後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔321〕ロジャー・パルバース『ぼくがアメリカ人をやめたワケ』(集英社インターナショナル)は要チェックですね。

2020年12月25日 | 図書案内
 読者にはお馴染みの矢部顕さんがいろいろの情報を送ってくれます。様々な新聞やミニコミなどもチェックされているのかなと思ったら、そうではなくて、全国の友人の皆さんが送ってくださっているようなのです。メールには次のようにありました。
「神奈川新聞、東京新聞、赤旗、すべて、それぞれの場所の友人が送ってくれたものです。田舎にひっこんでいて、本屋にも立ち寄らない生活をしていますので、友人たちの親切はありがたいことです。」

 というわけで、今回も興味深い情報です。メールと新聞記事をどうぞ。矢部さんと矢部さんのお友達、ありがとうございました。

●福田三津夫様

ロジャー・パルバースさんのインタビュー記事を添付します。
これは、しんぶん赤旗の記事です。
ロジャー・パルバースさんはラボ・ライブラリーの物語の英訳
をたくさん担当してもらっています。
宮沢賢治作品の4話はすべて彼が英訳しています。
ほかにもいろいろあります。

矢部 顕


〔320〕戦争を炙り出す、六草いちか『いのちの証言』(晶文社)は著者の独自性が際立っています。

2020年12月17日 | 図書案内
 このブログは前ブログの続編とも言えるものです。
 六草いちかさんはドイツ人と結婚されてベルリンに1988年から住む日本人です。今や森鷗外研究には欠かせない2冊のノンフィクション『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』『それからのエリス-いま明らかになる?外「舞姫」の面影』については先日このブログで紹介しました。「舞姫」を特定するまでのはらはらどきどきの追跡が実に興味深かったのを思い出します。

 さて、『いのちの証言』は是非手にしたいと思っていましたが、期待を裏切らない、戦争を深く掘り下げたノンフィクションになっていました。迫害を受け窮地に陥ったユダヤ人になった心境にさせられました。
 前2冊と同様、ドイツ語が堪能で文章力に恵まれた彼女にしか書けないような本でした。何かに憑かれたような執念みなぎる取材が彼女の真骨頂です。
 いまは高齢になった、ヒトラー統治下に暮したユダヤ人にインタビューを試み、当時の切羽詰まった社会的政治的情況をリアルに伝えてくれるのです。客観的事実を忠実に積み重ねることによって生み出される説得力には舌を巻きます。インタビューに応えてくれたユダヤ人はよくぞ生き残ったと思わざるを得ません。
 この本には日本人も登場します。ユダヤ人を助けたのは杉原千畝だけではなかったのです。私たちはもっと歴史を知らなければならないとつくづく思うのです。

■六草いちか『いのちの証言』(晶文社)ソデ
 ナチ政権下、ホロコースト時代をどのように生き延びたのか──。生存ユダヤ人と日本人たちの記憶と証言が70年以上の歳月を経て明かされる。生死を分けた一瞬の偶然。市民がなぜあのような非道に同調することができたのかという人間性への問い。そしてヒトラー政権の同盟国であった日本人がユダヤ人に助けの手を差し伸べた新事実……。ベルリンに暮らし、数年にわたって丹念に取材を続けた著者が、悲劇の時代に生きた人間の姿をありのままにつづる、渾身のノンフィクション。

  2020年12月19日(土)、ベルリンからのリモートで、彼女の話を聞くことになっています。どんなセミナーになるのか、楽しみです。

〔追伸1〕演題テーマは「鷗外のベルリン『舞姫』のBERLIN」でした。以下の感想を主催者に送りました。
「連れ合いの福田緑と拝聴しました。『舞姫』当時のベルリンを良くここまで調べ上げたなと思いました。写真一枚の発掘にどれだけの時間を費やしたか、感嘆している自分がいました。そしてその語りの熱量が半端ではないと思いました。 実は、エリス関係のご著書2冊のあと、『いのちの証言』を読んだばかりでした。こちらも素晴らしい本でした。ブログに認めましたので読んでくだされば嬉しいです。
 再来年にはドイツに行って鷗外の足跡を訪ね、中世ドイツの彫刻行脚をしたいと切望しています。ありがとうございました。福田三津夫」

〔追伸2〕2020年12月18日(金)の朝日新聞夕刊にこんな記事が掲載されました。杉原千畝が発行した「命のビザ」をもって来日したユダヤ人を日本人が面倒を見たというお話です。一面に大きく取り上げられています。六草さんの本をこのブログで紹介した翌日のことでした。不思議な縁を感じます。しかも明日は六草さんのセミナーがあるのでした。

■「命のビザ」、神戸が支えた 4600人が迫害逃れ滞在、住民と交流 「異人館街」の共同体跡地に案内板
 異人館街として知られる神戸・北野の一角に11月、1枚の案内板が設置された。「『神戸ユダヤ共同体』(神戸ジューコム)跡地」と記されている。第2次世界大戦中に迫害から逃れて神戸にたどり着いたユダヤ人たちと、地域の人々との間に交流があったことを伝えたい。そんな思いで地元の有志が設置した。(以下略)


〔319〕夏のテレビの「戦争特集」で気になったのは被害より加害の歴史を振り返る番組が圧倒的に少なかったことです。

2020年12月16日 | テレビ・ラジオ・新聞
  この夏にテレビ放映された「戦争特集」がずっと気になっていました。番組としてどう評価したら良いのかと考え込んでしまったからです。
 33年の小学校教師の体験の中では平和教育と称して、社会科などで戦争の歴史について教え、ほとんどの学校で平和集会を開いてきました。授業の中では加害の歴史もしっかり教えたつもりですが、平和集会などで取り上げたのは被害としての広島・長崎の原爆や東京大空襲のことでした。被害の歴史から戦争を考えることが圧倒的に多かったような気がします。
 加害の歴史を振り返るのは正直しんどいことですが、戦争責任を考えるときには避けて通れないことです。
 今年の夏のテレビ戦争特集を振り返ってみました。できる限り番組に目を通してきましたが、やはり加害の歴史を直視するようなものが少なかったと思います。戦後75年になりますが、再び戦争を引き起こさないために、懐かしさで戦争を語ることの危険性を肝に銘じたいと思います。
(以下の文章はそれぞれの放送局のHPからの引用です。)

■伊400 幻の巨大潜水艦●NHK本放送 8月 5日(水) 22:00~22:45

*エピソード1 海底に眠る巨大潜水艦
 2014年10月、NHKはハワイ大学と共同で、ハワイ・オアフ島沖での潜水調査を実施しました。そして伊400の最も重要な部分ともいえる「格納筒」を発見。初めて撮影に成功しました。海底に眠る伊400の映像、そしてCGで幻の巨大潜水艦がよみがえります。

*エピソード2 日本海軍の極秘計画
 アメリカ本土攻撃――連合艦隊司令長官・山本五十六のこの構想のもと、極秘裏に始まった「潜水空母」計画。伊400の建造は設計段階から困難を極めました。なかでも難題は「翼全長12mの航空機を直径およそ4mの格納筒に入れる」こと。いったいどのようにして解決したのでしょうか――?

*エピソード3 伊400と若き乗組員たち
 終戦の前年に完成した伊400。乗組員たちの多くは10~20代の若者でした。その彼らに与えられた任務とはアメリカの大艦隊への「特攻」。死を覚悟して出撃した若者たちを、しかし思いもよらぬ事態が待ち受けていました。その時、全乗組員を率いる伊400艦長が下した決断は・・・・・・。

■ガダルカナル 大敗北の真相
●NHK本放送  8月12日(水) 22:00~22:45

*エピソード1 エリートたちの判断ミス
 ガダルカナルの戦いは日本陸軍・一木支隊の戦闘から始まりました。916人の一木支隊が戦ったアメリカ軍部隊の兵力は10倍以上の1万あまり。ケタ違いの戦力差を前に一木支隊は全滅します。この無謀な作戦を立案したエリート参謀たちは、楽観的な見込みしかせず敵を正確に把握していなかったのです。

*エピソード2 最大のチャンス
 第一陣の壊滅を受け、日本軍が急ぎ投入したのが陸軍・川口支隊でした。同隊は米軍の弱点・ムカデ高地を攻撃、作戦目的の達成にあと一歩のところまで迫ります。しかし、ここで日本陸海軍の連携がうまくいかず戦力が不足、攻撃は挫折しました。この時、日本軍にとって「最大のチャンス」が消え去ります。

*エピソード3 終わりなきサバイバル
 川口支隊敗退後も日本軍の兵力は送られ続け、「ガ島」日本軍将兵の数は3万に達します。しかし、補給の失敗、特に食糧不足は絶望的で、兵士たちは言語に絶するサバイバルを強いられました。この時島にいた陸軍将校の日記や元米軍兵士の証言から、壮絶な飢餓の戦場の実際が浮き彫りに――。  

