後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔239〕 福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」絶賛開催中。東京新聞、日経新聞、赤旗、朝日新聞に紹介されました!

2019年11月26日 | 美術鑑賞
 少し前のブログで福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」を取り上げましたが、現在展示がスタートしたばかりです。
 初日の11月23日(土)は、永田浩三さんと緑とのギャラリートークもあり、多くの来場者(まさに40人満席)で賑わいました。しかし、永田さんがこれほど美術に造詣が深いとは、新鮮な驚きでした。そういえば彼は、著書『ベン・シャーンを追いかけて』(大月書店)、『ヒロシマを伝える-詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち』(WAVE出版)などをお持ちでした。多くの的確な画像写真が説得力を持って迫ってきました。緑は好きなリーメンシュナイダーの話をたっぷり聞いていただける幸せに酔っているようでした。


  あらためて緑の挨拶文を読んでもらいます。


●リーメンシュナイダーの追いかけ人として
                        福田緑

 ティルマン・リーメンシュナイダーは、中世ドイツの彫刻家です。1460年頃、ドイツ中部のハイリゲンシュタットで生まれ、1483年にはヴュルツブルクの職人となっていました。1485年にヴュルツブルクのフランツィスカーナ通りに工房を構え、多くの木彫祭壇や聖人像を作りました。市の参事官や市長まで務めましたが、1525年にヴュルツブルクが戦場となった農民戦争で、農民の側に立ったためにマリエンベルク要塞に投獄され、その後の作品は見られません。土地も財産も奪われて1531年に亡くなってから、リーメンシュナイダーの名前は次第に忘れられていきました。
 1832年、クレークリンゲンのヘルゴット教会で、市参事会員ミヒャエル・ドレーアーが教会の廊下にあった大きな箱の中に何が入っているのかと開けてみたところ、輝くばかりのマリア祭壇が現れました。その後の調査で、今まで作者のわからなかった一連の作品群がリーメンシュナイダーの手によるものであることがわかりました。今やドイツで最も人気のある彫刻家と言われるリーメンシュナイダーは、ゴシック最後の彫刻家というよりも、ドイツ・ルネサンスの先駆けとして再評価されています。
 私は、リーメンシュナイダー彫刻からあふれ出る静謐さ、深い哀しみ、そして敬虔な祈りの表現に魅せられ、今も彼の作品を追いかけているのです。
 本写真展では、16回にわたる取材旅行で撮影してきた写真の中からリーメンシュナイダーだけでなく、他の同時代の彫刻家の作品もご紹介しています。一人でも多くの方がこうした作品を訪ねて歩いてくださるとしたら、「リーメンシュナイダーの追いかけ人」の私にとって何よりの喜びです。

*展覧会 2019年11月23日(土)~12月7日(土)11:00~19:00(最終日16:00まで)
*会場 ギャラリー古藤(ふるとう) 東京都練馬区栄町9-16(武蔵大学正門斜め前)
                ℡ 03-3948-5328

■ギャラリートーク  参加費1000円 予約優先
11月23日(土)17:00~18:30 永田浩三(武蔵大学教授)+福田緑
11月30日(土)18:30~19:30 棚田康司(彫刻家)+福田緑
12月6日(金) 18:30~19:30 福田三津夫(白梅学園大学非常勤講師)+福田緑


 さて、多くの方のご紹介もあって、このイベントが多数のマスコミに取り上げられています。まずは東京新聞から紹介させていただきます。日経新聞と赤旗、朝日新聞にも関連記事が掲載されました。後ほど紹介します。ありがたいことです。

■中世ドイツの彫刻家 ティルマン・リーメンシュナイダー 作品研究、練馬で撮影写真展
(2019/11/22 08:10東京新聞)松尾博史

 中世ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの愛好家で、その作品の研究や撮影を続ける福田緑さん(69)=清瀬市=の写真展が、23日から練馬区栄町の「ギャラリー古藤」で開かれる。教会に差し込む夕日が照らす聖母マリアなど約40点を展示する。 
 リーメンシュナイダーは一四六〇年ごろに生まれ、キリスト、聖母マリアらの聖人像や祭壇、宗教彫刻を手掛け、一五三一年に亡くなったとされる。その作品はドイツなどの博物館や美術館、教会に展示されている。
 福田さんは東京学芸大を卒業後、都内の小学校の教員を三十年余り務めた。一九九九年にドイツ旅行した際、本で知っていたリーメンシュナイダーの作品を見て、引き込まれた。キリスト教徒ではないが、「作品からあふれ出る静謐(せいひつ)さや敬虔(けいけん)な祈りの表現に魅了された」と振り返る。
 これまでにドイツを十六回訪れ、各地の作品を見て回った。撮影が認められた場所ではカメラに収め、習得したドイツ語を使って博物館などに掲載許可を取り、写真集三冊を自費出版した。
 写真展は、知人らの勧めで初めて開く。福田さんは「リーメンシュナイダーの作品は細かく丁寧に彫られ、見る角度によって顔の表情の雰囲気が異なる。彼の作品を多くの人に知ってほしい」と話す。

