. 血まみれの鳩
4. もしもボクの背中に羽根が生えていたら
5. 一つのことば
6. 恋は風に乗って
7. まぼろしのつばさと共に
8. 時計
9. 母の生まれた街
10. まるで洪水のように
11. 青い空の彼方から
12. おとぎ話を聞きたいの


 新結成された五つの赤い風船を時折テレビで放送するのですが、何かサウンドが物足りないのです。ボーカルの青木まり子は確かに歌はうまいと思いますが、かつての五つの赤い風船とは何かが違うのです。70年安保時代の風が感じられないとでもいうのでしょうか。それもそのはず、一貫してグループの中心は西岡たかしですが、他のメンバーは随分代わっているのです。

●五つの赤い風船(いつつのあかいふうせん)は、日本のフォーク黎明期に現れたフォークグループ。1967年結成、1972年解散。1979年二度のライブのためだけに再結成。2000年再結成。数多くのヒットを出し、若者に絶大な人気を得た。 現在も全国でコンサートやイベントで活躍中 なお「五つの赤い風船'75」(1975年結成1976年解散)のメンバーやアルバムもこの項目に記しているが、事実上別グループである。(ウィキペディア)


  五つの赤い風船は西岡たかしの作詞・作曲と西岡と藤原秀子のハーモニーでもっていると考えています。とりわけ哀愁を帯びた独特の節回しの藤原のボイスは欠かせません。でもなぜか、彼女はグループから離れるのです。
  調べてみると、彼女がソロ・アルバムを1枚だけ残していることが分かりました。1971年、解散前年のことでした。どうしてもこれを聴きたいと思い、ネットで探したのですが、うまくヒットしませんでした。そこでアマゾンで購入に及んだというわけです。

■ 藤原秀子「私のブルース」
 CD (2015/7/29) レーベル: グリーンウッド・レコーズ 収録時間: 64 分
 五つの赤い風船の紅一点ヴォーカリスト、藤原秀子がURCに残した唯一のソロ・アルバム。その独自の音楽性は、ファンの間でも根強い支持を受けている。ソロ作ではあえて西岡たかしの手から離れ、元ジャックスの木田高介、赤い風船の東祥高のサウンドに身を任せている。五つの赤い風船とはまたひと味違い、彼女のクールな側面が強調されている。まさに隠れた名盤のひとつ。今回は、71年のフォーク・ジャンボリーの音源(未発表曲を含む)や、風船リサイタルのソロ曲など、7曲の貴重な音源をボーナス・トラックとして収録。

〔 曲目リスト〕
1. いつかはこの世も
2. 去りゆくものは
3. お前なんか
4. 別れ
5. 愛ある世界へ
6. 二人で歩けば
7. 私に電話を下さいネ
8. 一番星見つけた
9. 私のブルース
10. 明日に続く道
11. 私の唄
12. 私の大好きな街 (ボーナス・トラック)
13. 遠い世界に (Live) (ボーナス・トラック)
14. そんな気が (Live) (ボーナス・トラック)
15. 時の流れを (Live) (ボーナス・トラック)
16. 青い鳥 (Live) (ボーナス・トラック)
17. どこかの星に伝えて下さい (Live) (ボーナス・トラック)
18. 一番星見つけた (Live) (ボーナス・トラック)

  「今までの私の唄はわりと沈みがちな唄が多かったと思う。それと同時に私の心も沈んで行くような気がして…。それでこのLPでは、今までなかった明るい面をみなさんに知ってほしくて(また私の心をはらすためにもと思って)私なりに明るい唄をつくりたかったんです。」とCDにコメントを残しているのですが、全編を通して聴いてみると、彼女の短調的な色調は変わらないという印象でした。おそらくそれが何物にも代えがたい彼女の魅力であり個性なのでしょう。
 18曲のなかで、五つの赤い風船第二集にある「一番星見つけた」(藤原秀子作詞・作曲)が秀逸でした。さらに未発表の「青い鳥」(作詞・作曲者不詳)は完成度も高く、心がしびれました。でもこれは西岡が関わっていると音楽素人の私は大胆にも断定してしまうのです。

  武本比登志という方のブログに次のような記述を発見しました。かつては音楽を志し、現在は美術家であるそうです。
 〔フー子ちゃんは「あの頃の関西フォークは左翼思想の人たちのもので、私には戦争がどうのこうのは歌えない。」と言う話をしだした。それが『五つの赤い風船』を抜けた理由と言いたかったのだろう。〕
  さらにブログは次のように続いています。東祥高氏とは元・五つの赤い風船のメンバーで彼女のお連れ合いになります。お子さんが2人いたということですが。
 〔東祥高氏は2012年10月3日に。フー子ちゃん(東秀子)はその1年後、2013年11月29日に亡くなっていた。〕