■NHKスペシャル「沖縄 “出口なき”戦場~最後の1か月で何が~」

*番組内容:75年前の沖縄戦、日米の勝敗が事実上決したにも関わらず、その後、多くの命が犠牲になった。NHKは、アメリカ軍の膨大な新資料を発掘、苛烈な戦闘の全貌に迫る。
*詳細:住民12万人が命を落とした沖縄戦。1945年5月末、日本軍の総司令部があった首里が陥落、事実上の勝敗が決した後にも関わらず、戦闘は継続。少なくとも住民4万6千人が命を落とした。なぜ、これほど多くの住民が犠牲になったのか。今回NHKは、アメリカ軍の新資料を発掘、苛烈な攻撃に住民が巻き込まれていった詳細が浮かび上がってきた。終わることなく続いた戦場で何がおきていたのか。多くの命が失われた1か月に迫る。

■NHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」

*番組内容:今回私たちは、アメリカの原爆開発の現場責任者の手記や、当時の日本の指導者たちへのインタビューを入手。それにNHKのアーカイブスを加え、原爆投下の全体像に迫った。 *詳細:戦後75年にあたる今年、私たちは、アメリカの原爆の開発計画の現場責任者の手記を発見。さらに、原爆を投下した爆撃機のパイロットや、当時の日本の指導者へのインタビューも入手した。そこからはアメリカが自らの「正義」のために、投下を決定した過程や、日本が降伏を決断できないまま、あの日を迎えてしまった経緯が浮かび上がってきた。これらの資料に、NHKが取材した膨大なアーカイブスを加え原爆投下の全体像に迫った。

■にっぽん!歴史鑑定「太平洋戦争開戦!山本五十六の苦悩」
放送日:2020年8月10日 BS-TBS

 太平洋戦争と山本五十六の関係に迫る。アメリカをはじめとする連合軍と日本が戦いを繰り広げた同戦争では、300万人もの人々が命を落とした。しかし、大日本帝国海軍・連合艦隊司令長官の山本は、日本の敗戦を予測していた。また、日本海軍史上最高の名提督と言われる山本は、日米開戦を回避しようと尽力もしていた。

  ところで、お勧めのテレビ番組を紹介しておきます。BS,TBSの「関口宏のもう一度!近現代史」です。保阪正康氏をコメンテーターに迎えて明治から昭和の時代を振り返る数十回続く地味ではあるが貴重な番組です。日本人が知っておきたい歴史の事実に目が開かされます。

■「関口宏のもう一度!近現代史」〔番組HPより〕
12/12(土)は昭和7年後半を詳しく取り上げる。日本が満洲国を承認。そんな中、リットン調査団が報告書を公表。意外と日本に妥協的 ...〔略〕

〔318〕「リーメンシュナイダーの追いかけ人」(福田緑)から写真展延期と新刊発刊告知のメールです。

2020年12月15日 | 美術鑑賞
 連れ合いが、福田緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」にいらしてくださった皆様に以下のようなメールを出しました。届いていない参加者もいらっしゃるのでこのブログに載録します。
 久しぶりに鎌田慧さんのコラムもどうぞ。

● 昨年、「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」写真展にいらしてくださった皆さま、またお忙しくて来られなかった方へもBCCでお送りします。本来ならお一人お一人にメールするべきところ、失礼をお許しください。
 昨年の福田 緑写真展「祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く」から1年が過ぎました。その節はお忙しい中をおいでいただき、本当にありがとうございました。リーメンシュナイダーの写真を見に来てくださる方がこれほどいらっしゃるということに大変勇気づけられました。
 その後、世界中でコロナが蔓延し、思いもよらない不自由な生活が続いていますが、お元気でお過ごしでしょうか。
 私は本来なら国分寺で第2回目の写真展を開催する予定でしたが、延期せざるを得ませんでした。ステイ・ホームが叫ばれた期間、リーメンシュナイダーと同時代の作家たちの作品をさらに紹介するべく『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』を編集し、11月15日付けで発行いたしました。本書は、私の「リーメンシュナイダーの追いかけ人」としての集大成となります。リーメンシュナイダーについてはアップを多用し、同時代の作家については2019年に訪ねた作品を中心に発表いたしました。

