② 倒幕の必要性
大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の花園天皇から譲位されるが、大覚寺統内部では、後醍醐の異母兄の後二条の皇子(邦良)へのつなぎの天皇だったのである。従って当時、後醍醐は「一代の主」と言われた。政治的野望のある後醍醐天皇にすれば、自らが地位にあるうちに天皇親政を成し遂げる為には、持明院統に戻すわけにはいかず、その背景には幕府の存在が大きく立ちはだかり、必然的に「倒幕」が現実的になって来るのである。
亀山上皇
そのあたりを、森茂暁氏『後醍醐天皇』から詳しく見ると、まず亀山上皇について触れねばならない。この方は非常に魅力的な方であったようで、両親に可愛がられ兄後深草から譲位を受けて践祚した。本来なら天皇になれなかったはずであるが、さらに自らの子に譲位した。後宇多天皇である。さらに女性たちにも恵まれ、記録に残るだけでも16人の女性から23人の皇女・皇子を残している。高貴な方は子孫繁栄が最大の使命だから決して好色と言ってはならない。恋多き天皇だったのだ。とりわけ晩年50歳半ばでできた恒明親王を何とか皇位につかせようと必死に動いた。政治力を駆使し持明院統とも幕府とも約束を取り付けた。しかしその約束が実行される事はなかった。持明院統を経て後宇多上皇は弟恒明ではなく子の後二条天皇に即位させる。従って、冒頭に書いたように後二条の弟の後醍醐天皇に即位させても決してその後は子の邦良親王でなければならなかった。父亀山との約束を守らなかった後宇多にすれば、やはり実行されないかも知れないと危機感をもっていた。一方、後醍醐は実行する気はもうとう無かったのだ。因みに、邦良親王の妃は、後宇多上皇の皇女である。孫に自らの愛娘を与えるという念の入れようであった。
後宇多上皇
そんな状況の最中に、後宇多・邦良親子が相ついで崩御する。すでに後宇多上皇の院政を停止させて親政を行っていた後醍醐の敵は、持明院統とそのバックにある幕府だけとなった。早々に東宮争いが起こって、邦良の同母弟、先にかいた後宇多の遺児恒明、持明院統の後伏見の子などが候補となった。そして両統迭立の原則で、新しい東宮は持明院統の量仁親王(光厳天皇)となった。しかし、大覚寺統の再分裂の影響も大きかったと思われる。
後醍醐天皇
ただし、後醍醐と後宇多との関係は、近年の研究ではむしろ良好であったとの説が有力である。中井裕子氏『室町・戦国 天皇列伝』を参考に若干触れると、後醍醐の生母五辻忠子は、途中から後宇多から舅である亀山の寵愛へと移っていく。そのお陰で母を通じて遅まきながら後醍醐は宮廷内の地位が上昇している。しかも、父後宇多と同居していた時期もあり、兄の後二条同様に可愛がられ兄の死後は、大覚寺統に伝わる荘園の相続を受けていたのである。後醍醐が東宮(尊治)時代に荘園に関する決定を行っていたことを権力志向の強さとする説があるが、むしろ後宇多に信頼されていた証だという。通説は覆されつつある。
いずれにしても、後醍醐の倒幕計画に時間の猶予がなくなっているのは事実だ。