 藤原秀子さんは大阪の藤原紡績のご令嬢だったということをどこかで読んだ記憶があります。庭にはプールもあったとか。そんな彼女がなぜフォークソングだったのか、そして、多くの人を虜にできたのか、興味は尽きません。
 このあたりの事情については次の本に書いてあるのでしょうか。
 久しぶりに五つの赤い風船を聴いて青春がよみがえりました。

■『五つの赤い風船とフォークの時代』なぎら 健壱、アイノア、269ページ、2012/7
〔「BOOK」データベースより〕
 西岡少年がギターを手にして55年。五つの赤い風船結成から45年。日本のフォーク黎明期から終焉まで、著者自身の持つ膨大な資料と西岡たかしなどへの数回に渡るロングインタビューにより解き明かされる。日本フォーク史の決定版。未発表写真も掲載。

〔154〕「戦前」の今だからこそ、長野・松代大本営地下壕で「戦争」「戦中」を実感すべきだと思うのです。

2017年09月01日 | 旅行記
  清瀬・憲法九条を守る会の数人と、長野方面に夏の1泊2日の小旅行をしました。一昨年の東京多摩の五日市憲法をめぐる旅以来のことでした。
  山梨県の清里の素敵なペンションに宿泊した翌日に一行が向かった先は、長野の無言館と信濃デッサン館でした。メンバーのなかにはすでに訪れた人も多く、私たち夫婦も二回目の訪問でした。
  数年前に訪れたときより、無言館の分館も信濃デッサン館も整備されて実にきれいになっていました。戦争とは何かを、静かに考える美術館として訪れることをお勧めします。

■無言館(ウィキペディア)
 第二次世界大戦で没した画学生の慰霊を掲げて作られた美術館で、美術館「信濃デッサン館」の分館として1997年に開館した。館主は窪島誠一郎。自らも出征経験を持つ画家の野見山暁治とともに全国を回って、戦没画学生の遺族を訪問して遺作を蒐集した。
■信濃デッサン館(ウィキペディア)
 1979年(昭和54年)に窪島誠一郎によって設立された。村山槐多、関根正二、野田英夫、戸張孤雁、靉光、松本俊介ら若くして亡くなった夭折の画家たちの作品が展示されている。村山槐多の代表作尿する裸僧(1915年)などが展示されている。2012年2月「信濃デッサン館」内に立原道造記念展示室を新設。


  さて今回の旅の最大の目的は松代大本営地下壕の見学でした。こちらにもすでに訪れた人はいましたが、我ら夫婦は初めてでした。
  とりあえず、松代大本営の概略を知っていただきましょう。

■松代象山地下壕について(長野市HPより)
 松代大本営地下壕は、舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。
 ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
 第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約8割が完成しました。
 この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
 なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります。
 松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。
・入壕料は無料となっており、午前9時から午後4時までの間、見学可能です。(午後3時半までに入壕していただくようお願いします。)予約の連絡は不要です。
・休業日について…毎月第3火曜日及び年末年始(12月29日から1月3日まで)


  今回は事前に、NPO法人 松代大本営平和祈念館にガイドさんをお願いしました。北原高子さんです。ネット検索で知ったのですが、元高校教師をしていた方で、会の事務局長で、話は実にお上手でした。
 象山地下壕では約一時間半にわたって分厚いパネルを持ちながら、松代大本営建設の目的、なぜ松代が選ばれたのか、どんな計画だったのか、などについての実証的な説得力ある話をしてくれました。さらに、労働者の様子について克明に語ってくれました。
 9ヶ月の間に約10キロに及ぶ壕を7000人の朝鮮人を中心に掘り進め、日本人を含めると約1万人が働いたといわれているようです。そして、8割方完成して敗戦を迎えたということでした。
 公開されているのは約500メートルの壕です。湿気があって長時間いると滅入ってきそうな地下空間(実際に気分が悪くなったのですが)にあって、危険をかえりみず工事にかり出された労働者を思うと、何ともいえない感慨が胸に去来しました。
  松代大本営についてのガイドブックを購入しました。入門書としては恰好のものです。

●『フィールドワーク松代大本営』松代大本営の保存をすすめる会編、平和文化
・内容(アマゾンより)
 本書は、松代大本営をフィールドワークする中・高校生、そして大学生や市民のみなさんのガイドブックとして編集しました。松代大本営のガイドはもちろん、長野県、特に松代の歴史・自然・風土、さらに周辺の史跡についても解説しました。
・アジア太平洋戦争期の国内戦争遺跡の中でも超一級の史跡といわれている長野県松代大本営地下壕群をフィールドワークするためのガイドブック。大本営のガイドはもちろん、松代の歴史・自然・風土なども解説。


  さらに北原さんは、天皇御座所予定地だった舞鶴山を車で案内してくれました。平屋3棟が外から見ることができました。住居は天皇・皇后・宮内省の順に低くなっていっていました。屋根は1メートル、壁は40センチのコンクリートで覆われているそうです。
  そして、朝鮮人労働者、崔小岩(チョ・ソアム)さんのことを語ってくれました。ほとんどただひとりの貴重な彼の証言は『松代大本営と崔小岩』(松代大本営の保存をすすめる会編、平和文化)にまとめられています。早速アマゾンで手に入れました。