 十二月七日まで。無料。無休。問い合わせは、ギャラリー古藤=電03(3948)5328=へ。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201911/CK2019112202000123.html

〔238〕講演会「元特攻兵 岩井兄弟からの最後の証言」はまさに「戦争の不条理」が語られました。

2019年11月11日 | 講座・ワークショップ
 朝日新聞に下掲の記事が掲載されたとき、これは絶対行かなくてはならないと思いました。少し前にベストセラー『不死身の特攻兵』(鴻上尚史、講談社現代新書)を読んだばかりで特攻について興味を持ったからです。(『不死身の特攻兵』についてはブログの最後に紹介します。)


■元特攻隊員の兄弟 戦争の不条理を語る 早大で9日
「生きたかったが、言えない空気あった」(朝日新聞、2019年11月6日)

 太平洋戦争中に特攻隊員となった兄弟が9日、新宿区で講演し、体験を語る。ともに90代後半。戦争の不条理さや命の尊さなどを訴える。
 兄弟は、岩井忠正さん(99)と忠熊さん(97)。
 忠正さんは1943年、慶応大文学部2年生だったときに神富外苑で行われた学徒出陣壮行会に参加し、海軍に入,た。人間魚雪「回天」や、竹ざおの先に付けた機雷で海底から米軍の艦艇の底を突く人間機雷「伏龍」の訓練を受けた。だが、肺結核にかかったと疑われるなど、実戦に出ることなく終戦を迎えた。
 忠熊さんは、京都帝国大文学部1年生だつた43年に海軍に入った。航海学校で航海術を学び、木製の小型ボートに爆弾を載せて敵艦に突っ込む「震洋」の要員となった。訓練をしているうちに終戦。戦後は、日本近代史の研究者となり、立命館大学副学長も務めた。
 2人は90年代からそれぞれに体験を語ってきた。2002年には著書「特攻 自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言」を出版。講演会を主催する「不戦兵士・市民の会」によると、2人が講演で一緒に話すのは今回が初めてという。
 忠正さんは「特攻隊員がみんな喜んで天皇のため、お国のために命を捧げようと思っていたわけではない。本当は生きたかったが、それを言ってはいけない空気があった」と話す。「沈黙は中立ではない。自分と同じ過ちをしないでほしい」
 会の事務局長の森脇靖彦さん(75)は「2人で一緒に話すのは最初で最後になるかもしれない。貴重な経験を持つ2人の話が聞けるまたとない機会だ」と話している。
 講演会「元特攻兵 岩井兄弟からの最後の証言」は9日午後1時半から早稲田大9号館5階第1会議室で。資料代1千円(学生無料)。問い合わせは不戦兵士・市民の会(0438・40・5941)へ。
                                      (黒田壮吉)

 久しぶりの早稲田大学でした。かつてブログにも書きましたが、湯山厚さんのお話が聞けるということで数年前に訪ねて以来でした。余裕を持って家を出たのですが、早稲田大学の9号館を探し当てるのに迷ってしまいました。それでも開会15分前に会場に着いたのですが、すでに二教室分が満席で、わずかに残った後方の席になんとか座ることができました。おそらく400人以上は来ていたでしょう。やはり我々世代が多かったようですが、もう少し若い研究者とみられる人たちも前の方に陣取っていたようでした。わずかですが、学生たち若い世代も混じってはいました。
 岩井ご兄弟は耳が遠くなったとはいえ頭脳は明晰でした。忠正氏の娘さんの「通訳」で貴重な証言を数多く聞くことができました。


●2019年11月9日不戦大学【岩井兄弟】関係の配布資料 191109配布
「元特攻兵(回天・伏龍・震洋)岩井兄弟(99歳・97歳)からの最後の証言」
1.講師紹介

