アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

687 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち ① 後醍醐天皇

2020-03-19 08:27:23 | 日記

⑤ 高氏との関係

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

                          足利家系図
 足利尊氏は、高氏から後醍醐天皇の諱である「尊治」から一文字を下賜されて尊氏と名乗った。従って、建武政権当初二人は良好な関係であったことは間違いがない。鎌倉で幕府を倒したのは新田義貞だが、倒幕の第一功労者は尊氏その人であった。しかし、歴史的に尊氏の評判は最悪だ。
幕府執権の北条家の一族に連なる足利家は、北条得宗家に継ぐ待遇を受けていた名門であった。しかも源義家を源流に持つ源氏の総帥でもあった。(そのあたりは諸説あり怪しいが)要するに北条家を除くと一番幕府に近い家柄のはずだったのだ。それが裏切ったのだ。菩提寺「鑁阿寺」に残っていた※「願文」には三代後には天下を束ねると書いてあり尊氏がその三代目であったとか、当時の征夷大将軍は宮将軍(皇族から将軍を迎えていた)だったのでそれを狙ったとか諸説あるが、裏切った事実は間違いない。さらに、その後、後醍醐とも決別し北朝を立てるが、それも一時裏切る。最後は最愛の弟直義を裏切って殺害する。

「足利直義」の画像検索結果

 

 

 

 

 


 話を建武政権に戻す。尊氏の話だ。鎌倉幕府崩壊後、最後の執権高時の遺児時行(ときつら)の反乱「中先代の乱」の鎮圧の為鎌倉に転戦後、後醍醐の要請を受けて京都に戻る際、弟直義に「京都は危ない殺される。」と進言され出家し籠ってしまう。その後、足利討伐の院宣を受けて新田義貞が鎌倉に攻め込んできた時、劣勢の弟直義を見殺しに出来ないと再び出陣する。
このように数々のエピソードや経緯を見て行くと英雄のかけらもない。歴史的研究でも、優柔不断なところが多く、八方美人とも言われている。室町幕府設立という武家社会の英雄なのだが、計画的に物事をすすめ「野望」を「勝ち取った」とは到底思えない。それでも後醍醐政権である建武政権の一番の侍大将は尊氏だったし、いずれ征夷大将軍の称号も望めたかも知れない。

 

「鑁阿寺」の画像検索結果

 

 

 

 

 

鑁阿寺


 実際、後醍醐天皇はかなりの数の御家人を登用している。結果として、お二人とも時代の英雄なのだが、時代を見通す眼力とバランスある政治力を有していれば二人の関係性には違う姿もあったのだ。また、素朴な疑問として後醍醐天皇が完全に武士を敵視するのなら尊氏に諱を与えるほど重用しないだろうとも思う。後醍醐天皇は、持明院統の背後にある鎌倉幕府を敵視したのであって、武士そのものを敵視したものではなかったのではないか。

※ 八幡太郎源義家が「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文を残している。義家の七代の子孫にあたる足利家時は、自分の代では達成できない事を悔い、八幡大菩薩に三代後の子孫には天下を取らせよと「願文」を残して自害した。三代の子孫とは足利尊氏・直義兄弟だ。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする