矢部顕さんから読み応えのある「Fの遺伝子―ヒロシマの家訪問記」と、神奈川新聞のコピーが送られてきました。同時進行で皆様にもお届けします。
まずは矢部さんのメールからどうぞ。
●福田三津夫様
横浜に住むFIWCの仲間の藤澤さんから神奈川新聞のコピーが送られてきました。
「シュモーがくれたもの(上)」「シュモーがくれたもの(下)」の連載記事ですが、
ていねいな取材と今につづく物語に感動しました。
かつて「シュモーハウス」を小生が訪問したときの文章を、何年も前のことなのに、
藤澤さんが覚えてくれていて、それでコピーを送ってくれたことにも驚きました。
「ヒロシマの家」建設ワークキャンプは、戦後日本での最初のワークキャンプで、
AFSCからFIWCにつづく歴史の原点なのです。
小生の訪問記「Fの遺伝子―ヒロシマの家訪問記」と、神奈川新聞のコピーを添付にて
お送りします。
矢部 顕
■ Fの遺伝子 ――「ヒロシマの家」訪問――
フレンズ国際労働キャンプ(FIWC) 矢 部 顕
「ヒロシマの家 新たな役目」のタイトルの朝日新聞(2012年11月1日)の記事に目がとまった。副題は「米活動家が1949年建設、平和資料館に」。記事は以下のようだった。
――米国の平和運動家フロイド・シュモー氏(1895~2001)が、原爆投下後のヒロシマで被爆者のためにつくった唯一現存する建物(広島市中区)が1日、市の平和記念資料館「シュモー・ハウス」としてオープンする。31日の開館記念式にはシュモー氏の次男や孫2人が米から駆けつけた。
次男のウィルフレッド・P・シュモーさん(85)は「とても光栄です。父は原爆は大変ひどいことだと心を痛め、謝罪だけでなくもっとできることをしたいと思っていた。ささやかな活動だったけれど、歴史の一部として見にきてほしい」と語った。
米で大学講師をしていたシュモー氏は1949年8月、全米から約4千ドルの寄付を集めて広島を訪れ、家を失った被爆者のために「ヒロシマの家」(住宅20戸と集会所1カ所)を建てた。
老朽化のため現存するのは集会所のみ。国道の建設予定地となったが、約40メート離れた場所に3月までに移転し、保存された。広島の戦後復興を支えた外国人についての資料を展示する。――
この記事とともにシュモー氏の顔写真と建物の写真がそえられていた。
●ワークキャンプ―その方法の系譜
この記事が目にとまったのは、わたくしが学生時代に参加した、そして今もかかわっているワークキャンプ団体であるフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)の歴史を書いた年表のなかに「ヒロシマの家」の記憶があったからだ。
第二次大戦後、クエーカーのAFSC(American Friends Service Committee=アメリカン・フレンズ奉仕団)はララ(LARA)(Licensed Agencies for Relief in Asia=アジア救援公認団体、後述)による7年間の救済活動のみならず、国際学生セミナーを開催し、同時にボランティア活動として日本にワークキャンプという方法で復興支援を始めた。最初に開かれたAFSC国際ワークキャンプの日本人参加者に明石康がいた。それとは異なるが、クエーカーは各地でワークキャンプを行っている。その一つがアメリカの学生と日本の学生が参加した戦後日本での最初の国際ワーキャンプであり「ヒロシマの家」建設キャンプであった。広島でのワークキャンプは、その後AFSCに合流して行った。
その後、このワークキャンプというボランティア活動は多くの団体が取り組んだが、伊勢湾台風復旧キャンプでの最大規模のワークキャンプ につながっている。この頃のAFSC学生国際ワークキャンプの参加者や、広島でのワークキャンプ等に参加した日本人参加者等が中心となって、日本人学生を主体としてのワークキャンプ団体を創設する動きのなかからフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が誕生した。
