第3章の① 尊号一件の経緯
☆尊号事件の発端
閑院宮典仁親王
尊号事件とは、光格天皇の実の父君である閑院宮典仁親王が、天皇の実父でありながら朝廷での席順が、古来より三公(※)の下であり、さらに、「禁中並公家諸法度」によって定められていた。これを解決するためには、禁中並公家諸法度の改定か典仁親王に尊号を贈るしかなかった。尊号とは、太上天皇の事で、普通は譲位した後の天皇に与えられる。因みに天皇にならず尊号を贈られた例は2例しかなく、承久の時代の後高倉院(守貞親王)が、子の茂仁親王が後堀河天皇になったことで贈られた例と、南北朝時代に後崇光院(貞成親王)が、後小松天皇の猶子となり子の彦仁親王が後花園天皇となったことにより贈られた2例のみである。光格天皇は、前例があることを理由に執拗に幕府に対して尊号宣下を許可するよう迫ったのである。
※ 三公とは、太政大臣・左大臣・右大臣のこと。従来から親王より上位に位置付けられていた。
☆事件の経緯(前半)
天明2年~寛政2年
その経過をまず、『松平定信時代』(徳富蘇峰 著 平泉澄 校訂 講談社学術文庫 1983年)から、その概要を見ていく。蘇峰は、冒頭「例言」において「大半は、松平定信自筆の文書による。」と書いているので、自伝である『宇下人言』また、定信の伝記である『樂翁公伝』(渋沢栄一 岩波書店、1937年)を引用している。尊号問題に関しては、全20章の内、第11章から第19章までと多くのページを使っている。
まず、光格天皇は、即位後早い段階から尊号宣下への叡慮を示されていて、早くも天明2年天皇12歳の時にその意向を表明されている。天皇が幼い事もあり幕府は、「ゆくゆく御沙汰の有無は、相量られ難く」と、様子を見る事になり、天明4年に閑院宮典仁親王一代に限り千石の加増を決めている。さらに天明7年にも尊号宣下の「御内慮も仰せ」られるが、この年大嘗祭が行われることもあり、「彼是御延引に相成り」という状況だった。さらに翌年天明8年にも「御沙汰も在らせられる」意向だったのだが、天明の大火という「図らずも火災」に遭い見合わせていたが、父君「段々御高年に及ばれ」と、55歳になった典仁親王の年齢を心配する光格天皇を忖度して、朝廷は幕府に「宸襟を安んぜされたく」と迫った。翌年寛政元年2月、武家伝奏(※)が京都所司代に伝え、さらに8月には江戸老中に伝わった事で、遂に表向きの事件となった。寛政元年は光格天皇19歳の時である。
※室町~江戸時代に武家から朝廷に願い出ることを伝達奏聞する朝廷の役職名。江戸時代には定員2名で,納言,参議から選任された。慶応3 (1867) 年廃止。(ブリタニア国際大百科事典より)
一方、注目すべきは、「寛政度御所再建」の時の天明8年5月に老中松平定信と関白鷹司輔平とが会談して以降、しばしば書面で両者のやり取りがあった事である。従ってこの時、「寝耳に水ではなかったであろう」老中・幕閣はすぐに評定し、寛政元年11月には、「御名器は御私の物にこれ無き」と言い、「和漢の先蹤などかき集め」たうえで、「容易ならざる義につき」と再考を促した。要は体よく御拒絶したのである。以降同様の回答を繰り返す。
翌年寛政2年3月、関白輔平が返書を送り、定信に対し「和漢の先蹤」を調査した内容を送るよう求めた。翌年正月になり、輔平は、送られた定信の調査書に対し「尤も至極の義感心候」と、称えたものの「何卒今一応賢慮あるまじきや」と、再考を願って返信して来た。この間、先例の解釈について詳しく論じてもいる。朝廷からも「小一条院の議」という代替案のような提案もあったが、定信は「御見合わせの方と存じ奉り」と拒否した。幕府は再び、閑院宮一代限りの千石追加を決めた。
因みに、小一条院とは、先の2例以外に、第67代三条天皇の第一皇子である敦明親王のことで、自分の権力強化の為に外祖父の地位を確保したい藤原道長の圧力の前に、自ら皇太子を辞退し、その代わり准太上天皇としての待遇を得た先例である。
☆事件の経緯(後半)
寛政3年~寛政4年
