アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

689 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ①父子不仲

2020-03-23 08:28:14 | 日記

① 父子不仲

 後陽成天皇の第3皇子、政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。本稿は、熊倉功夫『後水尾天皇』中公文庫2010年を参考にする。」

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後水尾天皇

その生誕の時代背景は、戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であった。父後陽成天皇は、早く譲位して院政を行いたかった。戦乱の世の中が続き、皇室の権威が失墜した為、長く院政という時代がなかった、いや出来なかったのだ。幼い自分の子である天皇を支えて父が「院政(治天の君)」を行うのは、朝廷権威の象徴だったのに、譲位や即位には余りにも莫大な金がかかる。その様な資金力は朝廷単独では到底無理だったのだ。

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後陽成天皇」


 後陽成天皇は、しばしば譲位を申し出るものの、徳川家康が許さなかった。後陽成は子への愛情が薄かったのか、なぜか第1皇子も第2皇子も門跡寺院に出してしまった。実は、弟の八条宮智仁(としひと)親王への譲位を考えていたのだ。しかし智仁親王は、以前豊臣家の養子となっていたことがあり徳川幕府からは承認されるはずはなかった。因みにその後「桂離宮」を造ったことで有名である。
 幕府からは、仕方なく第3皇子の後水尾天皇への即位を勧める。従って、後陽成自らの意志というより幕府の後押しで即位となった為、後水尾との親子関係は終生良くなかった。譲位後も、諸道具や書類を引き渡さないなど険悪なムードさえあったという。

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清和天皇」


因みに、水尾天皇とは、右京の水尾村に御陵がある平安初期の清和天皇のことだが、清和も本意ではなく兄の惟喬親王を差し置いて即位している。当時は、藤原良房の時代でありその権力闘争の結果であったのだ。同じ境遇の水尾の追号を望んだのである。後鳥羽、後醍醐とは、事情は異なるが前天皇の第1皇子からの平和裏に即位したものではなかったのは同じだ。

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番外  コロナ騒動

2020-03-23 07:15:42 | 日記

昨日、大相撲大阪場所が千秋楽を終えた。

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白鵬が優勝した事以外は、異例ずくめだった。取り組み終了後、無観客の客席(テレビカメラ)に向かい協会挨拶があった。通常は千秋楽の取り組み途中にあるのだが、全幕内力士を左右に集めて行ったものだが、その内容が、良かった。なんと、八角理事長がしばらく絶句した。感極まってしゃべれなかったのだ。無観客とは言え開催に踏み切ったプレッシャーは相当なものだっただろう。いずれの判断をしても心無い批判は必ずあるものだ。相撲を、「神事」であると強調した挨拶内容は初日に続き相当練ったものと思われる。力士の体は健康な人間の姿を現し、四股は邪気を鎮める神事なのだ。コロナウイルスという邪気が蔓延している現在、中止してはならないのである。

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この時期ある「祭礼」は、すべて季節の変わり目に発生する「流行り病」を鎮める願いを込めて行う。祇園祭などは、鉾のてっぺんの刃で邪気を取り込むという。このように、国難の今こそ宗教界は立ちあがらなければならない。東日本大震災の時には、三千院の完全秘仏の御本尊を厨子からお出ましを頂いた。人目に触れたことの無い輝く黄金の輝きには相応の御利益があったと思う。当然、民衆が殺到することは避けねばならない。筆者は、本来の「祭礼」をやってもらいたいと言っている。「おまつり」ではない。非公開の「儀式」でも良いのではないか。

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御神輿巡行は、遷座と言い「本殿」から「御旅所」に移し、町内領域をめぐって災いを鎮める意味がある。また、神様に世間をお見せして慰める意味や、また、近くの川や海で清める意味もあるのだそうだ。しかしそこは全知全能の「神様」だ。神殿の奥深くにいて我々を救っていただこう。ここから始まる祭礼シーズン。決して中止せず、非公開で実施してもらいたい。

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