アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

941回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑦

2023-01-09 10:24:16 | 日記

第7章 研究の総括

 ここまで光格天皇の前半について論じて来た。ここで箸休めの話を書きたい。光格という諡号についてだ。尊号・追号とも言うが、格調の高い良い名ではないか。因みに、諡号に「光」がつく天皇には共通点がある。光仁天皇・光孝天皇などが分かりやすいが、奈良時代末期の光仁天皇は桓武天皇の父で、弓削道鏡事件で有名な称徳天皇(女帝)の後を継いだ天皇だ。天武天皇系から天智天皇系に皇統が変わる一大変化の節目をつないだ天皇だ。また平安中期の光孝天皇も陽成天皇の突然の退位を受けて3代さかのぼりすでに55歳の高齢で急遽即位した天皇だ。いずれもその後は両天皇の皇統で安定する。つまり新しい皇統につないだ天皇、言い換えれば皇統の断絶を救った天皇なのだ。中国にも「光」のつく皇帝には同様の意味合いがあったようで、媒質を必要とせず、真空でもまっすぐ伝わる「光」は「永遠に伝える、またつなげるもの」としての深い意味があったようだ。

刀剣ワールド】光格天皇

従って、後桃園天皇崩御後の皇統の危機を救う光格天皇に崩御後贈る「名」には「光」の文字を入れるのはそのような深い思いがあったと思う。(当然、崩御後贈られる諡号だが生存時から用意されることもある。)しかし、この天皇の素晴らしいのは、単に繋ぎに留まらず皇室の復古及び一大改革を成し遂げたとんでもないお方なのだ。

  • 前期光格天皇の姿 

 刀剣ワールド】光格天皇

 ここまで光格天皇の前半期における3大重要事件を詳しく見て来た。そこからは、傍系から幼少にして即位した天皇が、3事件を通じて成長する姿が見えて来た。

「御所千度参り」では、光格天皇の叡慮を受けた公家衆の幕府への遠慮がちな動きが分かった。一方、天皇よりもむしろ後桜町上皇や関白鷹司輔平が主体的に動いたこと、また、御所に住まう公家衆が積極的に民衆への施しを行うなど、皇室と民衆の身近さも理解できた。このあたりは、森田登代子氏『遊楽としての近世天皇即位式』(ミネルヴァ書房 2015年)に詳しい。

また、「御所造営問題」では、光格天皇が君主意識を強く持とうとし、自らの意志(叡慮)を強く表明し始めた。まさに、青年天皇のデビューとも言える姿がうかがえた。加えて、その実現の為に忠実に幕府と交渉を仕掛ける鷹司輔平の姿もあった。そして「尊号一件」では、若くして御親政を行い完全に自立しようとする光格天皇の強い意思と姿がうかがえた。さらに、ここまで忠実に接し頼りにもして来た鷹司輔平との決別を決断し、幕府に対等な姿勢で要求を通そうとする堂々とした天皇の実態が分かった。そこには、この時まで共に和歌や古典を学習し、その勉強会を通じて形成された若い公家衆の意見が背景にあったと思われる。ただ、最終的には後桜町上皇の「御諫め」には抗えず、天皇デビュー以降最初の敗北、挫折を知る。

その後は、和歌研鑽を通じて文化的な復古活動に専念して行くことになったと思料する。その中期以降の光格天皇研究については今後の課題としたい。

 

  • 光格天皇とその時代

江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定する(新暦9月9日 ...」禁中並び公家諸法度」第1条

序章で、筆者は、「禁中並公家諸法度」で完全に統制化された朝廷が、突然幕末に、日米修好条約の「勅許問題」とか、幕府滅亡につながる「大政奉還」となり、突然朝廷が政治の表舞台に登場することに興味をもっていたことが研究のきっかけと書いた。江戸幕府発足時の後水尾天皇から、幕末動乱時の孝明天皇はそれぞれ理解できるが、その間の朝幕関係が、長く疑問であった。「大政奉還」というが、「奉還」すべき「大政」はいつ幕府に委ねられたのか。幕府の発足をもって「大政が委任」されたのならば、あたかも朝廷を支配するような「禁中並公家諸法度」の必要性がないではないか。