 今回も丸善プラネットからの自費出版です。皆さまには是非お手にとって見ていただきたいところですが、やはり6600円と高額になってしまいました。そこで、できればお近くの図書館に要望を出していただき、ご覧いただければと願っています。マイナーな作家の写真集で、あまり購買意欲がわかない図書館も多いかと思いますが、今年12月8日現在の図書館所有はわかっているだけで以下の通りですので、これを参考にしてプッシュしていただけると嬉しいです。

 第一巻『祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』   
     公立図書館 118館、大学図書館 93館 合計 211館
 第二巻『続・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーを歩く』
     公立図書館 101館、大学図書館 84館 合計 185館
 第三巻『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』
     公立図書館  69館、大学図書館 31館 合計 100館
 第四巻『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』(この第四巻調査は12月14日現在)
     公立図書館  26館、大学図書館  5館 合計 31館
    (まだ発売後1か月ですのに、ありがたいことです)

 また、連れ合いの福田三津夫がアマゾンプレイスで「猫家族」という本屋をしています。そこでは税抜きの価格で送料を加えて取り扱っておりますので、もしお手許においておきたいと思われる方は検索してみてください。直接お目にかかることができるかたはご連絡ください。

 なお、本書の内容について、また出版までの苦労話やドイツを訪ねる旅の話しなどをブログ「リーメンシュナイダーを歩く」に上げています。お時間がありましたらのぞいてみてください。
  https://blog.goo.ne.jp/riemenschneider_nachfolgerin


 来年か再来年には新しい写真も加えて第二回の写真展を開催する予定でおります。その折にはまたお知らせをお送りしたいと思っています。どうぞ皆さま、お元気でこのコロナ禍を乗り越えてくださいませ。そしてまたお目にかかることができますようにと祈っています。

                                     福田 緑


◆原発廃止は自然の声
  日本の自然と地理的条件を無視した原発から
  一日も早く撤退をすべき

                  鎌田 慧(ルポライター)

 地球温暖化を口実に菅内閣は、電力会社支援の原発再稼働推進を公然
と主張している。一種の火事場泥棒の類い(たぐい)だが、4日の大阪
地裁判決は、原子力規制委員会が関電に与えた大飯原発の設置許可を
「違法」として取り消した。いわば原発巻き返しの出ばなをくじいた。

 規制委は、経済産業省内に置かれていた「原子力安全・保安院」が、
露骨に電力会社寄りだったので廃止、その代わりに新たに設置されたの
だが、原子力「無規制」委員会として評判が悪かった。
 今回の大阪地裁判決は関電が設定した手前みその「基準地震動」を、
規制委が認めたのは「過誤、欠落、不合理」という厳しいものだ。
裁判所にも正義がもどってきた。これは各地での運動の成果と言える。

 この感動は2014年5月、福井地裁で樋口英明裁判長の大飯原発再稼働
を差し止め決定からはじまった。
 2015年4月、樋口裁判長の高浜原発再稼働差し止め仮処分決定、その
あと大津地裁、広島高裁と差し止め決定か続いている。
 そもそも避難訓練付きの工場とは、事故を前提、許容している工場で
ある。事故はチェルノブイリや福島(第一原発)事故のように、すべて
回収不能、黙示録的な悲劇だ。誰が許可できるのか。日本の自然と地理
的条件を無視した原発から、一日も早く撤退をすべきだ。
それが自然の声なのだ。
      (12月8日東京新聞朝刊23面「本音のコラム」より)

〔317〕「ヒロシマの家」建設ワークキャンプは、戦後日本での最初のワークキャンプです。(矢部顕さん)

2020年12月15日 | メール・便り・ミニコミ
 矢部顕さんから読み応えのある「Fの遺伝子―ヒロシマの家訪問記」と、神奈川新聞のコピーが送られてきました。同時進行で皆様にもお届けします。
 まずは矢部さんのメールからどうぞ。


●福田三津夫様

横浜に住むFIWCの仲間の藤澤さんから神奈川新聞のコピーが送られてきました。
「シュモーがくれたもの(上)」「シュモーがくれたもの(下)」の連載記事ですが、
ていねいな取材と今につづく物語に感動しました。

