アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

686 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち ① 後醍醐天皇

2020-03-17 08:47:29 | 日記

④ 建武の新政

「建武政権」の画像検索結果

 

 

 

 


 さて、今回のシリーズは「武士と戦った天皇たち」である。従って、何故後醍醐は倒幕にこだわったかを書いて来たが、その前に「建武政権」と「足利高氏」について考えなければその真相にたどり着けない。

クリックすると新しいウィンドウで開きます              このような落首も出回った。
 まず、建武の新政のイメージというものは、「後醍醐天皇が、時代に合わない非現実的な施策を独裁的に行った。」「公家に厚く武士に薄い論功行賞だった為、武士に不満がたまった。」という政治的な批判や、「怪僧文覚をそばに置き妖術を駆使した異形の天皇だった。」というのも代表的印象だろう。
 これはやはり、『太平記』の影響が大きいと思われる。この「太平記史観」により、後醍醐は三種の神器を保有する正当な君主であるが、暗愚で不徳の天皇でそれを必死に支える「忠臣」の存在が、日本人の精神構造上「判官贔屓」のようなものになって、新田義貞や楠木正成という英雄を生んだ。さらに、不公平な恩賞配分、無謀な内裏造営計画、御家人たちへの重税などの批判が、現代までの普遍的イメージとなったものである。
 また、『神皇正統記』を記した南朝の重鎮である北畠親房や子の顕家でさえも、建武の親政については強く批判をしている。さらに、江戸時代に入って「正徳の治」として有名な新井白石なども、著書の中で他と同様の厳しい評価を下している。それが明治になり南朝を正式に正統と定めるに至り、さらに一層楠木正成を「大楠公」と崇め、建武の新政の失敗を「逆賊」足利尊氏の悪行に責任を押し付けても、後醍醐への批判的見方は太平記史観の域を脱せなかった。
 太平洋戦争以降、一時隆盛を極めたマルクス主義的思考方法が歴史研究にも波及し、建武の新政を、古代への復古を目指した「反動的政権」と見なすことになった。加えて、網野善彦氏が『異形の王権』論を唱えることで後醍醐の「異常人格」像が一層後醍醐のイメージを定着させることに貢献した。
 亀田俊和氏『南朝研究の最前線(建武の新政は、反動的なのか、進歩的なのか?)』には、すべての研究は太平記史観の申し子であり、新政も後醍醐も正統には評価されていないと言い、その根本は「同政権が短命に終わったという事実」に尽きるとしている。すぐに倒された政権は政策に間違いがあったという先入観である。しかし、「政権の寿命と政策の善悪は必ずしも比例しない。」と主張した。
 現在では、建武政権の諸政策を積極的に評価し、その先進性に着目する説が多く出されている。鎌倉幕府から室町幕府の中間に位置する建武政権は、決して反動的なものではなく政策的には連続したもので、むしろ建武政権の諸施策が室町幕府で花開いたとする見方も出てきている。

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文覚上人


 後醍醐天皇像も、決して「異形の天皇」ではなく生き生きとした生身の人間であることが見えて来るのかも知れない。

 


685 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち ① 後醍醐天皇

2020-03-17 08:47:29 | 日記

③ 幕府の実情

「元寇」の画像検索結果

 

 

 

 

 

 さて、この間の幕府の事情を確認する。承久の変で完全に朝廷を抑え込んだ幕府だったが、鎌倉時代の中盤に、結果として幕府滅亡に至る大事件が起こった。「元寇」である。文永11年(1274年)の文永の役、弘安4年(1281年)の弘安の役である。まさに、後嵯峨天皇から後深草天皇を経て亀山天皇に至る「両統迭立」の起因となった時点と重なる。幕府を揺るがす「萌芽が二つ」芽生えた時期であったのだ。元寇は、「神風」をもって守ったが、我々現代の人間はその後、元が衰弱することを知っている訳だが、当時の鎌倉幕府にとっては最大の政治課題は、「九州の防備」であった。外敵に対する備えは、戦乱と違って勝者はいない。従って、論考行賞がない。御家人たちは疲弊するのみである。さらに、幕府の西国支配が強くなったおかげで、幕府官僚たちと公家との関りを持ったことは大きい。「国難」と言われるその当時は一致団結したが、徐々に脅威が去り政治闘争の時代となり、それに朝廷内の2流派の争いが微妙に重なって来る。現在思うほど頻繁な交流というほどではないが、東西の御家人の交流も増えたと考える。東国支配の鎌倉幕府、西国支配の朝廷という関係から始まった鎌倉時代は、中盤から大きく変化した。

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 そのわずか50年後には、後醍醐天皇が登場し倒幕に至るのであるが、幕府支配は、将軍独裁(3代実朝まで)、執権の絶対権力(義時から時宗までか)、そして北条得宗家支配へと変化し、その取り巻きと北条家とは距離のある反北条家の御家人たちに分かれて行く。そして、放蕩執権高時が登場し完全に無力化する。有力御家人の離反が相次ぎ、「敵の敵は味方」とばかりに朝廷(後醍醐)に期待が集まる。足利高氏と後醍醐の合流はこのような背景の中で、誠に危うい、あやふやなものであった。

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新田義貞


 また、源氏である足利家も新田家との確執があり、平氏である北条家も分裂に分裂を繰り返し、藤原家も皇室もそれぞれ分家を繰り返していた。収拾がつかないそれぞれの細分化した名門家を完全に統括する「聖主・賢王待望」の気運が高まっていた。『太平記』序文にあるように、「天の徳を体し、知の道に従う」ものが世を治め太平の世を迎えるのだという庶民感情も高まっていた。
そこに現れた、延喜・天暦の時代(平安中期、醍醐天皇・村上天皇)の天皇親政を目指す後醍醐天皇に一瞬「聖主・賢王」の幻影を見たのかも知れない。