●『松代大本営と崔小岩』(松代大本営の保存をすすめる会編、平和文化、1991年)
 去る1991年3月17日、崔小岩さんが急逝された。崔さんは、15年戦争のさなか、16歳で朝鮮から日本に渡った。全国各地の土木工事にたずさわったのち1944年、松代大本営工事の作業員となった人である。崔さんは、天皇制の延命を図った大工事、朝鮮人強制労働によって遂行された大工事、それをつぶさに見、戦後、松代町に住んで語り続ける唯一の証人であった。(「刊行にあたって」から)


  最後に、崔小岩さんのお墓を案内してくれました。そこは、天皇御座所予定地のすぐ近くの清水寺(せいすいじ)でした。
 なんということでしょう、このお寺は私が訪問を待ち焦がれていたところでした。お寺に何回か連絡を取ったのですがかなわなかったところです。実は長野県でも1,2を競う仏像の宝庫だったのです。
 このお寺の一角に崔さんのお墓があり、さらに、大本営造営で犠牲になった人々を弔う平和観音があるのです。
  平和観音や墓石に手を合わせ、ここで北原さんや仲間と別れることになりました。

  実はこの日、小布施のホテルに泊まり、翌日は北斎館・高井鴻山記念館・岩松院巡りでした。その前に、若穂保科の清水寺(こちらも、せいすいじ)を訪ねることができました。やはり仏像の宝庫で、仏像ファン必見の中央仏が揃っているのです。長野県で重要文化財の仏象を一番多く保有している牛伏寺(ごふくじ)は残念ながら拝観できませんでしたが、次回を期しています。
 つでながら、上田市には古刹が目白押しです。前山寺・北向観音・常楽寺・安楽寺(国宝の八角三重塔)など、見所いっぱいです。


●高井鴻山記念館(信州小布施観光情報)
・小布施町大字小布施805-1
・開館時間 9:00~17:00(7、8月は~18:00) 元旦 10:00~15:00
・休館日 12月31日
・入館料 大人300円、高校生150円、中学生以下無料
・電話 026-247-4049
*豪商でありながら画家、書家、思想家、文人として江戸末期一級の文化人であった高井鴻山に関する資料が集積・展示されています。おびただしい数の作品もさることながら、当時の面影を色濃く残す建物群が訪れる人の心を揺さぶります。北斎の面影と彼を慕った鴻山の想いが感じられ、それはガイドブックや書籍では絶対に伝えることのできない“当時を生きた人の残り香”と言えるでしょう。

●北斎館
・長野県上高井郡小布施町小布施大字小布施485
・026?247?5206 12/31休館 入館料1,000円
・9:00-17:00(11/4-4/30)9:00-18:00(5/1-8/31)9:00-17:30(9/1-11/3)
*葛飾北斎の作品はもちろん、さまざまな角度から日本絵画を紹介する企画展を常時開催しています。
 北斎の作品は、70年間の画家活動で、約3万点にも及び、版画や浮世絵、肉筆画など作風もさまざま。また生涯で30回におよぶ改名があり、春朗(しゅんろう)・宗理(そうり)・北斎(ほくさい)・戴斗(たいと)・為一(いいつ)・画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)などが代表的です。後期には書名に雅号と一緒に年齢が書き込まれていますので、雅号と作風と年齢を気に留めながら鑑賞すると、さらに楽しみが広がります。
 北斎館第4展示室には、北斎が小布施に滞在中に描いた祭屋台の天井画が収蔵展示されています。

●岩松院
・長野県上高井郡小布施町雁田615  026-247-5504 法要、行事により休みあり
・9:00-17:00(4月-10月)
・9:00-16:30(11月)
・9:30-16:00(12月-3月)
*小布施で540年以上の歴史を今に紡ぐ「岩松院」は、戦国武将の福島正則や俳人の小林一茶とも深いご縁のある古寺です。そしてなにより有名なのは葛飾北斎が描いた本堂の大間天井図「八方睨み鳳凰図」です。本堂の中では、どの位置から見ても鳳凰の目がこちらをにらんでいるように見えることから「八方睨み鳳凰図」と呼ばれています。

●すみだ北斎美術館(HPより)→こちらもついでに掲載しておきます。まだ行ってないのです。
 世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、宝暦10年(1760年)に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、優れた作品を数多く残しました。
 この美術館では、北斎及び門人の作品を紹介するほか、北斎と「すみだ」との関わりなどについて皆様にわかりやすく伝えていくため、展覧会をはじめ様々な普及事業を行います。そして、これらの事業活動を通じて国内外に向けて情報を発信し、北斎と「すみだ」の魅力をより一層高めていきます。