かつて「シュモーハウス」を小生が訪問したときの文章を、何年も前のことなのに、
藤澤さんが覚えてくれていて、それでコピーを送ってくれたことにも驚きました。

「ヒロシマの家」建設ワークキャンプは、戦後日本での最初のワークキャンプで、
AFSCからFIWCにつづく歴史の原点なのです。

小生の訪問記「Fの遺伝子―ヒロシマの家訪問記」と、神奈川新聞のコピーを添付にて
お送りします。

矢部 顕



■ Fの遺伝子 ――「ヒロシマの家」訪問――


                     フレンズ国際労働キャンプ(FIWC) 矢 部  顕

 「ヒロシマの家 新たな役目」のタイトルの朝日新聞(2012年11月1日)の記事に目がとまった。副題は「米活動家が1949年建設、平和資料館に」。記事は以下のようだった。
――米国の平和運動家フロイド・シュモー氏(1895~2001)が、原爆投下後のヒロシマで被爆者のためにつくった唯一現存する建物(広島市中区)が1日、市の平和記念資料館「シュモー・ハウス」としてオープンする。31日の開館記念式にはシュモー氏の次男や孫2人が米から駆けつけた。
次男のウィルフレッド・P・シュモーさん(85)は「とても光栄です。父は原爆は大変ひどいことだと心を痛め、謝罪だけでなくもっとできることをしたいと思っていた。ささやかな活動だったけれど、歴史の一部として見にきてほしい」と語った。
米で大学講師をしていたシュモー氏は1949年8月、全米から約4千ドルの寄付を集めて広島を訪れ、家を失った被爆者のために「ヒロシマの家」(住宅20戸と集会所1カ所)を建てた。
 老朽化のため現存するのは集会所のみ。国道の建設予定地となったが、約40メート離れた場所に3月までに移転し、保存された。広島の戦後復興を支えた外国人についての資料を展示する。――
 この記事とともにシュモー氏の顔写真と建物の写真がそえられていた。

●ワークキャンプ―その方法の系譜
 この記事が目にとまったのは、わたくしが学生時代に参加した、そして今もかかわっているワークキャンプ団体であるフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)の歴史を書いた年表のなかに「ヒロシマの家」の記憶があったからだ。
 第二次大戦後、クエーカーのAFSC(American Friends Service Committee=アメリカン・フレンズ奉仕団)はララ(LARA)(Licensed Agencies for Relief in Asia=アジア救援公認団体、後述)による7年間の救済活動のみならず、国際学生セミナーを開催し、同時にボランティア活動として日本にワークキャンプという方法で復興支援を始めた。最初に開かれたAFSC国際ワークキャンプの日本人参加者に明石康がいた。それとは異なるが、クエーカーは各地でワークキャンプを行っている。その一つがアメリカの学生と日本の学生が参加した戦後日本での最初の国際ワーキャンプであり「ヒロシマの家」建設キャンプであった。広島でのワークキャンプは、その後AFSCに合流して行った。
 その後、このワークキャンプというボランティア活動は多くの団体が取り組んだが、伊勢湾台風復旧キャンプでの最大規模のワークキャンプ につながっている。この頃のAFSC学生国際ワークキャンプの参加者や、広島でのワークキャンプ等に参加した日本人参加者等が中心となって、日本人学生を主体としてのワークキャンプ団体を創設する動きのなかからフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)が誕生した。
 AFSCは、1953年12月、ジャクソン・ベイリー夫妻による「滋賀県水害地救援」キャンプを開催し、張知夫、西村寛一、吉田勝三郎、今村忠生らが参加した。これを契機に、近藤精一、今村らが中心となって、FIWC関西委員会を形成していくこととなった。つまりクエーカーのAFSCのワークキャンプから分離独立したのがFIWCで、このころの中心的リーダーに早稲田の学生だった筑紫哲也がいた。
 このFIWCは2012年の現在も活動を続けている。関東、東海、関西、広島、九州にグループがある。
 このように知識としての「ヒロシマの家」はあったが、現存しているとは思ってもいなかった。新聞記事を見て驚いた。

