矢部顕さんが「スサノオ」(番外編)を送ってくれました。なかなか興味深い「霊峰熊山の石積遺跡」です。
●福田三津夫様
やっと田植えが終わりました。一昨日は、近所の小学校の学習田の田植えのために代かきをしました。水を田んぼに入れるのは、前にもお知らせしたことのある、人力足踏み水車で子どもたちが踏むのです。写真添付。
人力足踏み水車は、江戸時代中期から昭和20年代まで使われていたもので、近隣の農家の納屋の奥の方に仕舞いこんでいたものを寄付してもらって修理したものです。いずれも、大正時代のものでした。
「スサノオ」の物語をめぐって①②③をブログに掲載していただきましたが、今回は「スサノオ」(番外編)です。
出雲神話とは関係ないと思われます。
我が家の近くに、「スサノオの御陵」があったと言う人がいたのです。
その人はたいへん有名な宗教家の出口王仁三郎です。
小文「霊峰熊山の石積遺跡」をお送りしたことはありましたっけ?
添付します。
矢部 顕
●「霊峰熊山の石積遺跡」
霊峰熊山の石積遺跡
――ピラミッドか、スサノオの御陵か――
矢部 顕
●謎の石積遺跡
我が家の窓から東の方向に熊山という名前の山が見える。標高は508.6mで、このあたりでは一番高く急峻な山である。北麓をJR山陽本線、南麓をJR赤穂線が走っていて交通の便がよいので関西方面からのハイキングの登山者も多い山で、私も学生時代から何回か登ったことがある。眺望はすばらしく、晴れた日には瀬戸内海はもちろん四国の屋島や五剣山も指呼の間で、北には中国山脈を眺め、備前平野を見下ろす絶景の山である。
頂上は平坦部が広く、宗教的にゆかりの深い場所で古い時代の遺跡がいろいろある。国の史跡に指定されている熊山遺跡をはじめ、帝釈山霊山寺という山上伽藍跡や熊山神社、鍛冶神社、猿田彦神社、油瀧神社がある。山上には杉の巨木が密生していて、そのうち2本は樹齢1000年を超える天然記念物で神秘的な雰囲気を醸しだしている。ここに熊山遺跡と呼ばれているマヤのピラミッドに似た形の石積みの構造物があって、より謎めいた空間に霊気が漂っている。
熊山というから熊がいるかというとそうではなく、古代吉備国の東の隅だから隅(くま)山というのや、韓国語のクマは王とか神とか神聖な場所を表す言葉なのでクマ山だとか、いくつか説がある。空海が聖地を高野山に決める前の候補地だったともいわれている神仙の山である。
山頂にある熊山遺跡について『熊山町史』より引用する。「この遺跡は、熊山山頂帝釈山霊山寺戒光院境内跡にある全国に類をみない石積みの遺構である。方形の基壇の上に石をもって三段に築かれたもので、第一段の一辺は7.75mである。第二段の四側には龕(がん)(よこ穴で祭神をまつるところ)が設けられ、中央には縦長の小室がある。小室からかつて陶製筒形の容器(高さ160cm)と三彩の小壺が発見された。現在、陶製筒形の容器は天理市の天理大学博物館に保存されているが、三彩の小壺は不明である」。(地元・赤磐郡熊山町の『熊山町史』より)
●諸説紛々
この石積遺跡はいったい何なのか? 誰が何のためにつくったのか?
いまだ確定的な説はなく、たくさんの学者のいろいろな説がある。主なものをあげてみると、1.戒壇説、2.回壇説、3.仏塔説、4.段塔説、5.経塚説、6.ピラミッド説、7.古代宗教儀式構造物説、8.墳墓説、9.太陽神説、その他にもまだまだいろいろあって諸説紛々である。また、それぞれの説のなかにもいくつもの説があって百花繚乱だ。たとえば墳墓説も、和気清麻呂の墓(熊山北麓の町は和気郡和気町といって、道鏡の宇佐八幡神託事件で有名な和気清麻呂の出身地である)、渡来人の王の墓、この近くにいた高僧の墓、そして、なんとスサノオの御陵説もある。
この遺跡は、かつて存在した帝釈山霊山寺の境内にあって、この寺は鑑真の開基で、山上伽藍には本堂、戒光院、観音堂、鐘楼のほか13坊が室町時代まで存在していたといわれている。鑑真は、唐招提寺戒壇、東大寺戒壇、大宰府観世音寺戒壇、下野薬師寺戒壇とともにここ熊山にも戒壇をつくった。これらが五大戒壇であるというのが戒壇説である。
また、この山の南麓は、日本六古窯で有名な備前焼(伊部焼)の窯元の町で、今は備前市であるが以前は伊部(いんべ)町といった。伊部は忌部であって、古代の神官の忌部一族の地であり、熊山遺跡は忌部氏の古代神祇祀を行った場所という説もある。
仏塔説もいろいろあるのだが、基壇のその下は巨大な磐座(いわくら)があって、弥生時代以前の古い磐座信仰の場所に新たな仏教思想に基づいて作られたという仏塔説もある。
●スサノオの御陵説
「スサノオの御陵である」と言ったのは大本教の出口王仁三郎である。こんな説があることなど私は今までまったく知らなかった。『出口王仁三郎聖師と熊山』という研修資料と記された本が大本教本部から出版されていることを知り、さっそく購入した。「出口王仁三郎聖師ご登山60周年記念刊行」ということで1990年に出版されたものだった。なんと「まえがき」の「編集にあたって」は、大倭でもおなじみの出口三平さんのお名前だった。この本から次のようなことを知った。