 1.1 岩井忠正氏
 1920年熊本市生まれ 現在99歳 父勘六氏は陸士四期、陸軍少将(山形出身)慶應義塾大学在守中に学徒出陣で、1943年12月横須賀の武山海兵団に入団。
 1944年、第四期兵科予備学生(3270人 元参議院議員・田英夫、『戦艦大和の最期』の著者・吉田満、作家の庄野潤三らが同期)となり、同期生400人と共に機雷学校(久里浜 在学中に対潜学校に改称)入学、同年秋、特殊兵器搭乗員募集(形は自由意志だがほぼ強制)に応じ、「特殊兵器要員」(40人)に採用される。長崎の川棚の「臨時魚雷艇研究所」で弟・忠熊氏と会う。「対潜学校」「航海学校」出身の80人が「回天隊」に配属され、11月下旬そのうち30人が山口県光基地の「八期士官講習員」となる(同期に和田稔、武田五郎などがいた)。1945年4月、天一号作戦で沖縄に出撃する戦艦「大和」を目撃する。呉の潜水艦基地、次いで横須賀の対潜学校へ転勤、「伏龍」部隊に配属される。訓練中の事故で入院、7月、瀬戸内海の情島に移動、8月6日、広島の原爆投下の閃光と大爆音に遭遇。
 復員後、商社員をへて翻訳業 著書『特攻 自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言』(忠熊氏と共著
新日本出版社)

 1.2岩井忠熊氏
 1922年熊本市生まれ 現在97歳 忠正氏の弟(六男) 大連二中から姫路高校に進学。京都帝国大学在学中に学徒出陣で、1943年12月、兄忠正氏と同じく武山海兵団に入団。
 1944年第四期兵科予備学生となり、7月、航海学校(横須賀)に入学、そこから空母『信濃』の甲板を走る自転車が見えた。休日外出の際は鎌倉の知人宅で忠正氏と落ち合った。10月特攻配置となり、長崎・川棚の「臨時魚雷艇研究所」で忠正氏と会う。移動の急行列車で和田稔と同席になる。12月海軍少尉任官。第三九震洋隊の艇隊長となり1945年3月22日、海軍徴用船「道了丸」で石垣島に向かう。途中、アメリカ海軍の潜水艦「スペードフィッシュ号」の攻撃で轟沈、約3時間漂流する。同隊は187人中143人が戦死、他に乗組員・警戒隊員などを合わせると260人が戦死。救助後、佐世保に帰港、魚雷艇訓練所改め川棚突撃隊教官となる。6月、第106震洋隊艇隊長となり、熊本県天草諸島の茂串基地に着任、8月9日昼食時に大爆発音を聞き、キノコ雲を見る。火山の爆発という報告だったが、数日後特殊爆弾で長崎が壊滅したことを知る。
 終戦後京都に帰る途中、壊滅した広島を見る。復員後、京都大学文学部卒業(日本近代史専攻)、立命館大学教授・文学部長・副学長を歴任 著書『近代天皇制のイデォロギー』『陸軍・秘密情報機関の男』『「靖国」と日本の戦争』(新日本出版社)『天皇制と歴史学』『学徒出陣』『大陸侵略は避け難い道だったのか』(かもがわ出版)『明治国家主義思想史研究』(青木書店)『西園寺公望』(岩波新書)他多数。


 岩井兄弟の対談ではなく、女性研究者の司会による交互インタビューという形で進行していきました。2人の話は共通するところも多く、大逆事件で大杉栄、伊藤野枝など3人を虐殺したとされる甘粕正彦に大連の自宅で会っていること、南京虐殺を目撃している軍人が母親に話していたことを聞いたという生々しい話も飛び出しました。
 特攻は志願ではないこと、死ぬことから逃れられないこと、逃げるのは卑怯ではあるが死ぬつもりはなかったこと、など語られていきました。残念ながら話されたことすべてを正確に再現することはできません。カメラが回っていたのでどこかで映像を見られるのではないでしょうか。
 太平洋戦争は侵略戦争であり、戦争責任は天皇・軍人に当然あるということ、「歴史」を忘れたときに戦争が始まる、歴史は人間が作るので未来は作ることができる…あまりに密度の濃いお話しでした。そのうちに会としての「総括」が発表されると思いますので、注目していきたいと思います。
 
 さて『不死身の特攻兵』についてです。鴻上尚史さんは演出家・作家で1度だけ「演劇と教育」誌でインタビューさせてもらったことがあります。9回突撃して、9回戻ってきたという日本人がいたことに驚かされました。戻ってくる方が死ぬより日本のためになるという確固たる信念を貫き通したのです。


