① 父子不仲
後陽成天皇の第3皇子、政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。本稿は、熊倉功夫『後水尾天皇』中公文庫2010年を参考にする。」
後水尾天皇
その生誕の時代背景は、戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であった。父後陽成天皇は、早く譲位して院政を行いたかった。戦乱の世の中が続き、皇室の権威が失墜した為、長く院政という時代がなかった、いや出来なかったのだ。幼い自分の子である天皇を支えて父が「院政(治天の君)」を行うのは、朝廷権威の象徴だったのに、譲位や即位には余りにも莫大な金がかかる。その様な資金力は朝廷単独では到底無理だったのだ。
後陽成天皇」
後陽成天皇は、しばしば譲位を申し出るものの、徳川家康が許さなかった。後陽成は子への愛情が薄かったのか、なぜか第1皇子も第2皇子も門跡寺院に出してしまった。実は、弟の八条宮智仁(としひと)親王への譲位を考えていたのだ。しかし智仁親王は、以前豊臣家の養子となっていたことがあり徳川幕府からは承認されるはずはなかった。因みにその後「桂離宮」を造ったことで有名である。
幕府からは、仕方なく第3皇子の後水尾天皇への即位を勧める。従って、後陽成自らの意志というより幕府の後押しで即位となった為、後水尾との親子関係は終生良くなかった。譲位後も、諸道具や書類を引き渡さないなど険悪なムードさえあったという。
清和天皇」
因みに、水尾天皇とは、右京の水尾村に御陵がある平安初期の清和天皇のことだが、清和も本意ではなく兄の惟喬親王を差し置いて即位している。当時は、藤原良房の時代でありその権力闘争の結果であったのだ。同じ境遇の水尾の追号を望んだのである。後鳥羽、後醍醐とは、事情は異なるが前天皇の第1皇子からの平和裏に即位したものではなかったのは同じだ。