 それについては、家近良樹氏の『幕末の朝廷』(中公業書 2007年)で、孝明天皇について論じる際に、「江戸時代中期には、とうてい考えられない高度な権威を、天皇・朝廷はいついかにして身に着けたのか、」を近世史の立場から解明したのが藤田氏であると言い、多くの著作の中で、「天皇・朝廷勢力の主体的で、執拗な戦い」が、「孝明天皇の精神的バックボーンになった。」という藤田氏の研究を紹介している。(第1章 29頁)

 南北朝時代までは、朝廷の権威の裏付けを奪いあった時代であった。しかし、応仁の乱から戦国時代は、天皇・朝廷の権威低下と、何より財政的な困難から朝廷儀式もままならない時代を経て、皇室を崇拝しその権威を利用し覇権を争う時代が来る。織田信長が時代を切り開き、豊臣秀吉が朝廷のトップである太政大臣になり朝廷の財政は一時的に繁栄するが、徳川家康が幕府を開くと、「禁中並公家諸法度」で、幕府の支配下に朝廷を置いた。そこから幕末の尊王・倒幕運動へと時代変遷が、「光格天皇とその時代」を見て行くことで、その転換期である事がよく分かった。(筆者感想)

 「御所千度参り」では、天皇が事態を憂慮して関白鷹司輔平をして、窮民救済策を幕府に講じるように命令したという「偽勅」が出回るほど、すでに時代は民衆(少なくとも京都では)が天皇(朝廷)に具体的施策への期待をしていたことが分かった。

徳川家斉が俗物将軍と言われた本当の理由~子供の数は53人  江戸幕府11代将軍 家斉

また、天明7年「大嘗祭」の時に、将軍家斉へ光格天皇が贈った和歌では、

民草に露の情けをかけよかし 代々の守りの国の司は

と、若い17歳の天皇が、同じく若い15歳の将軍に対して和歌に託して「仁政」の実行を求めている。このような君主意識はどのように育んだのかを考えてみた。それについては、橋本富太郎氏が、「後桜町上皇から光格天皇への御訓育」(『京都産大日本文化研究所報』24号7P2018年)の中で、光格天皇が傍系からの皇位継承であった為、殊更に理念的な天皇像を追求したとする説に対し、こうした理念性は歴代に普遍的に存在するもので、光格天皇のような境遇にのみ出現するものではないとした。しかし一方で、同氏は、光格天皇の場合、後桜町上皇という優れた指導者をもっていたことが重要であるともしている。このあたりは、今後の研究課題としたい。

つまりは、飢饉にも見舞われた江戸時代後期の背景(天変地異と各改革の失敗による幕府権威の失墜)など様々な要因と、光格・後桜町両天皇の修養と訓育の良好な関係、さらには実父典仁親王や叔父鷹司輔平などとの関りの中で光格天皇の君徳が涵養されたと考える。(筆者感想)

 

 

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940回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑥

2023-01-09 10:24:16 | 日記

第5章 光格天皇を囲む人たち

光格天皇の周囲を囲む人たちを紹介する。松平定信以外は皇室に連なる御親族の方たちである。筆者はどの方もみんな人格・教養において別格の存在感があると思っている。特に、後桜町天皇は現在で最も最近の女帝であるが、献身的な指導・訓育を光格天皇に対して行っている。現代にいたる日本の皇室の最大の功労者と称えて良いと思う。

  • 閑院宮典仁親王

800px-Prince_Naohito_2.jpgの画像典仁親王

 光格天皇の実父である閑院宮典仁親王については、「典仁親王」若松正志 (『歴史読本』819号2007年)と、「閑院宮家の創設」若松正志(『日本の宮家と女性宮家』所功編 新人物往来社 2012年)から見て行く。親王は、享保18年(1733年)に、閑院宮初代直仁親王の第2王子として生まれた。異母兄弟は多いが、そのうち7歳下の異母弟淳宮は、五摂家の一つ鷹司家を相続した関白鷹司輔平であり、光格天皇の即位後、重要な役回りを演じる。

 また、典仁親王は、9歳で桜町天皇の猶子となり正式に親王宣下を受けている。実子の光格天皇が即位した後には、一品(※)に進んでいる。妃である中御門天皇皇女成子(ふさこ)内親王以外に多くの女房(大江磐代君もその一人)がいて、王子・王女を多く残した結果、門跡寺院の後継者の供給に貢献し、そして何より皇統への備えに応えた。そこから考えると、閑院宮2代目として、十分な役割を果たしたと言える。(若松氏)そして、寛政6年(1794年)62歳で亡くなり蘆山寺の御陵墓に眠っている。そして、明治になって「慶光天皇」と、追号が贈られた。

 一方、光格天皇の即位の経緯に於いて典仁親王の関与や、即位後の天皇への助言については和歌の指導以外にはその具体的なかかわりは不明であるとされている。さらに、尊号一件についても、当事者でありながら残念ながら本人の考えなども不明である。しかし、和歌については、自身有栖川宮職仁(よりひと)親王から学び、後桜町上皇からは御所伝授を授かり、光格天皇に和歌を教えた言われている。そして、近年の研究で、若松氏は「親王が光格天皇の和歌教育や、さらには宮廷歌壇の隆盛にいくらかの影響を与えたものと思う。」と述べている。筆者はそのことを通じて政治的なアドバイスもあったと考える。しかし、一方で様々な政治的事情から天皇への影響力が表面化しないように深く配慮したとも考える。

 若松氏の論文において、最後に、「親王の和歌や書道などの文化的活動(中略)すなわち、親王の宗教的・文化的な役割の解明は、これからの課題である。」と締めくくっている。

 

※品位とは天皇と皇太子を除く皇親の序列を示すものであり、一品親王は皇親の筆頭的な地位にあった。ただし、品位そのものは天皇との親疎は勿論のこと当該皇親の母親の出自や年齢、経歴、その他社会的評価に基づいて叙せられる場合が多く、一品親王と皇位継承との関連性は全く無い。立場的には、正一位・従一位と同等である。(フリー百科事典ウィキペディアより引用)

 

  • 鷹司輔平

鷹司輔平 - YouTube

系図を見ると、摂関家の鷹司家の後継として養子となるが、輔平は光格天皇の叔父にあたり皇位継承者でもおかしくない血統に位置する。くしくも「尊号一件」に奔走するが、関白である為、弟でありながら実兄の典仁親王よりも上位に位置することになっていたわけである。まことに皮肉な状況にあったのだが、「寛政度御所再建」までは光格天皇の意向を受けて誠心誠意交渉していた。しかし、尊号一件の途中から、天皇の勅問に対して婉曲ではあるが反対に転じたり、松平定信への書状で朝廷内部の情報を積極的に伝えるなど変心したように見受けられる。若い天皇の暴走を、関白として叔父として諫めるつもりだったのが、いつの間にか守旧派として反対勢力になってしまうのは、歴史上よく見受ける事であるが、輔平がどのような心の変遷を経たのかは今後の研究の課題としたい。

ただ、光格天皇の鷹司輔平についての御心持は、『光格天皇』(藤田覚 2018年)の「天皇の関白への不満」で、「関白においては一向一慮なきも、甚だ迷惑の事に存じ候」(『宸翰英華』から)と、深刻な関係性を紹介している。また、尊号一件についても、「所詮先例のみに拘泥候ては、一向何ごとも裁決つかまつり難く候あいだ、」という輔平への批判・不満とも取れる天皇の心情を紹介している。

 

 

  • 松平定信

 日本史から学べる教訓 vol.23 松平定信【リーダーが ...

定信は、御三卿のうち田安家宗武の七男として生まれ、8歳で早くも「輔位の賢相」(将軍を補佐する賢明な宰相)になりたいと心願していたという。兄の治察が田安家を相続した為、定信は17歳で陸奥白河藩主松平家の養子となった。ところが、その年に兄が死去した。まだ田安家に居住していた定信に、松平家から戻って田安家を相続することを幕府に要請したが認められなかった。後世、『宇下一言』で定信は、政敵田沼意次の横やりだったと指摘している。もしかしたら将軍に就くかも知れない田安家なので、定信の才能を見抜いていた意次の考えとも言われている。その為、定信は終生意次を憎しみ続けることになる。事実、御三卿の一橋家から家斉を将軍に迎えることになるので、定信が将軍になる可能性は十分にあった。