■『不死身の特攻兵』鴻上尚史、講談社現代新書、2017年

       日本軍の真実          永江朗

 12月8日は日米開戦があった日。沖縄をはじめ全国に米軍の基地や施設があり、不平等な日米地位協定や航空管制など、“戦後"はまだ続いている。76年前に無謀な戦争をしなければ、そして、その前に愚劣な中国侵略を始めていなければ、こんなことにはならなかっただろうに。
 戦争の始め方もばかげていたが、終わり方も悲惨だった。面目にこだわった軍部は負けを受け入れようとせず、一般国民はひどい目にあった。
 日本軍の戦術でもっとも愚劣なものが特攻だろう。飛行機だけでなく操縦者の生命も失われる。日本軍が人命を軽視したことを象徴している。
 だが、出撃しても生きて帰ってきた特攻兵がいた。それも9回も。昨年の2月、92歳で亡くなった佐々木友次氏がその人である。鴻上尚史の『不死身の特攻兵』は、佐々木氏や特攻について調べたこと、佐々木氏へのインタビュー、そして、それらからこの劇作家が考えたことの三つの要素からなる。
 なるほどと思ったのは、特攻は兵士の誇りを傷つける作戦だったという話。体当たりせよという命令は、それまで訓練してきた急降下爆撃などの技術を否定するものだ。だから佐々木氏らは、命令に逆らって米軍の戦艦に爆弾を投下して帰還した。
 だが、軍は生還した兵士をねぎらうどころか冷遇する。早く再出撃して、こんどこそ死ねと迫る。体当たりして戦果を上げたと、天皇にも報告してしまったのだから、というのが軍幹部のいいぶんだ。しかも命令した上官は、米軍が迫ると台湾に逃げ出す始末。これが戦争の現実、日本軍の真実だ。(週刊朝日)

〔237〕矢部顕さんの「鶴見俊輔とハンセン病」と小学校での授業、独り占めではもったいないので公開させてもらいました。

2019年11月10日 | メール・便り・ミニコミ
 このブログにたびたび登場していただいている岡山の矢部顕さんからメールが届きました。下掲するメールに画像が3枚添付されていました。私だけ読んでいるのではもったいない内容なので許可を得て掲載させていただきました。少し字が小さくて読みづらいのが残念ですが。

●福田三津夫様
 最近、こんなことがありました。群馬県高崎市の社会福祉法人「新生会」というところから、岡山のわたくしに「新生会広報」紙への原稿依頼がきました。
 なんで群馬県から? その社会福祉法人の理事長の原慶子氏という方は熱烈な鶴見俊輔さんのフアンで、学生時代に薫陶をうけ、今も日々著作から刺激を受けているという方のようです。
 鶴見さんの本を読んでいると、たびたび「交流(むすび)の家」に関する文章を目にする。そして、どこかにわたくしの名前も見つけたということで、会ったこともない矢部という人に「鶴見俊輔とハンセン病と交流(むすび)の家」をテーマに原稿を書いてほしい、とのこと。理事長からの要請を受けて、その社会福祉法人の広報紙の編集長からわたくしあてに原稿依頼がきたという次第でした。
  お会いしたことは無いのですが、どうも、彼女とわたくしは同時代に同じ大学の同じ学部にいたようで、専攻が異なっていたので、彼女は鶴見ゼミではなかったようです。が、何かの縁で鶴見さと親しくしていたとのことでした。
まぁ、こんな経緯があって原稿を書きました。見本として過去の広報紙のバックナンバーが送られてきて驚きました。16頁の広報紙なのですが、、4頁~16頁は法人内のたくさんの施設のニュースなのですが、なんと1頁~3頁は施設に直接には関係の無いであろう硬派の論調で、その社会福祉法人の志の高さがうかがえるものでした。 その広報紙は3700部印刷しているときいて驚きました。たくさんの施設をもっている大きな法人のようです。
 今回の10月20日発行の42巻秋号の1頁~3頁を添付します。2頁が理事長の頁のようで、今回鶴見さんにふれて書かれています。3頁は論壇という名前の頁になっていて、小生の文章が載っています。論壇風ではなくエッセイ風の文章です。
 またまた、この歳になっても不思議なご縁があるものです。
                               矢部 顕