王仁三郎は、崩れかかった石積遺跡を修復してきちっと祭祀することを考え、これを奥の院として、西麓の町の国鉄山陽本線万富駅北方の向山(別名・城山)に大本教の宗教施設である中国分院を建設した。昭和9年のことである。その以前、昭和5年に王仁三郎は熊山登山をしている。当時の新聞・中国民報は次のような見出しで報じている。「山駕籠にゆられゆられ けふ王仁さん熊山登り 戒壇と城山の別院候補地を視察 至るところ出迎への人波」。熊山周辺の町村長、助役、岡山市市議ら地元の有力者を含めた近郊の一般人50名、信徒250名、総勢300名がお伴したという記事が掲載されていた。一般新聞の見出しに「王仁さん」と親しみをこめて表現しているのは、当時の大本教の王仁三郎がいかに民衆に人気があったかが窺える。その他の新聞・山陽新報、大阪毎日岡山版、大阪朝日岡山版も同じような記事を掲載している。
昭和10年、大本教は不敬罪ならびに治安維持法違反で宗教弾圧を受けた。第二次大本事件と呼ばれる国家権力による大弾圧で、書籍類は焼き尽くされ、教団施設はダイナマイトで徹底的に破壊された。向山に建設された大本の中国別院も同じ運命をたどった。
春のある日、向山に登ってみた。直下に吉井川の清流を見下ろし、その向こうを見上げると熊山山塊の威容がせまってくる。いまは向山頂上の別院跡には桜が植えられ公園になっていて、今を盛りに満開の花を咲かせていた。当時の破壊された建物の一部の破片が記念碑的に残されていて、その隣には熊山を見つめる方向で、王仁三郎の短歌が刻まれた巨大な歌碑が再建(昭和42年)されていた。奈良時代とも、それよりはるかに昔に建立されたともいわれている熊山遺跡のいのちの長さと、この中国別院のはかなさに想いを馳せたひとときであった。(2013.4.4.)
●福田三津夫様
やっと田植えが終わりました。一昨日は、近所の小学校の学習田の田植えのために代かきをしました。水を田んぼに入れるのは、前にもお知らせしたことのある、人力足踏み水車で子どもたちが踏むのです。写真添付。
人力足踏み水車は、江戸時代中期から昭和20年代まで使われていたもので、近隣の農家の納屋の奥の方に仕舞いこんでいたものを寄付してもらって修理したものです。いずれも、大正時代のものでした。
「スサノオ」の物語をめぐって①②③をブログに掲載していただきましたが、今回は「スサノオ」(番外編)です。
出雲神話とは関係ないと思われます。
我が家の近くに、「スサノオの御陵」があったと言う人がいたのです。
その人はたいへん有名な宗教家の出口王仁三郎です。
小文「霊峰熊山の石積遺跡」をお送りしたことはありましたっけ?
添付します。
矢部 顕
●「霊峰熊山の石積遺跡」
霊峰熊山の石積遺跡
――ピラミッドか、スサノオの御陵か――
矢部 顕
●謎の石積遺跡
我が家の窓から東の方向に熊山という名前の山が見える。標高は508.6mで、このあたりでは一番高く急峻な山である。北麓をJR山陽本線、南麓をJR赤穂線が走っていて交通の便がよいので関西方面からのハイキングの登山者も多い山で、私も学生時代から何回か登ったことがある。眺望はすばらしく、晴れた日には瀬戸内海はもちろん四国の屋島や五剣山も指呼の間で、北には中国山脈を眺め、備前平野を見下ろす絶景の山である。
頂上は平坦部が広く、宗教的にゆかりの深い場所で古い時代の遺跡がいろいろある。国の史跡に指定されている熊山遺跡をはじめ、帝釈山霊山寺という山上伽藍跡や熊山神社、鍛冶神社、猿田彦神社、油瀧神社がある。山上には杉の巨木が密生していて、そのうち2本は樹齢1000年を超える天然記念物で神秘的な雰囲気を醸しだしている。ここに熊山遺跡と呼ばれているマヤのピラミッドに似た形の石積みの構造物があって、より謎めいた空間に霊気が漂っている。
熊山というから熊がいるかというとそうではなく、古代吉備国の東の隅だから隅(くま)山というのや、韓国語のクマは王とか神とか神聖な場所を表す言葉なのでクマ山だとか、いくつか説がある。空海が聖地を高野山に決める前の候補地だったともいわれている神仙の山である。
山頂にある熊山遺跡について『熊山町史』より引用する。「この遺跡は、熊山山頂帝釈山霊山寺戒光院境内跡にある全国に類をみない石積みの遺構である。方形の基壇の上に石をもって三段に築かれたもので、第一段の一辺は7.75mである。第二段の四側には龕(がん)(よこ穴で祭神をまつるところ)が設けられ、中央には縦長の小室がある。小室からかつて陶製筒形の容器(高さ160cm)と三彩の小壺が発見された。現在、陶製筒形の容器は天理市の天理大学博物館に保存されているが、三彩の小壺は不明である」。(地元・赤磐郡熊山町の『熊山町史』より)
●諸説紛々
この石積遺跡はいったい何なのか? 誰が何のためにつくったのか?
