⑤ 皇位継承の決定権が武家に委ねられた結果の両統迭立
御嵯峨天皇 2系統迭立へ
次に、鎌倉時代後期の両統迭立から南北朝戦乱へと時代も注目だ。ここまで見て来たように親子相続をしているうちは良いが、兄弟相続を行えば必ずその後は「兄の子(皇統)」か「弟の子(皇統)」かで必ず争いは起こる。しかし、88代後嵯峨天皇の場合は後継者を自ら決められない事情があった。82代後鳥羽上皇の承久の乱の記憶がまだ残る頃だった為、幕府が主導して幕府に反乱の意思が薄かった皇子の血統から後嵯峨天皇を選んだ為、自らの二人の子のどちらの血統に継いでいくかが決められなかったので、幕府に委ねたのだ。皇室が自ら後継を決められない事態になっていた。この結果、2系統交互の皇位継承と定めた。大覚寺統、持明院統の両統迭立の始まりだ。しかも幕府自体も元寇を挟んで北条得宗家の権力基盤の弱体化が進み、朝廷(公家)・幕府(武家)両方の内部抗争が激化して行く。ある公家の日記に、「帝位の事、なほ東夷(あずまえびす)の計(はかり)なり。末代の事、悲しむべし。」と嘆いていて、結果、2系統は幕府が鎌倉から室町に移る時には、後醍醐天皇を担ぐ北朝と、足利尊氏が担ぐ北朝系天皇のそれぞれが正統の朝廷と主張しあった。挙句には「観応の擾乱」という尊氏と弟の直義の争いが南北朝を巻き込み敵味方が入り乱れる時代と言う「末代
⑥ 皇室権威の衰退
「建武の新政」 後醍醐天皇
後醍醐天皇は希代の傑物で、空前絶後の天皇だ。その建武新政は、前進的だったのか単なる復古政治だったのかは評価が分かれるが、いずれにしても「天皇の時代」と言う意味では別格の時代である。そして南北朝統一後は、皇室の権威は財政難とともに著しく低下した。もはや皇位は争うものではなくなった。遂に、戦国時代には、即位式どころか後土御門天皇が崩御しても子の後柏原天皇などは、朝廷に資金がなく大喪の礼すら出来ない時代を迎える。最近の大河ドラマでも御所の筑地塀が破壊されて路地から直接御所に出入り出来るシーンがあったが、誇張ではない。当然、応仁の乱から戦国時代の103代後土御門天皇から107代後陽成天皇まで5名の天皇は、譲位し院政を行うことも出来ず、結果皇室の権威を示すすべはなかった。従ってそれぞれの在位は平均30年を超えることになる。この間、天皇は歴史の表舞台には出て来ない。それどころか宮中行事の多くがこの時代に一旦断絶している。かろうじて、正親町天皇が織田信長に、後陽成天皇は秀吉に支援を受けているが、これは下剋上による天下統一にはせめて天皇の権威も無くてはならないものであった為である。「錦の御旗」は辛うじて成り上がり者の権威付けにはなったのである。決して、天皇を廃して自分が天皇になろうとした者はいなかった。