 しばらくして矢部さんからの第2信が届きました。こちらも貴重な小学校の実践です。こんなおじさんが近くに住んでいたらこどもたちはどんなに喜ぶでしょうか。授業の様子を紹介した記事と、指導内容を掲載させていただきます。


●福田三津夫様〔第2信〕
 10月のはじめは高校生でしたが、今度は小学生に話をしました。先週、小学校6年生に「倹約令の立て札」の話(日本史江戸時代末期)と、綿花から糸を紡ぐ実際を、昨年と同じくやりました。今年は、新聞もテレビも取材が無かったので(これがあたりまえ?)、昨年のものを送ります。昨年お送りしたか、どうか?
2018年10月02日RSKイブニングニュース.mpg
 江戸時代末期の「倹約令の立て札」が近所の旧家で発見(2013年)され、それを見せながら小学校(6年生)の歴史の授業をやりました。上記の青字をクリックして見てください。TVニュースを見ることが出来ます。
 この倹約令の立て札の最初の文はこうです。―当村(沼村)は昨年と今年の水害で百姓はたいへんに困窮している。(中略) そこで左記のように倹約を申し付ける。―(以下、条文)
 立て札に書かれている条文のひとつに「綿の商人以外は村に入ることを禁じる」というのがあって、沼村は商品作物の綿を栽培していたことがわかります。(沼村は、わたくしの住まいしているところで、今は岡山市東区沼という住所です)。
江戸時代の綿栽培については、何十年かぶりに『カムイ伝』(白土三平)を読み返し勉強しました。学生時代に読んで凄いと思いましたが、いま読みかえしても凄い漫画(?)です。
 倹約令が江戸時代末期に何度もだされたことは、ペリー来航と関係があることがわかりました。ペリー来航のようなことが、今後たびたび起こることを予想して幕府は各藩に対して三浦半島や房総半島の沿岸警備を命じたのです。各藩は兵隊を派兵するために出費を強いられますので、年貢の取り立てが滞ることを恐れたようです。それで倹約令の頻繁な発令となったようです。また、「なぜペリーは日本に来たのか?」 そのころ日本近海には200隻以上のアメリカの捕鯨船が操業していたが、目の前に見える日本列島の港に入港すれば水や食料が手に入るのに鎖国政策でそれが出来ない。アメリカの捕鯨業の利益のために、つまり当時のビッグビジネスのためにアメリカ政府がおこなった脅かしだった。まぁ、そういうことをわたくしは小学校の日本史で語ったのですが、中学や高校レベルの話だったでしょうか??
 次の時間には、実際の糸紡ぎ体験です。綿から糸を紡ぎ、機織りで糸から布をつくり、布から衣服をつくる、という、江戸時代から昭和15年くらいまで行われていた村の暮らしの一部の「糸紡ぎ」を経験させました。各自にあらかじめ材料を渡しておいて自作した紡錘車(スピンドル)で糸紡ぎに挑戦しました。
 綿を栽培したのは、綿から何を作るためなのか? 綿飴をつくるためだと思う人?と問うたら、ひとり手があがりました。冗談が通じる子だったのか、どうだか・・・・
 今年、はじめて畑に綿の種を蒔いてみました。いま1.5mくらいに成長し、花が咲き、実がなり、その実がはじけて、白い綿が出てきました。綿があらわれたときはなかなか感動的でした。綿の木を小学校の校舎横の花壇に移植して、綿が出来る様子を子どもたちが見ることが出来るようにしました。
                          矢部 顕