さて、尊号一件のところで、定信については徳富蘇峰氏から藤田覚氏への研究の変遷を見て来たが、さらに詳しく、『松平定信』(高澤憲治 吉川弘文館 2012年)で見ると、高澤氏ははしがきで、「おそらく、彼ほど死後にいたるまでの世間の評価を意識して、イメージ作りに努め、それが成功した人物は、いないのではないでしょうか。」と、断じている。「御所再建」についても、約81万両の造営費のうち約半分のみを負担したに過ぎず、残りは大名に転嫁したのである。それでも、天皇・上皇から功を賞されると、すぐに自家の家譜に記載させ、後には自伝である『宇下一言』に記し、「自らの栄誉を藩内に誇示している。」と指摘している。また、「尊号一件」の時も、事後、将軍が「首尾よく取り扱ったことは、越中守(定信)の功績であると伝えるよう。」に別の老中に申し渡しているが、これは、定信が、将軍に要請した結果であろうと、している。(同 122頁)このように『樂翁自伝』や『宇下一言』を主体とした先行研究にさらに踏み込んでいる。また、定信が老中就任以来頻繁に出した「辞任届」も、本心ではなくそれが慰留されることで将軍の信頼を確認したり、引き換えに人事を存分に行うなど、政治的に利用して来たと見抜いた。しかし、その後、彼の独裁的政治手法に反発が強まり、定信36歳の寛政5年、自分ではあわよくば大老昇進も予想していた定信に、老中と将軍補佐の解任の内意が伝えられた。憤慨した定信の求めに応じ少将への昇進などは認められたが、将軍補佐は解任される。その折、三奉行や目付たちに挨拶した時の弁明で、

  • 何度も辞任を願い出ていて慰留されてきた。
  • 将軍の御意向にもとづいて職責を果たしたにすぎない。
  • また機会があれば相応の御用を勤めたい。

などと語ったことも、「辞任の真相を隠蔽しているが、ここからは未練がましさがうかがえる。」とかなり厳しく論じている。

確かに、幼少の将軍を補佐していると、自らの考えをあたかも将軍の意向から発したこととして政治をすすめたこともあったと思う。しかし、将軍家斉もこの年20歳をむかえている。15歳で将軍に就任し、その直後から訓育を含めて接して来た定信からすれば、自ら政治判断欲求が芽生えて来た青年将軍との軋轢に悩んだに違いない。優秀な補佐役が身を引くタイミングは、極めて難しいと、現代の会社組織でもよく聞く話だ。光格天皇における鷹司輔平との関係も同様だと推察する。(筆者感想)

 

  • 後桜町女帝

 皇室史上、最後の女帝・後桜町天皇にまつわる聡明で慈悲深き ...

後桜町女帝については、所京子氏の研究から「譲位後の後桜町女帝に関する『実録』抄(上)」(『藝林』180頁~193頁平成29年)と、「後桜町天皇(女帝・上皇)の御生涯と御事績」(『藝林』63巻2号71頁~107頁平成26年)を参考に、その功績の一端を書く。

論文冒頭の「要旨」には、「歴史上、女帝は10代8人いらっしゃり、中継ぎ役を果たされた。しかし、在位中の大任を果たされた上に、その実体験を後継者に伝えておられた。その代表的具体例が後桜町天皇である。」として、「弟の桃園天皇の崩御に際し、幼い遺児の英仁親王の成長まで約8年間天皇として努められながら、英仁親王の養育にも努力された。成長した親王(後桃園天皇)に譲位されるが、その天皇も早世され、後桜町上皇40歳で、傍系からの光格天皇の訓育にも努力されることになる。人君としての御心得を『論語』を通じて示されるとともに和歌のご指導を通しても行われた。」と紹介した。

本文には、元文5年(1740年)に、桜町天皇の第2皇女として誕生した後の後桜町天皇(以茶宮いさのみや)の御幼少期の様子が詳しく書かれていて、内親王としての宮廷の生活の様子がよく分かる。また、緋宮(ひのみや)、智子(さとこ)と名前を変える後桜町天皇の、温和な人柄がエピソードを交え書かれている。

