アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

936回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ②

2023-01-06 08:50:20 | 日記

光格天皇の胞衣塚 京都市上京区

第2章・寛政度御所再建の経緯

 ここから2つの事件を追いかけるが、その経緯を最も詳しく伝えている文献としては、以下に紹介する徳富蘇峰の『松平定信時代』を取り上げる。そして、その先行研究(通説)へ疑問を呈する様々な研究成果をさらに見て行く。

☆松平定信登場

松平定信 - Wikipedia

「寛政度御所再建」とは、御所千度参りの翌年の天明8年、後に「天明の大火」と言われる大火事で焼失した御所を、小規模の再建で済まそうとする幕府に、平安時代の古式に則って大規模に再建したいという朝廷の意向が対立したが、交渉の結果朝廷の主張通りになった件である。

そこには、松平定信が重要な人物として登場する。『松平定信時代』(徳富蘇峰著 平泉澄校訂  講談社学術文庫1983年)(徳富蘇峰 脱稿 大正14年1925年)の冒頭に蘇峰は、「予はもし今日の日本に、松平定信ほどの政治家が居たらばと、幾回か追慕し、幾回か嗟嘆する。」と言い、さらに「徳川幕府260年間における、唯一と言わざるまでも、賢相の一であった。」と書いていて、その結論は、「而して比較的に功多くして過ち少なき政治家を求めれば、何人もまず松平定信に屈するのほかあるまい。」と最高の評価を与えている。彼の施政の時代の3大事件を、①対内問題(寛政の改革を前提にした綱紀粛清)②対朝廷問題(皇居経営と尊号事件)③対外問題(外国船打ち払いなど)とし、③は任期途中となったが、「もし彼をして今少し長く相位にあらしめれば、彼は必ず相当の施設を成した。」というほど、前2課題は完璧に行ったと言っている。

御所造営については、最後に定信が「新制度は、履霜の漸(※)おそるべければ、已後御新制の儀は、所司代にてかたく御ことわり申し上げ然るべく、」(『樂翁公伝』を蘇峰が下し文にしたもの)と、朝廷に対して強く申し送るよう指示している。しかし、そのことについては、上記発言を記載する程度であった為、尊王意識の高い定信が、「費用を惜しまず古刹に則った」御所造営を行ったという通説につながったと思われる。

※ 前兆を見て災難を避けよという意味(霜が降りればやがて氷が張る)

☆藤田覚の研究

災い転じて福となした裏松光世の大内裏考証 | 京都発! ふらっと ...大内裏図考証より

その通説に踏み込んだのが、藤田覚氏で、『松平定信』(藤田覚 中公新書 1993年)の第2章「御所造営問題」から、その経緯を見ると、「天明の大火」後、早々2月には、老中松平定信は勘定奉行を京都に派遣し市民に金銀・米三千俵を貸与している。3月には自分が御所再建の総責任者を命じられ、財政の逼迫から小規模の再建に留めようとする。その幕府に対して朝廷は、裏松固禅の『大内裏図考証』をもとに「古儀」を用い大規模に再建することを決定し、4月には幕府に伝える。朝幕間の見解の決定的対立の中、5月には、定信が上京し関白鷹司輔平と会談する。その時に提出された文書(『松平定教文書』を参考に藤田氏が要約したもの)から定信の考えを箇条書きで書く。

  • 将軍(家斉)からは早急に取り掛かるように指示されている。
  • 幕府の窮状を関白には正直に伝える事。
  • その原因は田沼時代の失敗である事。
  • この度の事(大火)はその再建途上でタイミングが悪い。
  • 進退窮まった窮状に朝廷の協力を求めたい。
  • 民衆の油と血で御所を建てることは、前年の御所お千度参りの主旨に反するし、大嘗祭の時の「御仁恵の御製」(※)にも反する。
  • もし質素の規範を示すなら「御宮室の御善美」である。

以上の7点の内、特に⑥は「脅し」であり⑦は「おだて」である。老中松平定信の老獪な交渉手法がうかがえる。

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※御製2首

みのかひはなにいのるべき朝な夕な 民やすかれとおもふばかりを 

たみ草に露のなさけをかけよかし 世をもまもりの国のつかさは

 