引き続き『松平定信時代』を参考にする。幕府の決定直後の寛政3年8月、関白輔平が辞職する。後任は幕府に不満を持つ一条輝良となった。その直後、光格天皇は、自ら参議以上の諸公卿に諮問(勅問)した。答申の結果は、35名中意見保留が3名、反対は2名でそれはすでに前関白となっていた鷹司輔平親子のみだった。ただし、自らを「浅膚の才、愚衷の誠、」で「宜しく天裁に在るべきなり。」と、婉曲した表現での反対表明だった。一方、中山愛親や広橋伊光始め賛成派は、その鼻息概して荒きもの多い、という結果だった。光格天皇は一層その意を強くしたと思われる。
そこで早々に、寛政4年正月に武家伝奏から所司代に「宸襟安からず、院慮も御同様の御事」として、後桜町上皇(女性)の意向も合わせて伝えている。一方、その天皇の強い意志は前関白輔平が別途書面にて定信に伝えている。従って、定信は、驚きはなく「御国体にとり、容易ならざる儀」として対応している。同年2月には所司代に返答し、「もし、宣下の儀すれば、関白・議奏の類は誅罰取り計らう。そして閑院宮にはご辞退いただく。」こと、そしてそれは「極意の事なり」と強い意志を伝えている。しかしこの時点では朝廷側は、まだ江戸の断固拒絶の真相は知らなかった。もしかしたら前関白輔平は知っていたかも知れない。(筆者)
さらに6月には、武家伝奏から所司代に督促する。その文中には、閑院宮典仁親王が、「昨年冬に中風を発症し改善しつつも此の節再び発症した」ことを伝えて、尊号宣下の件を「猶更御心急ぎに思し召され候。」と、閑院宮の高齢(59歳)と病気を理由に天皇の本気度と焦る気持ちを伝えている。しかし幕府はこれに対しても、病状を尋ねるのみで肝心の返事はしなかった。そこで遂に、朝廷は「8月3日武家伝奏、所司代に示談の趣」『中山日記』で、期限を区切り高圧的に督促に及んだ。これに対して定信は、将軍に伺ったうえで、所司代大田備中守が病にて辞職した後任の堀田相模守に「宣下の儀は、決して無用に遊ばさるべき旨」伝える。
京都からも、武家伝奏を通じて「弁ぱく的(※)回答」で、縷々正統性を訴えた後、「是非11月上旬には、宣下せらるべく候。」と随分と高圧的文面で応じている。一方、江戸からは、松平和泉守信明を上洛させ、朝廷が強行した場合「所司代に申し談じ、伝奏衆・議奏衆相招き尋問する。」しかない事を明言した。これは、定信のあくまでも天皇ではなく「不忠のものを退ける」方針である。この事を、幕府は、いかに京都の勢力が台頭していたか想像に足るとし、また、この京都の自主的行動を、半ば意外、半ば危険とした。
※相手の過ちを突き反論する『デジタル大辞典』
9月には、定信は将軍に伺い書を奉り、尊号宣下について議論するより、尊号論の巨魁・急先鋒を江戸に呼びそれを処分する方針を決める。正親町前大納言、中山前大納言、広橋前大納言の三名を決定していた。京都は、返信を待ちきれず所司代へ「11月の宣下」の沙汰書を送るが、所司代はそれを返上し、江戸に伺い書を送り指示を願うという、まさに切迫した状況になる。ここで、定信は、逆に老中が京都に召喚される事がないように将軍や御三卿・一橋治済にも根回しを行っている。これは、朝廷が「元禄・享保の時代と違い。」今は、「皇室の威信を実証せんとするの気運は、すでに勃々然として、禦ぐべからざる勢いを示した。」と感じていて、それを定信が警戒したものであるとしている。
母親代わりの後桜町天皇は義理の叔母にあたる
遂に、10月になり朝廷は、尊号宣下見合わせ・新嘗祭の親祭を中止・3卿の江戸下向の拒否を決定する。光格天皇が、「万斛の恨みを呑み給い、」わずかに3卿下向の拒否で、「御憤懣の万が一を癒させ給う。」としたもので、つまりは尊号宣下のみを諦める事で決着しようとした。
また、ここで後桜町上皇が、女房奉書として萬里小路政房と正親町公明へ「(前半略) まずまず此の上彼是あらせられ候はぬ方およろしく、御機嫌よく、穏やかに、御代御長久に在らせられ候が、第一の御孝行さまと覚しめし候故、御両卿もこなたの覚しめし御承り置きのようにと、内々両人より申せとてに候。」『正親町公明紀』と、間接的ではあるが、光格天皇を諭している。「主上の一徹の思し召しを緩和」するように、取り巻きの重臣に進言するように命じたものとして重要なポイントである。ここで、「京都の気焔は、漸次沈静に帰したる趣きがあった。」のである。光格天皇への後桜町上皇の影響力と、以前、「院慮も御同様の御事」としていた時からの上皇の御考えの変化も興味深い。つづく