いまだ確定的な説はなく、たくさんの学者のいろいろな説がある。主なものをあげてみると、1.戒壇説、2.回壇説、3.仏塔説、4.段塔説、5.経塚説、6.ピラミッド説、7.古代宗教儀式構造物説、8.墳墓説、9.太陽神説、その他にもまだまだいろいろあって諸説紛々である。また、それぞれの説のなかにもいくつもの説があって百花繚乱だ。たとえば墳墓説も、和気清麻呂の墓(熊山北麓の町は和気郡和気町といって、道鏡の宇佐八幡神託事件で有名な和気清麻呂の出身地である)、渡来人の王の墓、この近くにいた高僧の墓、そして、なんとスサノオの御陵説もある。
この遺跡は、かつて存在した帝釈山霊山寺の境内にあって、この寺は鑑真の開基で、山上伽藍には本堂、戒光院、観音堂、鐘楼のほか13坊が室町時代まで存在していたといわれている。鑑真は、唐招提寺戒壇、東大寺戒壇、大宰府観世音寺戒壇、下野薬師寺戒壇とともにここ熊山にも戒壇をつくった。これらが五大戒壇であるというのが戒壇説である。
また、この山の南麓は、日本六古窯で有名な備前焼(伊部焼)の窯元の町で、今は備前市であるが以前は伊部(いんべ)町といった。伊部は忌部であって、古代の神官の忌部一族の地であり、熊山遺跡は忌部氏の古代神祇祀を行った場所という説もある。
仏塔説もいろいろあるのだが、基壇のその下は巨大な磐座(いわくら)があって、弥生時代以前の古い磐座信仰の場所に新たな仏教思想に基づいて作られたという仏塔説もある。
●スサノオの御陵説
「スサノオの御陵である」と言ったのは大本教の出口王仁三郎である。こんな説があることなど私は今までまったく知らなかった。『出口王仁三郎聖師と熊山』という研修資料と記された本が大本教本部から出版されていることを知り、さっそく購入した。「出口王仁三郎聖師ご登山60周年記念刊行」ということで1990年に出版されたものだった。なんと「まえがき」の「編集にあたって」は、大倭でもおなじみの出口三平さんのお名前だった。この本から次のようなことを知った。
王仁三郎は、崩れかかった石積遺跡を修復してきちっと祭祀することを考え、これを奥の院として、西麓の町の国鉄山陽本線万富駅北方の向山(別名・城山)に大本教の宗教施設である中国分院を建設した。昭和9年のことである。その以前、昭和5年に王仁三郎は熊山登山をしている。当時の新聞・中国民報は次のような見出しで報じている。「山駕籠にゆられゆられ けふ王仁さん熊山登り 戒壇と城山の別院候補地を視察 至るところ出迎への人波」。熊山周辺の町村長、助役、岡山市市議ら地元の有力者を含めた近郊の一般人50名、信徒250名、総勢300名がお伴したという記事が掲載されていた。一般新聞の見出しに「王仁さん」と親しみをこめて表現しているのは、当時の大本教の王仁三郎がいかに民衆に人気があったかが窺える。その他の新聞・山陽新報、大阪毎日岡山版、大阪朝日岡山版も同じような記事を掲載している。
昭和10年、大本教は不敬罪ならびに治安維持法違反で宗教弾圧を受けた。第二次大本事件と呼ばれる国家権力による大弾圧で、書籍類は焼き尽くされ、教団施設はダイナマイトで徹底的に破壊された。向山に建設された大本の中国別院も同じ運命をたどった。
春のある日、向山に登ってみた。直下に吉井川の清流を見下ろし、その向こうを見上げると熊山山塊の威容がせまってくる。いまは向山頂上の別院跡には桜が植えられ公園になっていて、今を盛りに満開の花を咲かせていた。当時の破壊された建物の一部の破片が記念碑的に残されていて、その隣には熊山を見つめる方向で、王仁三郎の短歌が刻まれた巨大な歌碑が再建(昭和42年)されていた。奈良時代とも、それよりはるかに昔に建立されたともいわれている熊山遺跡のいのちの長さと、この中国別院のはかなさに想いを馳せたひとときであった。(2013.4.4.)