 また、重要なこととして、関白鷹司輔平が「大いによろこばれて今にして公武御したしみの処もくまなく侍るべし。」として、それ以降、「当職中は御書付など度々下し給いけり。」と『宇下人言』(うげのひとこと)【定信の自叙伝。誕生から老中辞任までの記載、題名は定信の字を分解したもの。】に記されていることだ。この後、しばしば輔平と定信の文書による情報交換がポイントとなって来る。その後、8月には、定信から計画の縮小要求があるものの、輔平は、多少の計画縮小には応じるが基本的には朝廷側のプラン通り応じるよう求める。10月には、定信から「朝廷の要求通り」と伝えて来る。それに応えて、輔平は、「輔平に於いてはいかばかり恐悦、深く畏まり承り候」と応えている。朝廷の要求が通ったのである。

この時、定信が周囲に言った、「巳後御新制の儀は所司代にて固く御ことわり申し上げ然るべし」『宇下人言』については、定信の無念・今後への強い姿勢を読み取ることが出来る(藤田氏)と、この辺りの見解は蘇峰氏と異なる。

さらに、藤田氏は『宇下人言』の記載内容から、定信は、御所造営を幕府財政の回復・再建という福に転じる成算もあったとの見解を述べている。事実、その後工事が始まると、地固めの作業は、裏店の老人や10歳以上の子供にやらせて救済している。「関東の御仁恵立ち候えば、御威光も別して広大」と、『宇下人言』にも書いている。つまり、御所造営を幕府の威光強化と経済的救済に利用したもので、ここでも定信のしたたかさがうかがえる。

早くも、翌寛政2年11月には、光格天皇は新御所に還幸している。幕府(定信)は、不本意ながら復古的な御所再建をせざるを得なかったのだ。つまり「御所お千度参り」同様、朝廷への崇敬の姿勢を示さざるを得ない状況があった。(藤田氏『松平定信』129ページ)と、従来の、定信の「尊王心の発露」であったとか、「費用を惜しまず古刹に則った造営」という評価に疑問を呈した。

さらに、同氏『近世政治史と天皇』(吉川弘文館1999年 第4章)でも、松平定信及び御所造営への通説的理解の修正を行っている。まず、いくつかの史料を読み解き、裏松光世が正式に諮問を受けたのが4月1日で、光格天皇から「古儀」を用いる事への「勅問」が下され、「御尤」とされたのが4月3日であり、早い段階で平安朝の古儀を用いた新内裏採用は決まっていた事を解明し、前権大納言広橋伊光が定信に宛てた書付には、「天皇の長年の念願」であったことや、「諸般の事情を考慮して、紫宸殿と清涼殿と承明門」をまず造営したいこと、「女院御所の敷地面積の建坪の増加」などが要求されている。この書付は3月22日であったことから、焼失直後から御所再建は朝廷の朝議祭祀の再興や復興・朝廷権威強化の努力の一環である事が分かる。

 

  • 光格天皇の御親裁

 

また、藤田氏は8月7日付の定信の書付に対する輔平の返信を読み解いて、

  • 図面が出来上がった時の矢先の縮小要求だったので心中穏やかでない。
  • 延引・縮小共に努力はしているが難しい。
  • 女院・仙洞御所の縮小は難しい。
  • (千度参りで)窮民救済を申し入れた経緯もあるので、遠慮なく縮小要求をして欲しい。
  • 天皇が早くから、近臣を補佐にして諸事を親裁するという近来にない朝廷の状況にある

以上の5点にまとめている。(同1999年 150ページ)それからは、関白輔平においての複雑な心情がうかがえる。筆者は特に、⑤で、光格天皇がいよいよ自ら判断を下す力強い様子がうかがえて重要な箇所だと考える。

以上、幕府(松平定信)が朝廷に押され、復古的な造営をせざるを得なくなったという「真相」が明らかになった。つまりは「御所千度参り」と合わせて2連敗の結果となった。一方で、藤田氏は幕府が朝廷の要求をのんだ背景や朝廷崇拝の必要性を解明することが次の課題とした。注目したいのは、「寛政度御所再建」において光格天皇が、「御所千度参り」の時に比べて主体的に意思を示され御親裁を行う様子がうかがえたことである。

 

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