●シュモー・ハウス見学
 広島平和記念資料館学芸課に問い合わせると、いつでも見学できるとのことで予約などは不要であったが、希望すれば解説員が待機してくださるとのことだった。
 わたくしが訪問したときに解説してくださった方は「シュモーさんのヒロシマの家を語り継ぐ会」のメンバーのおひとりであった。
 このような会があることに驚いた。会の代表の今田洋子さんという方の粘り強い保存運動なくしては、移動し修復してりっぱに保存され、かつ資料展示室として活用されることなど無かったということを知った。建設したシュモーさんと仲間たちの活動もすばらしいが、建物自体がとりわけ価値のあるものではない、ごく普通のどこにでもある町内会の集会所とかわりないものだが、建設した人たちのスピリットに響いて保存運動にとりくんだ人たちがいたことに胸うたれる。この建物は「シュモー会館」という名前で、つい最近までこのあたりの町内会の集会所として使用されていたという事実もまた驚くべきことだった。
 「ヒロシマの家」の昔の写真や説明、それにこの家以外に広島復興支援のいくつもの活動があったことの展示がされていた。現存する極めて少ない資料であろう当時のワークキャンプに参加した学生のサインが書かれた色紙が展示されていて、日本人は5人の名前が読みとれた。そのなかのひとりに山崎富子という名前があった。
 当時のAFSCのワークキャンプのメンバーで、AFSCからFIWCに移行する頃のワークキャンプの歴史にくわしい大津光男さんから教えてもらったお名前だった。山崎さんは大津さんの友人であり、後にシュモーさんの後妻になった方だった。今はシアトル在住とのこと。後日、大津さんに見学に行ったことを伝えると、富子シュモーさんが喜ぶだろうと私のメールを転送したようだった。

① AFSCの平和的活動
 シュモーさんのことは新聞では平和活動家としか表現されていない。「シュモー・ハウス」の展示ではAFSCのことにふれていた。AFSCはクエーカーの奉仕団体で、1947年ノーベル平和賞を受賞している。彼は戦争中、徴兵を拒否してハーバート・ニコルソンと共に日系人の収容施設で奉仕活動をしていたとのこと。絶対に戦争に加担しないクエーカーの平和主義を貫いた人である。
 戦後は、前記のように当時の金額で200億円ともいわれる、食料、衣料、医薬品などララ物資という名のアメリカ民間の支援もAFSCが中心となって日本に贈られたものだった。戦後の食糧難の時代これで生き延びた日本人はそうとうな数になる。私たちの世代は、ララ物資のひとつ学校給食の粉ミルクいわゆる脱脂粉乳のまずい味を忘れない。
 丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」の展覧会を、いくつもの困難をのりこえてアメリカで最初に開催(1970年)したのもAFSCだった。
 つい数日前、漫画「はだしのゲン」の作者の中沢啓治さんが亡くなった。不朽の名作「はだしのゲン」を英訳してアメリカ人に読んでもらおうと考えたプロジェクト・ゲン(1974年~)に参画したFIWCの仲間がいる。つい最近、その彼・阿木幸男から聞いたのだが、アメリカで主にクエーカーの人たちを中心に3000部ほどを販売したとのことだった。
 FIWCの名前で活動しているわたしたちは、Fの意味を深く考えたことがあるのか。フレンズ派(Religious Society of Friends=別名クエーカー)の信仰をもっているわけではないが、その平和主義の思想を受け継ぎたいとの思いがあったから、名前にFがつけられていることを忘れないようにしたい。
                        (2012.12.25)





〔316〕予想どおり「市議会傍聴者の知る権利保障に関する請願」質疑は噴飯物の展開が待っていました。

2020年12月14日 | 市民運動
 このブログは〔313〕私の請願の結末というかその顛末を「冷静に」報告します。
 さて、予想されたこととは言え、あまりに情けない清瀬市の議会運営委員会(2020年12月10日)でした。だからこそ、委員会当日の汚点はしっかりブログに残しておく必要がありそうです。
 すでに数回の請願・陳情を提出している私ですが、いつもは総務文教常任委員会がその舞台です。議会運営委員会は初めてのことでした。構成メンバーもすっかり異なっていました。市のHPからそのメンバーを紹介しましょう。(以下、敬称略)

■森田正英(委員長)、佐々木あつ子(副委員長)、斉藤あき子、原和弘、深沢まさ子、小西みか、友野和子、渋谷のぶゆき、斉藤実

 コロナ禍ということで、物々しく透明のスクリーンがそこかしこに立てられていました。傍聴席は2列だけ、いつもの3分の1程度に制限されていました。提案者の私は入り口すぐのところに座らせられました。その横には私の仲間たちが数人陣取っていました。
 午後2時過ぎ、請願審議の時間になると私は長方形に議員が向かい合った座席に座らせられました。3分間の趣旨説明(ブログ〔313〕参照)の時間が過ぎてチャイムが鳴りしばらくして説明を終えました。

