アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

956回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑫

2023-01-26 11:02:04 | 日記

 

その5 継体天皇の意味  継体天皇以降は女系天皇?

継体天皇の倭(やまと)入り|日本の歴史 解説音声つき

 継体天皇の皇位継承は、現代の皇位継承議論の大いに参考になる。継体が応神天皇から5世隔てた子孫であるとされたことから、当然、地方の有力豪族による王朝交代説が疑われている。しかし重要なのは天皇の血筋であることが天皇の条件であったことだ。記紀の記載に非現実的な記載があることは否定できない。しかし、王朝(皇室)はその後を考えて最大限の努力をしている。それは、王妃だ。継体もその子の安閑天皇・宣化天皇もともに王妃には、2代前の仁賢天皇の皇女を迎えている。つまり男系ではないが、女系(天皇の実子である女性)で繋ごうと必死の策をとっている。結果、宣化天皇との間に生まれた石比姫命と継体のもう一人の子である欽明天皇とが結婚し男子(敏達天皇)を産んでいる。ややこしい話だが、女系では見事に血統は繋がった。嫁と姑が姉妹という事になるが、古代では近親相関が多く、むしろ高貴な血筋はその血脈の中で守って行こうと考えていた。

 現在の皇室典範では、女系天皇は認めないがむしろ古代では女系天皇も女性天皇もあったという事を知っておきたい。ただし、その為には重要な原則として現在ではありえない血の濃い結婚が繰り返された事と、さらに歴史の改ざんがあったことは認めざるを得ない。ただし、後者は現代でもあるようだ。

 しかし、まだまだ豪族たちが天皇の地位を奪うチャンスはあった。九州地方などに大きな内乱があった事や、継体天皇崩御後、兄弟たちで皇位を争うがこともあったようだ。継体が苦労して大和に入る過程で力を付けた新興勢力の蘇我氏が推す欽明天皇と、大伴氏・物部氏が推す安閑天皇と宣化天皇とが対立した。それぞれの朝廷が並立した可能性もある。安閑・宣化天皇の在位がそれぞれ4年であり当時では短命すぎる事と、お二人とも相次いで亡くなっていることから、争いは短期的に収束したようだ。重要なのは、豪族が権力を争うのは、どの天皇を担ぐかであり、自らが天皇の地位を奪いあうのではない事だ。戦争に至るまで、有力豪族は自らの血筋の女性を天皇に送り込んで天皇の祖父の立場を目論む時代になって行く。

 従って、天皇が絶対的権力を武力によって保持するという時代も変化する。豪族に担がれた欽明天皇は、豪族たちの合議制によって政治が決められていて、天皇発案の新羅征伐は却下され、また仏教を取り入れることにも長く反対された。このように他国では当たり前である前の王朝を武力で滅ぼして新たな王朝が立ち上がる王朝革命はなく、万世一系の天皇を頂く日本の国家形態(国体)が確立したのがこの時代だ。鎌倉時代に慈円が『愚管抄』で述べたように「この日本国は初めより王胤は外へ移ることなし。」と、単に個人的器量のみが国王になれる要素ではないことはこの時代に成立した。また、慈円は、継体天皇の即位についても、「武烈失せ給いて継体天皇を臣下どもの求めに応じて参らせし、」と、悪い王を替え適任の王を立てたのでその結果これらの天皇の子孫は今に至るまで皇位を継ぎ栄えていると称えている。決して謀反や革命とは言っていない。

古墳を巡り、継体天皇の謎を考える ④即位の力の源泉は鉄 ...

 そしてその後、数々の皇位継承の危機での重要な先例となった。その際の重要なことは、①いかなる場合でも天皇家以外の人物が即位してはならない、②抜きんでた勢力を持った臣下の者がいても決して天皇にはならない。のである。また、継体天皇は臣下によって推戴された初めての天皇としても重要な先例となって行く。

 

 

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955回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑪

2023-01-26 10:46:46 | 日記

その4 継体天皇の登場 「皇統が変わる時前天皇を貶める歴史改ざんは当たり前?」

日本書紀上NO.1の暴君!武烈天皇の本当だったらヤバすぎる ...武烈天皇

  ここまでで、古代から男系男子で繋ぐ「万世一系」の原則を確認しつつ、女性天皇で危機を乗り越えて来た事実を書いた。ダイバシティーを先取りする皇室の歴史が分かった。

 さて、河内王朝(百舌鳥古墳群の辺り)の最後の天皇である武烈天皇は、誠に勇ましい尊号だが、「悪逆非道」の天皇と言われている。これは、中国にある辛酉革命の考え方で、「王朝の最後は徳の無い大王だったので、仕方なく次は有徳の大王が新王朝を立ち上げた。」ことにしたのである。例えば、北条幕府最後の執権北条高時、足利幕府最後の将軍義昭など、政権交代にはよくある話で、特に創作の多い「日本書紀」の記載はそのまま信じられない。現代の財務省始め高級官僚の公的文書改ざんなど可愛いものだ。

 さらに、「日本書紀」には、武烈天皇崩御後、大連大伴金村という豪族の長が、仲哀天皇5世の孫、倭彦王に大王としてお迎えに行ったところ、倭彦王は「迎えに来た兵を見て恐れて山谷に逃げた。」と、一方、応神天皇5世孫の男大迹(おほど)王は、「慈悲深く孝行篤い人格で、兵を整え礼を尽くして迎えに行くと、泰然自若としてすでにもう大王のようだった。」ので、一同忠誠を尽くすことを誓ったという。このあたりも架空の物語を創作した可能性が高い。ただ、不思議なのは継体天皇がまず、樟葉宮(現在の枚方)に入った事だ。大和の地を踏むのは、その後20年を要する。これは継体にとっては不利な話なので、事実に基づくと思う。

 聖王と称えられた仁徳天皇ではなく、その親である応神天皇の5世の孫としたのは、仁徳王朝の否定でありやはり、王朝交代があったと考えるべきかも知れない。しかし、あまた有力豪族がいる中で極めて薄いとはいえ同じ血族の男子を指名した事、王朝交代という解釈にはしなかった事、あくまでも男系にこだわった事、さらに、取り巻きの豪族の長たちが実質の政権運営を行っていたらしい事など、その後の皇室継承の原則と世界に例のない政権運営システムの原型がうかがえる。重要なのは、決して武力だけで天皇になるわけではないということだ。

 一方、仁徳天皇の血統をつなぐ王たちも存在したはずであり、恐らくそれらを担ぐ抵抗勢力との間に20年の長きにわたる闘争があったのだ。継体天皇は即位時すでに57歳で、20年かけて大和に入った時はすでに82歳で、崩御するまでわずか4~5年しかなかった。嘘も誠もありながら、今に続く皇統の伝統的継承の始まりはこの天皇のもとで実現したということだ。この事は大変重要なことだ。

漫画】第26代「継体天皇」 |20人の天皇で読み解く日本史 ...

  • 「武烈天皇の悪逆非道」日本書紀より現代語訳

妊婦の腹を裂いてその胎児を見た。

人の爪を抜いて、芋を掘らせた。

人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落とし殺して面白がった。

人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。

人を木に登らせて、弓で射落として笑った。

女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して女らの面前で馬に交尾させた。女性器を調べ、潤っているもの(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった。

筆者注・明らかに悪意のある他愛もない創作に思える。中国の殷の紂王(酒池肉林の逸話で有名)に似た話がある。

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