その中で、宝暦9年内親王17歳の時、皇族最高の一品が宣下されている。この事について、所氏は「当今の御姉」であるのみならず、それ以上の期待が込められていたからではないかと、重要な示唆をしている。その後、桃園天皇が崩御し、「遺詔」に従い速やかに、子の英仁親王(後の後桃園天皇)の成長までの中継ぎの天皇として23歳での践祚となった。この経緯について、所氏は、当時の内親王は、十代後半までに宮家や摂家に嫁ぐか、尼門跡寺院に入られるケースが多い中、独身のまま最高の一品を授けられ、新造の御殿に住まわれていたことを紹介し、この様な特別な待遇を受けられていたのは、万一を憂いて皇室に留め置かれたのであろうとしている。(第4節 践祚前後の御見識)しかも、寛延3年(1750年)には幕府から300石の進献をされている事から、朝廷が門跡寺院への入山を考えていなかったことを幕府も知っていたと、巻末補注で久保貴子氏の研究を紹介している。

この辺り、若松氏の2019年11月21日の講演で、筆者質問に対して氏は「後桜町天皇の即位式などの発言やその後の幼少天皇や傍系からの天皇への指導、ご自身の和歌など文化的素養から見ると、深く教育されていた。」との見解を示された。

そして、「第8節光格天皇の御後見」では、後桃園天皇も22歳で崩御された非常事態に、傍系の天皇に皇統を繋ぐに際し、「それを迅速に運び成功せしめられたのは、後桜町上皇の御人徳と指導力によるところが大きい。」と述べて絶賛している。後桜町上皇の幼少からの人格と知力・品格は別格なものであったのだろう。

 

  • 生母大江磐代

 

 光格天皇の実母は、延享元年(1744年)倉吉で誕生後、9歳の時、父に連れられ上京し、数奇な運命により明和3年23歳で閑院宮家に奉公する。幼名「つる」から、典仁親王の寵愛を受け28歳で祐宮(後の光格天皇)を産んだ時は「とめ」、その後「かく」「交野」そして「磐代」と改名を繰り返し、親王崩御後落飾し蓮上院となって69歳で亡くなり、親王の墓と同じ蘆山寺に眠る。 

その大江磐代については、『大江磐代君顕彰展図録』(倉吉博物館2012年)を参考に見て行く。

それには、いくつかの直筆の書状が掲載されているが、館長である根鈴輝雄氏が、「大江磐代君の書状について~手紙にしたためられた心情~」という文章を寄せている。それによると、閑院宮典仁親王の子を産んだことを、母には、「おそれ多御事」と書き、自分のような身分の低いものが皇族につながるお子を産んだことを受け止められない気持ちを表現している。わが子が皇統を継ぐことになった時も、身辺に起こった事柄は伝えず、「細々と話したいことがあるが、人目があるので差し控える。」と、言いたい気持ちはありながら口をつぐんでいる。「細々」とは、祐宮が践祚したことだけでなく、何人かの子の死亡の悲しみもあったとも思われる。しかし、伝えることは叶わないと諦観していた。また、「結構な暮らし」だが外出は叶わず「窮屈」だとも書いている。庶民の生活を知っている磐代君の本音であるが、「近くであればもっと援助が出来るのに」と書いていて、あくまでも慎ましく、若くして分かれた母への孝行心が伝わるものである。

 根鈴氏は、その篤い孝行心は、子の光格天皇に受け継がれたものと考えた。尊号一件もその孝行心から出たものであるとした。さらに、弟の聖護院法親王が、晩年母(磐代君)をしばしば訪れ見舞っていることや、そして、光格天皇自身も、母と呼び交わすことも出来なかった事を残念に思っていて「(せめて)死後は親孝行をさせて欲しい。」と遺言し、位牌は崩御後、妃の欣子内親王(新清和門院)によって、蘆山寺に安置されている事などを記している。それもまた、母磐代君の人柄によるものとした。

 大江磐代君は、地元倉吉市では、「国母様」と仰がれていたが、公式には天皇の生母でありながら、長く「隠晦」(※)に属することとされ、顕彰活動の形跡はなかった。明治11年に、かろうじて正四位を贈位されたが、他の生母に比べ一段低い位置に置かれていた、明治35年になって従一位を贈与されたのをきっかけに顕彰活動が本格化した。そして、明治44年百年忌には、地元倉吉市に、関係者の悲願であった「大江神社」が創建された。平成9年には、老朽化した大江神社は一旦解体され、同11年に再建されている。『大江磐代君顕彰展図録』