 次に提案者に質問するという時間帯があります。最初は渋谷のぶゆき議員(清瀬自民クラブ)でした。「会議中に選挙はがきを書いていたというのは他市のことですか。」という想像もしていなかった質問が飛んできました。布施ゆめ議員の「ゆめ通信」に報告されていることで周知の事実だと思っていたのです。しかも質問者自らが墓穴を掘る質問だったのです。
「他市ではなくて清瀬でのことです。」
 2017年6月12日、清瀬市議会本議会で後列の渋谷議員と同会派の保守系の女性議員が選挙はがきを書くことをしていたことを我々の複数の仲間は見ていたのです。しかも当時の議長は質問者だったのです。一段高い議長席から見えなかったのでしょうか。少なくとも近くの同僚議員はこの事実を知っていたはずです。
 躊躇したのですがこの事実は言わず仕舞いでした。このことがあとで後悔することになるのです。
 このあと3,40分の議員の討論後、採決を取り結果は3対5で否決でした。これまで私の出した反原発、原発再稼働反対、反戦、教育の国家主義化反対、教育の中立化維持といった請願に一貫して反対してきた清瀬自民クラブ、それに追随する公明党が反対するのは予想どおりでしたが、立憲までもそれに従うとは開いた口がふさがりません。

*賛成:佐々木あつ子、深沢まさ子(以上共産)、小西みか(ネット)→発言なし
*反対:斎藤実(立憲)、渋谷のぶゆき(清瀬自民クラブ)、斎藤あき子(公明)
→発言しないで反対にまわった人:原和弘(公明)、友野和子(清瀬自民クラブ)

 反対者の意見は傍聴席で立ち上がると危ない、知る権利は翌日に事務局で確認すれば良いという的外れのものでした。私たちは立ち上がっているのではなく覗き込んでいるだけなので少しも危険ではありません。さらに、結果を翌日に確認しろ!とは、まさに噴飯物です。
 せっかくなので、議論をもう少し丁寧にフォローしたいと思います。 

●請願反対議員の理由と私の反論(請願者は論議に加われません)
・傍聴者が立ち上がるのは危険である。→最前列で議場をのぞき込むぐらいしかできないが、危険でもないし、今までもなんということなく行ってきたことである。
・挙手については翌日に事務局に確認できる。→翌日で良いのなら当日行く意味がない。その場で知るのが知る権利である。
・「傍聴規則」にない「頻繁に立ち上がる」を禁止項目に議長と事務局で勝手に加えたが、そもそも私たちの仲間は頻繁に立ち上っていない。ほとんど採決の時だけ覗き込んでいる。手すりにへばりつくように。

・共産党議員からは議会を通さないで「傍聴規則」に加筆する「傍聴する皆様へのお願い」を提示したのは正当なのかどうかという指摘があった。さらに、挙手ではなく起立でも良いのではないかという真っ当な意見もあった。後者はなぜか議論もされないでスルーされた。

●わかったことは…
 私の請願の趣旨は「知る権利を保障していただきたい」「傍聴者が座ったままで議員の賛否の挙手や言動が可視化されるように配慮願いたい。」という至極当然の民主主義的要求で、否定すべき項目はどこにも含まれていないと思います。有権者の求める知る権利を保障しないし、可視化については配慮しないと清瀬議会は結論づけたのです。最終決定の本会議でもこの流れは変わらないと思われます。
 どうやら、私の請願を否決した1番の理由は、会議中の態度を見られることだったのでしょう。公選はがきを書いたり、スマホをいじったり、発言者の言動にいらだってファイルをばたばたさせたり…。でもこれって、住民がしっかり「監視」すべきことですよね。

●さて、これからのこと、「やられたらやり返す! 倍返しだ!!」
 これからも本会議では最前列に陣取り、手すりにへばりつくように頻繁に議場を覗きこむことを宣言します。けして立ち上がりません! 歩き回りません!
 反逆老人は、やられたらやり返す! 倍返しだ!!

〔補足〕連れ合いの緑は、なぜ、当日、その場で見たいのかの理由を次のように書いている。
『以前、最初は手を上げていた2人の議員が、回りの様子を見て「あれ? 間違えたかな」と言う表情でそろそろと手を下ろしたことがある。最初「珍しく通った!」とよろこんだ私だったが、手を下げた二人によって結局不採択となったことがある。これは不注意なのか、それとも心情的なものだったのか。
また、中には通常の行動から当然反対してくれるだろうと思う議員が恥ずかしそうに賛成に挙手する姿も見られた。これは党派の縛りで本人の意志ではないのだろうなと背景が透けて見える。こうした生の人間の姿を見て私たちは判断するのだから。ただ票数をカウントしたいだけではない。上げる姿に生の人間が見えるからである。』


〔315〕岡山・亀岡城跡でのプレイパーク(冒険遊び場)の活動を矢部さんに紹介してもらいます。

2020年12月11日 | メール・便り・ミニコミ
 岡山の矢部顕さんからプレイパーク(冒険遊び場)の活動の様子が送られてきました。こうした活動が日本中に広がると良いですね。

●福田三津夫様
 先日の日曜日、我が家の裏山にある亀山城跡にてプレイパーク(冒険あそび場)をやりました。  プレイパークの運動は、日本では、国際児童年の1979年、東京世田谷に日本初の住民と行政の共同運営による遊び場「羽根木プレイパーク」が開設されたことに始まります。かつて門脇厚司さんは日本への導入に尽力されたと聞いたことがあります。私どものプレイパークに来てくれる若いプレイリーダーは、昨年、全国研修会で門脇さんの講演をお聴きしたと言っていました。
 亀山城跡では、常設ではなく一日だけのプレイパークを始めて今回が3回目となります。目的は
・子どもが外遊びの楽しさを発見する契機にする。
・地域の親子に亀山城跡があるということ知ってもらい、遊びに来てもらう契機にする。
・新興団地住民と旧住民との親子の共同一体感をつくっていく契機とする。
 まぁ、こんなことで始めました。子どもと遊んでいます。写真を添付します。
子どもを取り巻く社会環境は、ますます問題が深刻になっていっています。このような活動が各地でもっともっと盛んになるといいなぁと思っています。 矢部 顕


〔314〕誕生日の朝、ドイツから3通の誕生日メッセージが届きました。

2020年12月02日 | メール・便り・ミニコミ
 世界は狭くなったものです、私の誕生日の朝にドイツの友人から3通の誕生日メッセージが届きました。ちょっと面白いので紹介しておきましょう。

 まずはドイツ北の港町のロストックに住むほぼ我々と同世代のヨーラとヘルヴィック夫妻からです。連れ合いの緑の初めてのリーメンシュナイダー写真集が出版されるきっかけになった夫妻です。リーメンシュナイダーの写真を撮りためていたアマチュア写真家のヨハネスを紹介してくれたのが彼らでした。第1集の写真集はヨハネスのカラー写真と娘の福田奈々子の白黒写真で構成されているのです。
 彼らの家には数回泊まっているし、我が家にも2回来ていただいています。
 ヘルヴィックは日本語を勉強しています。以下のメールは彼が書いたに違いありません。

■三津夫 ちゃん様
あなたの誕生日のために、
私たちはあなたにすべての最高を願っています、
特に家族の健康と幸福。
長い間元気になっていただければ幸いです。
みどりと ななこ とSさんによろしくお願いします。

またね?              ョラと ヘルウィッグ


  彼らの飼っていた猫が死んでしまいました。私どももとてもかわいがっていた猫たちです。彼らの代わりというのでしょうか、新しく3匹の猫を飼い始めたようです。写真には「写真では、オンナ,ズザ、ヤガの 三匹の猫を見ることができます。」と説明書きがありました。


 2通目のメールはフランクフルト在住のルースとトーマス夫妻からです。トーマスは我々より少し年上で、ルースは少し年下でしょうか。ドイツには十数回行っていますがそのたびに宿泊させてもらっています。
 以下のメールはドイツ語を緑が翻訳してくれたものです。


■親愛なる三津夫へ
 新しい人生の一年が健康で素晴らしい体験のできる年となりますように。何よりも緑、お孫さんたちとの素晴らしい時間を過ごせますように。
 もし来月全ての国のコロナパンデミックが終息して再び旅することができるようになったら素晴らしいですね。きっとあなたたちはもう一度はドイツに来る計画をもう立てていることでしょう。うまくいきますように祈っています。
 この素晴らしい日を楽しい誕生パーティーで祝ってください。
                                ルースとトーマスより

 最後のメールは、ドイツの中央に位置するアイゼナッハ在住のエルケさんからでした。彼女は世界遺産のヴァルトブルク城で学芸員をしていた方です。数回にわたってヴァルトブルク城の中を丁寧に案内してくれました。私どもと同世代で、お連れ合いを亡くされてまだそんなに日は経っていません。誕生日メッセージに初雪の写真を付けてくれました。