●浮田小学校6年                                  2019.10.31.
「倹約令の立て札」からみえてくること
             講師・中西 厚/矢部 顕
はじめに
1. いつごろの立て札か
巳年の記述と内容から→安政4年(1857年)    <明治元年1868年>
1855年 安政2年 岡山藩倹約令御触書をだす
2. 内容
       沼村
  当村は水害が多く、百姓どもが困窮している。
  昨年・今年は特に~が水害ですべて無くなってしまった。
  このたび厳しく左の通り倹約を申し渡す。
一、木綿の布や毛綿以外の商人は立ち入らせてはいけない。
一、親しいかどうかに限らず、諸々の付き合い(贈り物など)はやめること。
一、御師による神社のお札の配布、浪人や物もらいなどは堅く断ること。
右の事を厳重に守るように。
        巳年八月  村役人
3. 沼の地形―水害って何?  (昨年7月、砂川堤防決壊による水害)
① 戦国時代  沼城(亀山城)
② 新田開拓 堀田 吉井水門 足踏み水車
③ 砂川の水路変更工事  延宝5年(1677年)から数年かけての大工事
    効果 1678年8月5日の大雨―以前は水がぬけるのに80日、
今年は8日で水がぬけた、という記述『赤磐郡誌』
  ④現在  大型排水ポンプ
        沼の人たちが交代で日夜ポンプを稼働
        稼働しているときは黄色の点滅ランプが見える
4. 稲作と綿花栽培
  稲作はいつからはじまったか          絵本『稲と日本人』(図書室にあります)
  年貢米
  水田の効用  主要食糧、環境保全、ダム効果、水平=土壌が流れない←→ミシシッピー川
布・衣類は何からつくられているか?    木綿、絹、麻、羊毛、化学繊維
木綿の布、毛綿―綿を買う商人は村に入ってもよいとは?
綿花栽培の最盛期―江戸時代
肥料  鶏糞、牛糞、人糞、油粕、干鰯、・・・・・    桶の普及
5. 御師、浪人、物もらい、って何?
  御師(おし)
6. 立て札の効用―沼村は山陽道筋で人の往来も多かったので「現代の『防犯パトロール中』の札のよう
   に、目立つ場所に設置して、押し売りなどよそ者を寄せ付けまいとする抑止効果も狙
ったのでは」と推測(県立記録資料館館長)
7. 江戸時代(1603~1867)とはどういう時代だったのか
① 約260年間、右肩上がりの無い時代
② 戦争のない時代―他国を攻めない、他国から攻められない
③ 日本文化の成熟、庶民レベルでの成熟

〔236〕鎌田慧著『反骨のジャーナリスト』と松田浩著『NHK 新版』に通底するキーワードは「権力監視」です。

2019年11月07日 | 図書案内
  「NHKから国民を守る会」登場よりずっと以前から公共放送とは何かということに関心がありました。とりわけ籾井勝人氏がNHK会長になったとき、この国の公共放送はどうなってしまうのか、大いなる疑問を持ったのです。それ以前にNHKはすでに限りなく体制的だと認識していたのですが、保守というよりますます右翼的な色彩を帯びてきたことに危機感を抱きました。
 そんなとき手にしたのが松田浩著『NHK 新版』でした。

■『NHK 新版』松田浩、岩波新書、2014年
〔ソデ〕
 公共放送の使命とは何か。創立以来最大の「自主・自律」の危機に直面するNHK。権力によるトップ人事支配に「民主主義の危機」と警鐘を鳴らす著者が、構造的要因を解明し、再生への展望を示す。NHK研究歴五〇年の第一人者が、克服すべきすべての課題に鋭くメスを入れる。定評ある前著を全面改訂して問う緊急提言。


 この本は私が知りたいことが実にコンパクトにまとめられていました。私が注目する項目だけあげると次のようになります。

*公共放送の役割は「権力監視」か権力のメディア支配か。
*番犬かパートナー犬か。
*独立規制機関を持たず…
*NHKとBBC
*BBCとフォークランド戦争
*戦前からのNHKの体質
*ETV番組改変事件「問われる戦時性暴力」(安倍晋三副官房長官、永田浩三チーフ・プロジューサー))

 結論から言えば、公共放送の役割は「権力監視」(番犬)であって、けしてパートナー犬であってはならないと主張しています。イギリスの公共放送BBCとNHKを比較検討したり、NHKの歴史をたどる中で「権力監視」機能の脆弱さを論証していきます。
 そんなことを考えていたとき、思い出したのが鎌田慧著『反骨のジャーナリスト』でした。


■『反骨のジャーナリスト』鎌田慧、岩波新書、2002年
〔ソデ〕
独立不羈の言論人・陸羯南、底辺からの告発者・横山源之助、凛然と発言する「新しい女」平塚らいてう、「生涯一記者」を貫いた斎藤茂男…日本の近現代にあって、権力や時代の風調にペンで戦いを挑んだ人々から、十人を取り上げる。時代に迎合せぬ彼らの生き方は、「反骨」を忘れかけた現代のジャーナリズムに鋭く問いをつきつけている。

 鎌田さんは「反骨の精神が希薄なジャーナリストを、ジャーナリストと呼べるのかどうか。」と述べ、「ジャーナリズムは、人間の自由と人権を拡幅する削岩機といえるかもしれない。」と書きます。
 2冊の本を連続して読むことによって見えてくるのはマスコミの今日的課題でした。

〔235〕念願の佐々木博『日本の演劇教育─学校劇からドラマの教育まで』を読む会を開催しました。

2019年11月05日 | 講座・ワークショップ
 佐々木博さんの著書『日本の演劇教育』を読む会を開催したいと思い続けてようやく1年3ヶ月たって実現しました。佐々木さんの体調がすぐれないということで延び延びになっていたのです。
 87歳になるという佐々木さんは杖をついて大塚の事務所まで来られました。夏に大病をしたということで、さすがに難儀そうでしたが、頭脳はいつものように明晰で、少しも衰えていませんでした。3時間ノンストップの話し合いに丁寧にお付き合いいただき、最後にはこれからの御自身の理論的課題についても4点すらすらと述べられました。
 佐々木さんと同世代の平井まどかさんも参加され、熱く劇遊び論を語られました。お二人に圧倒されっぱなしの、幸せで豊穣な時間と空間をいただきました。感謝のみです。
 
 その時のことを求められて文章に起こしました。読んでいただければ幸いです。



■佐々木博『日本の演劇教育─学校劇からドラマの教育まで』を読む会
          福田三津夫(前「演劇と教育」編集代表、白梅学園大学非常勤講師)

 著者の佐々木博さんを囲んで『日本の演劇教育』(晩成書房)出版記念会が開かれたのは2018年7月のことだった。参加者も多く、心ゆくまで本の感想を語り合えない状況だったので、私はあらためて『日本の演劇教育』を読む会の提案をし、その場で賛同を得た。かつて、副島功さん主宰「演劇教育の原点を探る」研究会(十数回、市橋久生コーディネート)、それを引き継いだ全劇研講座「演劇教育の原点を探る」(三回、福田コーディネート)に連なる研究会を思い描いてのことだ。
 しかし佐々木さんの体調が思わしくなく会は延び延びになっていたが、つい先頃日本演劇教育連盟事務所で待望の読む会を開催することができた。(2019年10月26日)出席者は佐々木博、平井まどか、神尾タマ子、市橋久生、畠山保彦各氏と私の6人。
参加者ひとりずつが丁寧に感想を述べ、佐々木さんにはその都度コメントをいただくという会の進め方だった。
3時間休みなしの話し合いの冒頭を飾ったのは畠山さんのレポートだった。この本を演劇教育研究の基礎的文献と押さえた上で、演劇教育の流れ、関わってきた人々の立ち位置や業績、その理念と進むべき方向性についてなどが読み取れたという。
参加者全員が異口同音に「演劇教育の先行文献になり得る素晴らしい本」「膨大な資料にあたって書き上げた労作」と讃えた。にもかかわらず佐々木さんはいたって謙虚で、原稿の至らなさを繰り返し語るのだった。
この本は冨田博之演劇教育論や演教連運動への偉大なるオマージュになっているだけでなく、それらを引き継ぎ、補強している。佐々木さんはメールで出版理由として「演教連の中に私という人間が存在したことの証かもしれない」と書いている。さらに宮原誠一や竹内敏晴(『ことばが劈かれるとき』以前の連盟とのかかわりに言及)の果たした役割などを活写していることも、当時を知らない私にとっては嬉しいことだった。
 そして第4,5章は演劇教育の中心的な課題として竹内敏晴の「語り」とコミュニケーションと対話を取り上げているのは合点がいくし、第6章「学校文化としての演劇教育を」
の提言も検討に値する。
 残された課題は、第3章「『ドラマ教育』の登場」の検討で、ドラマ教育、シアター教育、ドラマ活動、演劇教育、演劇的教育、ドラマの教育、ドラマのある教育などの用語の吟味、定義づけなどが必要になると思われる。 
最後に、佐々木さんがこれから解明すべき自身の課題として4つ述べられた。(竹内敏晴の変遷、小劇場運動と安保闘争、冨田エチュード方式とリアリズム演劇、演劇教育の目指すもの)それをうかがいながら、冨田さんが亡くなられる少し前の新年会で、取り組むべき10の仕事を熱く語られていたのを思い出していた。

〔234〕演劇教育運動の重鎮、市橋久生さんから届いたはがきと詩を紹介をしましょう。

2019年11月04日 | メール・便り・ミニコミ
 日本演劇教育連盟(演教連)の事務局長を長らく務め、今年一般社団法人に移行してからは理事をされている市橋久生さんからはがきとお菓子が送られてきました。10月26日に開かれた佐々木博さんの『日本の演劇教育』を読む会(いずれブログで紹介するつもりです)に参加した折、ようやくミニコミ「啓」100号を手渡しすることができました。その「返信」といえるものです。
 演教連で「啓」をとりわけ丁寧に読んでくれたのは冨田博之さん、石原直也さん、そして市橋さんということになります。
 なお、この絵はがきは素敵な淡いトーンの馬車のある雪景色ですが、写真家は市橋織江さんで久生さんの姪御さんです。

