アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

954回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑩

2023-01-24 08:39:43 | 日記

その3 古代の人間性「その前に、古代の性の営みについての表現」

道祖神の意味とは?佐賀にある鏡山道祖神が立派すぎてやばい ...

 これから天皇家の皇位継承を通じて皇室の先進性を見て行くのだが、古代での性についての表現について書きたい。

そもそも男女神であるイザナギ・イザナミ尊の夫婦の営み(セックス)で日本の国が誕生した。最初、女性神であるイザナミ尊から誘ったために水子が産まれたので、今度はイザナギ尊が誘ったら多くの神たちが産まれたとされている。つまりセックスは男から誘うのが正しいと教えている。漢字で表記すると、伊弉諾・伊弉冉は「誘い誘われ」とも読める。なお、イザナミ尊の死の原因が火の神である我が子の誕生により「ホト(女性器)」にやけどを負ったことになっている。神話には女性器を神秘的なものとし、しばしば登場する。女性器のような割れ目のある岩や木の幹を神が宿るものとして信仰の対象になることも多い。

 

また、天皇(大王)の資質として生殖能力の高さを称える話は多い。雄略天皇などは、一夜だけまぐわった(性交した)女性の子が我が子とは認めない時、部下が「その時は一晩に何度行ったのですか。」と問えば「7度」と答えている。部下は「7度も営みを重ねれば子が生じもするでしょう。」と、大王の精力の強さを強調している。また、上古の天皇などは100歳以上の長寿を称えているが、有力豪族に皇子・皇女を与えて血縁ネットワークを構築するために子の多さも褒め称えている。

恋歌」(こいうた)の意味

さらに、万葉集に多くみられる「恋歌」には、「寝る」などと、セックスを連想する淫靡な表現が多く出てくる。女を見かければ誘う(いざなう)のは当たり前の事であったようだ。ナンパは決して卑しいことではないのだ。

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953回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑨

2023-01-24 08:25:37 | 日記

その2 皇室権力を確たるものにする為、殺戮が繰り返された。

「その為後継者もいなくなり、事実上の女性天皇が継いだ。古代も女性が国を助けたのだ。」

天皇家のルーツとは。日本人と天皇の歴史を探る | 家系図作成の ...

 現在の定説では、雄略天皇(河内王朝)は、「倭の五王」の讃・珍・済・興・武の内、最後の倭王武とされている。昭和53年に話題となった埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣が検証の結果、西暦471年のものと判明し「ワカタケル大王」の実在が判明し、関東地域まで朝廷(大王)の支配が及んでいたことも分かった。画期的大発見は、、当時、一大古代史ブームを呼んだ。記紀では「悪行の主なり」と、暴君の極みであるように書かれていて、戦国時代の信長を彷彿とさせる天皇なのだが、前時代を否定し新時代の幕開けを演出したある種の英雄でもある。(そのあたり日経連載小説「ワカタケル」池澤夏樹氏著に詳しい)自らの支配権を確立するためには手段を選ばず、あえて殺戮も辞さなかった。しかし皮肉にも、その後わずか20~30年で河内王朝は滅んで、数代を経て継体天皇の出現を見るのである。信長の破壊活動が、結果的に短期間に、秀吉を経て家康の天下泰平を演出したことに似ているような気がする。

雄略天皇 - Wikipedia雄略天皇

それでは雄略天皇の悪行とは何か。まず、兄の安康天皇を殺害した敵(かたき)の目弱王を討つとして殺しそれを匿った豪族も一網打尽に殺害し、その協力を渋った兄たち2人をも殺す。その後反対しそうな一族たちをだまし討ちで皆殺しにした。信長も驚くほどの残忍さで自らの王権を確立した。当時の権力争いはイコール殺戮の時代だった。やったらやり返される命を懸けた政争の時代だった。その結果、王権の強さや支配圏の拡大を見たが、あまりにも殺しすぎて、結果的に後継にすべき親族内の人材も居なくなったのだ。これも信長、秀吉同様、時代を切り開いた人間にありがちな猜疑心の強さからか、部下を含む実力者を悉く滅ぼしてしまったのだ。雄略天皇には後の清寧天皇という子がいたが、夭折しそのほかに適当な後継者はいなかった。

注目すべきは、「飯豊皇女」と言う方が、天皇の代わりを務めていたらしい事だ。しかし女帝とは言わず「称制」とした。大事なのは、この時代すでに天皇は男子であること、血統の繋がらない豪族が天皇になることはないという考え方が出来ていた事だ。この飯豊皇女、日本書紀には、「夫とは一度だけ性交しその後は2度と男と交わろうとしなかった。」と書いてある。すでに結婚していて処女とは言えないがその神秘性を強調したのだろう。何か卑弥呼のような存在感を感じる。確か、卑弥呼の後継者は壱与(イヨ)・台与(トヨ)で、飯豊(イイトヨ)と音が似ている。関係性はあるのだろうか。まだ、妖術的能力で政治を治める時代だったのだ。しかし、その後顕宗天皇・仁賢天皇と実在すら疑われる天皇で繋ぎ、暴君「武烈天皇」で、まったく後継者のいない時を迎える。皇室歴史上最初で最大の危機である。

陵墓地形図 武烈天皇傍丘磐杯丘北陵 奈良県の陵墓 : 関東の古墳 ...

 

※「倭の五王」

倭の五王(わのごおう)は、中国の『宋書』に登場する倭国の五代の王、讃・珍・済・興・武をいう。『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代天皇の誰に該当するかについては諸説ある

※「飯豊皇女」

第22代清寧天皇亡きあと、忍海高木角刺宮において政務を執り行ったことが「古事記」、「日本書紀」に記録されています。歴代天皇の系譜には記載がありません。しかし、記紀の記述内容を読み込めば、飯豊は短期間とはいえ大王(天皇)の地位にあったと考えることはごく自然なことだと思われます。平安時代の書物である「扶桑略記」には第23代天皇として「飯豊天皇」の名があげられています。以上葛城市HPから

※顕宗天皇・仁賢天皇

履中天皇の孫で兄弟。父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄弟共に逃亡して身を隠した。播磨国明石で牛馬の飼育に携わっていたが、雄略の子、清寧天皇崩御後、探し出して二人を宮中に迎え入れた。その間は飯豊皇女が執政し、譲り合った結果、まず弟王が即位(顕宗天皇)し、そのあと兄の仁賢天皇が即位した。

 

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