AFSCは、1953年12月、ジャクソン・ベイリー夫妻による「滋賀県水害地救援」キャンプを開催し、張知夫、西村寛一、吉田勝三郎、今村忠生らが参加した。これを契機に、近藤精一、今村らが中心となって、FIWC関西委員会を形成していくこととなった。つまりクエーカーのAFSCのワークキャンプから分離独立したのがFIWCで、このころの中心的リーダーに早稲田の学生だった筑紫哲也がいた。
このFIWCは2012年の現在も活動を続けている。関東、東海、関西、広島、九州にグループがある。
このように知識としての「ヒロシマの家」はあったが、現存しているとは思ってもいなかった。新聞記事を見て驚いた。
●シュモー・ハウス見学
広島平和記念資料館学芸課に問い合わせると、いつでも見学できるとのことで予約などは不要であったが、希望すれば解説員が待機してくださるとのことだった。
わたくしが訪問したときに解説してくださった方は「シュモーさんのヒロシマの家を語り継ぐ会」のメンバーのおひとりであった。
このような会があることに驚いた。会の代表の今田洋子さんという方の粘り強い保存運動なくしては、移動し修復してりっぱに保存され、かつ資料展示室として活用されることなど無かったということを知った。建設したシュモーさんと仲間たちの活動もすばらしいが、建物自体がとりわけ価値のあるものではない、ごく普通のどこにでもある町内会の集会所とかわりないものだが、建設した人たちのスピリットに響いて保存運動にとりくんだ人たちがいたことに胸うたれる。この建物は「シュモー会館」という名前で、つい最近までこのあたりの町内会の集会所として使用されていたという事実もまた驚くべきことだった。
「ヒロシマの家」の昔の写真や説明、それにこの家以外に広島復興支援のいくつもの活動があったことの展示がされていた。現存する極めて少ない資料であろう当時のワークキャンプに参加した学生のサインが書かれた色紙が展示されていて、日本人は5人の名前が読みとれた。そのなかのひとりに山崎富子という名前があった。
当時のAFSCのワークキャンプのメンバーで、AFSCからFIWCに移行する頃のワークキャンプの歴史にくわしい大津光男さんから教えてもらったお名前だった。山崎さんは大津さんの友人であり、後にシュモーさんの後妻になった方だった。今はシアトル在住とのこと。後日、大津さんに見学に行ったことを伝えると、富子シュモーさんが喜ぶだろうと私のメールを転送したようだった。
① AFSCの平和的活動
シュモーさんのことは新聞では平和活動家としか表現されていない。「シュモー・ハウス」の展示ではAFSCのことにふれていた。AFSCはクエーカーの奉仕団体で、1947年ノーベル平和賞を受賞している。彼は戦争中、徴兵を拒否してハーバート・ニコルソンと共に日系人の収容施設で奉仕活動をしていたとのこと。絶対に戦争に加担しないクエーカーの平和主義を貫いた人である。
戦後は、前記のように当時の金額で200億円ともいわれる、食料、衣料、医薬品などララ物資という名のアメリカ民間の支援もAFSCが中心となって日本に贈られたものだった。戦後の食糧難の時代これで生き延びた日本人はそうとうな数になる。私たちの世代は、ララ物資のひとつ学校給食の粉ミルクいわゆる脱脂粉乳のまずい味を忘れない。
丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」の展覧会を、いくつもの困難をのりこえてアメリカで最初に開催(1970年)したのもAFSCだった。
つい数日前、漫画「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんが亡くなった。不朽の名作「はだしのゲン」を英訳してアメリカ人に読んでもらおうと考えたプロジェクト・ゲン(1974年~)に参画したFIWCの仲間がいる。つい最近、その彼・阿木幸男から聞いたのだが、アメリカで主にクエーカーの人たちを中心に3000部ほどを販売したとのことだった。
FIWCの名前で活動しているわたしたちは、Fの意味を深く考えたことがあるのか。フレンズ派(Religious Society of Friends=別名クエーカー)の信仰をもっているわけではないが、その平和主義の思想を受け継ぎたいとの思いがあったから、名前にFがつけられていることを忘れないようにしたい。
(2012.12.25)