 

※隠れくらますこと。秘められてあること。(精選版 日本国語大辞典)

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939回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑤

2023-01-09 09:51:08 | 日記

第4章 前期3事案の総括

光格天皇

 光格天皇の前半生の3大事件をまとめた。明治維新の尊王の動きにつながる幕府と皇室の変化の兆しが見事に浮かび上がった。しかも、それが傍系からの即位であった天皇がきっかけとなっている。皇室でも将軍家でもそして現代の企業経営者でも多くみられる「傍系の改革力」は侮れない。

 改革は、よそ者・若者・変わり者と、よく言われるが皇室にも例は多い。「不測の天運」に導かれたのは、後鳥羽天皇や後白河天皇・後醍醐天皇もその例であり神に選ばれ改革の寵児である。しかし、これほど見事に正確にしかも時代を見通した天皇は他に知らない。

The prince Sukehito Kanninn.jpg典仁親王

 しかも70歳まで長寿を誇るこの天皇だが、ここまでで25歳前後とまだまだ先は長い。現代ではまだ社会人のスタートを切ったばかりの若者だ。実父典仁親王や叔父の鷹司輔平の存在、そして後桜町上皇の訓育は大きなものであったと推察する。

典仁親王(尊号 慶光天皇)陵墓 蘆山寺内

 

 

事件の概要

朝幕関係

光格天皇

御所千度参り

 

天明の大飢饉で、近隣の庶民が京都御所周辺を、救済を願って巡り、それに対して天皇や皇室・公家が動いた。

一見すると宗教的な「千度参り」だが、かなり政治的な行動で幕府に聞き入られなかった為の庶民による天皇への直訴。

地域社会の安全を願い行われてきた千度参りのあり方が活用されたもの。

単なる「祈願」であった民衆運動に、「米の廉売など政治的要求」を「訴願」する者たちの思惑が入り込み変化。  

大政委任論を覆す前代未聞の事態。

天皇権威の回復から幕末の尊王・攘夷運動での皇室の政治的役割を考えれば京都固有の運動。

朝廷が幕府の政策に意見言うのが当たり前に。

公家諸法度に違反し幕府の施策に口出しした。

当時の庶民と天皇の関係性や幕末にかけての朝幕関係に大きく影響。

天皇への見方が、一層「生神視」する方向に。

 

 

寛政度御所再建

 

天明の大火で焼失した御所の再建で、朝幕が意見対立した。

御所の再建を裏松固禅の復古式で行うように要求。古義に沿った朝廷の儀礼を復活させる為には、儀式の場である紫宸殿・清涼殿・神嘉殿などが平安朝の規模である事が必要。

 

幕府は仕方なく要求通り再建。

今後の新しい要求には断固拒否する方針へ。

御所千度参りを経て、朝廷が対等に幕府に要求して来たもの。

松平定信と鷹司輔平との人間関係が構築される。

 

・天皇側

天皇親裁が明らかに。

幕府と対等に交渉しようという姿勢。

・老中松平定信

皇室への崇敬を幕府権威の回復に。また、御所再建工事を経済的起爆剤に。

尊号一件

 

天皇の実父閑院宮典仁親王への太上天皇の尊号を幕府に要求した。

 

朝廷は前例をたてに尊号宣下を迫る。

幕府は老中松平定信を中心に、返事を先延ばし。

幕府の「治済大御所問題」との関係で複雑に推移。

 

結果、朝廷の敗北で高級公家の処分へ。

 

後桜町上皇が諫める。

朝廷(天皇)には既に対等関係という意識。

幕府は、老中松平定信が、返事を引き延ばしながら拒否。最後は強行手段に出て関係公卿を処分。

大政委任論を根拠に賛成派の公家を直接処分。

結果、幕府政権の矛盾とも言える一層の尊王思想を助長することに。

光格天皇が、朝廷内の体制を固めて、先例を示し執拗に要求し、幕府の承認なくとも強行しようとした。

主体的に朝廷政治を主導し関白を罷免してでも実行しようとした。

 

後桜町上皇の諫めの影響もあり断念。

即位後初の挫折?

筆者作成

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