■市橋久生さんからのはがき
 「啓」発行100号達成おめでとうございます。43年にも及ぶお二人の情熱にただただ感服しています。ガリ切りの時代から思うと、歳月の長さ、社会の様相の変化に、いまさらのように感慨をおぼえます。毎号お贈りいただき、本当にありがとうございました。お礼申し上げます。
 これからまたいろいろな活動をされるのでしょうが、当面は展覧会ですね。ご成功、ご盛会をお祈りします。では、次は会場でお目にかかります。おからだにお気をつけて…。


 市橋さんは私と同世代で、元中学校の社会科教師でした。昔から詩作をされていて、早世された友人と私家版の詩集を出されています。詩作は継続されているようで、雑誌に掲載されることもたびたびあるということは、以前ブログで紹介したとおりです。そして、時々演劇教育の仲間に「詩・駄作」と謙遜されてメールで送られてきます。このメールはもったいなくてなかなか削除できません。そこでコメントも含めて2回分の詩を転載させてもらいます。


●2019年9月15日 「詩・駄作⑨」
土曜日、地元の保育園のまつり。
荒馬座が毎年協力して27回目とか、初めて行ってみました。
父親たちの働きぶりが意外なことでした!

日曜日、与野(さいたま市)のギャラリーのイベント。
近隣のいくつかの福祉施設の人たちの手作り物産の販売や作品展示、
協力する人たちのピアノ演奏やダンスなどでにぎわいました。
店主は沖縄出身の女性、沖縄料理の店で、高橋哲哉氏の連続講座や
こんにゃく座萩京子さんのコンサートなど、
興味を惹くさまざまなことを開いています。私も時折のぞいています。

時に自分で自分に活を入れないとボーッとしてしまいそうです。
というわけで、また駄作。どうぞ読み流してください。


   はずむ杖

夕方の商店街、せわしく人が往き来する
ゆるやかに坂をなす通りを
白い杖の女が
口もとに笑みをうかべながらやって来る

夏の初めの風が吹く、ブラウスの袖に
少女が寄り添っている
水色のリボンをゆらめかせながら
買い物かごを下げて

少し前で、男の子がはずんでいる
母親の手をしっかりと握って
顔を突き出すようにして
雑貨屋の店先に、目が吸い寄せられる
足が止まる
白い杖が止まる
水色のリボンの揺らめきが止まる
頬をくっつけるように佇む二人に
ふりかえった男の子の
まっすぐな視線が美しい

声がはずむ
小さな笑い声が
しゃぼんだまのように宙にとぶ

夏の初めの風が吹く
ありふれた風景のなか
しあわせが
はずんでいる


●2019年10月15日「詩・駄作⑩」
みなさんこんにちは。
台風、犠牲者や被災者が大勢出てしまいましたね。
落ち着かない時間を過ごしています。
いろいろ考えてしまいます。


   青年

駅へ向かういつもの朝
申し訳程度の緑がよそおう街
往来を縫って自転車が駆けてくる
褐色の青年がペダルを踏んでいる
ハンドルに伸びた腕
前傾姿勢の背筋を伸ばし
脚が伸びる
車輪がアスファルトをとび跳ねる
ほのかに雨の匂いをはらんだ空気
美学を欠いた大通りを
けさもすれ違う青年
異国の雑然とした街で
前方を見据える目
けさの空は
はるかな母国に広がっているだろうか

時おり見上げては故郷の木陰を想い起こし
頬をよぎる風に家族団欒のひとときが蘇る
すれ違う子どもたちの通学風景に
弟や妹の何気ない癖を思い出しては微笑む
排気ガスや建設音、投げ捨てられた空き缶に
町の匂いを懐かしむ

今日もか、今日はか
どこでどんな一日を過ごすのだろう
働きやすい職場だろうか
誇らしく仕事はしてるだろうか
人々は親しくしてるだろうか
この異文化の国

わが町
青年の目の輝きに出会いたい
美意識は何を誇りにしているのだろう
駅に向かう朝の街路
複雑な気持ちを置き去りにして
褐色の青年が駆けてゆく